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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

彼女と私の事情

作者: 市松龍

 

 ゆず、と愛称で呼んでしまうのは慣れではなく惰性だ。帯刀楪、というパッと読めない姓名。タテワキユズリハ、と読む。を、長いし面倒だからゆずって呼んでくださいね、だとか自分の可愛さをよく理解した仕草と合わせて告げられたのがはるか昔のことに感じる。

 同時勤めていた飲食店にバイトとしてやってきた可愛い年下の女の子だったゆずは、いつの間にか私、黒崎棗の彼女になって、更に気付けば私の雇い主で居候先の家主になって、今は元彼女になった。七年。も、あるいは、しか。私とゆずは一緒だったのかと思うと眩暈がする。性別がどうとか年齢差がどうとかは瑣末な問題だったのに、それとは全然関係の無い、本当にしようの無い理由で破局した私ちちは多分、ありふれた恋人同士だった。きっと。多分。


 だから私はほんの軽い気持ちでもってつい先日出ていったゆずの部屋に忘れものをした事実に気付いて、そしてそれを何の気なしに取りに行ったのが致命的な間違いであったと気付くのは玄関先で知らない女の靴を目視、まじかよと思いつつも寝室に突撃して致しているところにバッティングしてからだった。馬鹿である。


 訪ねる前に連絡はいれた。LINEとメールで。既読は付かなかった。それはいい。いやしかしな、と、ご親切に電話までしたら、あっさり出て、電話越しの帯刀さんは切羽詰まった、言葉を濁さずに言うと喘ぎ声なんじゃねぇのみたいななんかもう凄い吐息まじりにあぁ、うん、いいよ、きて。と言うもんだから行ったら彼女とにゃんにゃんしてたのです。うん、知ってた。



 狸寝入りをキメるゆずを尻目に彼女と普通に話しをして、彼女はじゃあ私帰りますって帰っていったのを、私から部屋の鍵をふんだくって追いかけていった楪は最高にダサかった。ベッドの脇に放られている明らかに使用済みのティッシュがお互いの惨めさに拍車を掛ける。そういえばこの部屋のティッシュは無駄にローションティッシュだったなぁだなんて場違いな事を思うくらいには、私のよく知った空間なのに、凡そ一月前まではなんならあのベッドの上でそのローションティッシュで事後処理をしたりされたりしていたのは私なのに、言ってしまえば三年半、私はここに居たのに。今この空間に私の存在を匂わすものはなにもない。

 スーツケースひとつでこの部屋に転がり込んでスーツケースひとつで出て行ったんだから当たり前っちゃあ当たり前だろうが、三年半という月日の間に染み付いた空気感みたいなものすら残っていなかった。ひとりで延々と掃除をしたであろうゆずはやっぱり最高にダサくて情けなくて、なんならさみしくて少しくらいめそめそしたんじゃないかと思うとチクチクと心が痛む。

 棗ちゃんもういい加減にしてよ、そんなに私を貶めたいの? もういい、鍵返して。

 子供が癇癪起こしたみたいにぴーぴー騒ぐゆずは裸にパーカーを羽織っただけのラフ過ぎる格好のまま糾弾してきた辺りでそんなつもりは全く無かったのにやっぱり我慢出来ずにぴーぴーぴーぴー五月蝿ぇんだよ取り敢えずパンツ履けよ! 別にあなたが誰を連れ込んでナニしようが構わないんだけど、最後くらいちゃんとしろよ三年半だよ? 言っちゃえば七年だよ? 最後くらいさぁ、幻滅させないでよ。もう少しひとの感情をさ、慮りなよ。私はまぁ、もういいさ。いや、よくないんだけどねでも今日で最後だしさ、諦めるわ。でもあんたあのこになんて言うの?私が勝手に騒いでるだけとかもう通じないんだからちゃんとしなよ。おまえは昔から顔しか良くないんだからそんなブサイクなツラしてんじゃねぇよ眉間にシワより過ぎなんだけど苛々しないでくれる? てゆうかだからパンツくらい履けっつってんじゃん! と、わーわー言い返したら棗ちゃんがクソうるさいからパンツ履く暇がないんだよ!なに今更! 妬むのやめなよ! だいたい棗ちゃんが悪いんじゃんかなんで来るの? 空気読めよ本当にさぁ、意味わかんないんですけどまじ勘弁して欲しいわ!

 裸パーカーで地団駄踏みそうな勢いの楪がいい加減寒かったんだかで可愛らしいくしゃみをするもんだからお前こそ空気読めやと喉まできたのを飲み下してそんなアホみたいな格好でぴーぴー言ってるからだよパンツ履け。と本日三回目のパンツ履けに応じて苛々しながら楪がベッドサイドに投げ散らかされていた白いパンツを拾って億劫そうに足を通すのをぼんやり眺めていると、こいつ見た目だけならこんなに可愛いのにどうして中身がこんなにクズなんだろうかと考えてしまう。

 可愛くてかわいそうな帯刀さん。

 ひとりで一生懸命、延々とこの部屋に残る私の痕跡をひとつひとつ丁寧に、執拗に消していったであろう帯刀さん。


 ふたりで選んだ唯一の品があの素敵なクイーンサイズのベッドである事も、今し方足を通した白地にパールグレーとブルーのやたらと凝った刺繍の施された下着が今年の誕生日に私から楪に贈ったものであることを知らずにそこで、それを脱がせたんだか脱ぐのを見ていたんだかな彼女も、帯刀さんにとってはどれも同じようにどうでもいいものなのかも知れないけれど、私にとってはこうなってしまった今でもそれはなんなら良い思い出だしその時は楽しかったしなにより幸せ感じてみたりとかしたのだ。彼女だって、一般的な性的思考の壁を超えて、このクズとセックスするくらいなんだから好きは好きなんだろう。その思い出だったり気持ちだったりに、どうしてこいつは泥を塗るような事を平気でしてしまえるんだろう。


「棗ちゃん、鍵返して」


 いつの間にやら服まで着ていた楪さんが不機嫌さを隠しもしない苛ついた声でぶっきらぼうに言うのに反応が返せなかったのは、未練由来なのか憤怒なのか、なんだかよくわからないがただひたすらに虚しくてかなしくて対外的な機能が省エネモードだったからなのだけど楪は単純に私が無視した、と受け取ったであろう。怒りとも悲しみとも、はたまた諦念とも取れる歪な表情で私から鍵をふんだくって彼女を追い掛けに行ってしまった。多分私も同じようなカオをしているに違いない。

 もうおしまいにしよう。

 私も、ゆずも、幸せなんてものは似合わないんだ。三年半、よく続いたわ。


 うまく納得しようとしている自分が惨めで、今までありがとうとかせめて欲しかったとかあんなやつに求めてしまった自分が愚かで、それでもまだあんなクズを許してしまえる自分が情けなくて、ひとり取り残された元恋人の他人とまぐわった後の湿っぽい事後の空気が澱んで停滞している思い出の詰まった素敵なクイーンサイズのベッドの前で、ひとりになって、泣いた。

 なにかが壊れてしまったんじゃないかってくらいに後から後から大粒の涙がポロポロどころかボロンボロン溢れてくる。眼球が熱くて溶け出しそうだった。溢れて止まらない涙を、ローションティッシュで抑える。どこをどんなに濡らしたってあの女がそれをどうこうすることはきっともう無いんだろうし、無くてはいけない。

 納得なんてひとつも出来ないじゃないか。


 縫い付けられたようにその場から動けず、立ち尽くしたままただひたすらに涙だけが流れ落ちていた。

 かなしいとか、さみしいとか、いとしいとか、それらも全部流れ落ちてしまえばいい。


 緩慢な動作で左耳にひとつだけ着いているピアスを外して、手の平で転がせばそれは幽かな光を浴びてキラキラと眩いばかりに輝いた。


 ーープラチナにダイヤでティファニーだしニコイチだし、あんまり主張しないし、可愛いし、なにより棗ちゃんに似合うから指輪じゃなくてこっちがいいなぁ。ほら、普段からしてられるし、ね。


 おそろいだよ! うん、そうだろうね。うれしい。ノリ気じゃなかった癖に。でもやっぱりうれしい。よかったでしょ。うん、帰ったら嵌めてね。はいはい、私にもね。もちろん!



 さよなら、私のポラリス。


 愛されることが出来ないなんてことはないと、示してあげたかったのだと、どうすれば伝わったんだろう。





 誰を追いかけたらいいのかわからなくなって途方に暮れる。

 棗ちゃん、唯ちゃん、つないだ手は解けてしまった。

 棗ちゃんはかなしそうだった。唯ちゃんは実際のところよくわからない。ただ私のことが好きだというから、傍においただけだった。


 本当はだいすきだ。ずっと傍にいて欲しいけれど、棗ちゃんは子どもが欲しいって言っていたし、あの人には正しく幸せになって欲しい。

 養子でも、他所で仕込んでくるでも、子どもを手に入れる方法自体はいくらでもある。この世は金だと、帯刀の家のものは言って憚らなかったが、実際金さえ積めばなんとかなりはする。

 それでもだ。ないものねだりなのはわかっている、私が失った憧れのものをあの人はもつ資格があるし、子どもには私みたいになって欲しくない。ちゃんと愛されて育って欲しいしそうであるべきだ。愛されたくて愛されたくて愛されかたがわからないとか他人の気持ちが汲めないとかやさしさが足りないとか、情緒だかなんだかが欠けたガラクタみたいな私が、顔しか良くない私が、金しか持っていない私が、一般的な幸せな家族を知らない私が、奪うことしか出来ない私が、これ以上あの人の人生を踏み荒らしてしまわないように。

 私がひとりでいればいい。

 七年間ほんとうにほんとうにありがとう。最初はこのババアまじでクソウゼェとか思ってたけど、叱ってくれるひとは新鮮だった。褒めてもくれたね。棘だらけの私はきっとたくさんあなたを傷付けたでしょう。その度に言い争いからの物理で殴る、みたいなケンカもしたけど、あなたは上手に私を許した。ごめんなさい。多分私、ちゃんと謝ったことってあんまりないと思う。ごめんね。

 あなたが擦り傷生傷だらけになって、たくさん私に与えてくれたものが愛情なのでしょう。はじめて自分以外の誰かの為になにかしたいと思えたこの脆く儚い不安定な感情が、愛だとか言っちゃうんでしょう。だいすきなんです。ほんとうに、本当は。

 指輪が欲しいだなんてなんて可愛いひとなんだろうと思ったけど、なんだって買ってあげたかったけど、それはちょっと私には眩し過ぎた。幸せそうな雰囲気が息苦しかった弱い私が叶えてあげられなかった願いは他にもたくさんあっただろう。どうしてこんなに苦しいのかと考えあぐねていた答えは、終わることへの恐怖だった。


 ずっとなんて無理だよ。

 もういい、もう充分だ。たくさん貰った。七年だ。そのうちの三年半で返せないくらいに貰いすぎた。だからもういい。あとは嫌いになってくれていい。私のことは全部忘れていい。私が全部覚えている。私は思い出だけで生きていける。あなたのなかで何度だって殺されよう。甘んじて罰をうけよう。写真付きの年賀状で私の息の根をとめてよ。



 住宅街の路地をでたらめに全力で走って、最終的に逃げ込んだ先はマセラティの車内だった。

 後部座席で革張りのシートに横たわる。は、は、と肩で息をするのも汗で張り付く髪も全てが煩わしい。こんなに走ったのなんて久しぶりだ。心臓の音がうるさい。熱い。事後か、吐息交じりのクソみたいなひとりごとは虚しく車内に響く。

 棗ちゃんは脚を跨がせて膝立ちでするのが好きだったなとか今思い出さなくてもいいことがぽんぽん浮かぶ。自分で動いて、とか言うから健気に腰を振った若かりし経験値の低い私を褒めてあげたい。あなたの指より太いのなんて入んないよバカじゃないのとか言っていた私が懐かしい。上手に出来ると棗ちゃんは褒めてくれたけど。やだ泣きそう。しにそう。


 その後物凄い筋肉痛に見舞われたのがくやしくてちょっとジム通いした私は大概あたまおかしい。

 次々浮かんでくる思い出たちは余計に私をさみしくさせた。隣には誰もいない。

 さむい。

 起きあがって運転席に座る。右隣には真っ赤なBMW。あの綺麗なお姉さんの隣には誰が居るんだろう。ひとりじゃないといいな。


 バカバカしいことがしたい気分だ。最高に最低な気分だ。

 エンジンをかけて、一呼吸。

 暫くの間、どこか遠くへ行こうとだけで決めて車を出した。


 ゆずの部屋に忘れものをしたのがいけなかった。

 そしてそれを取りに行ったのがさらによくなかった。


 ご親切に電話までしたら、電話越しの帯刀さんは切羽詰まった、言葉を濁さずに言うと喘ぎ声なんじゃねぇのみたいななんかもう凄い吐息まじりにあぁ、うん、いいよ、きて。と言うもんだから行ったら彼女とにゃんにゃんしてたのです。うん、知ってた。



 狸寝入りをキメるゆずを尻目に彼女と普通に話しをして、彼女はじゃあ私帰りますって帰っていったのを、私から部屋の鍵をふんだくって追いかけていった楪は最高にダサかった。ベッドの脇に放られている明らかに使用済みのティッシュがお互いの惨めさに拍車を掛ける。そういえばこの部屋のティッシュは無駄にローションティッシュだったなぁだなんて場違いな事を思うくらいには、私のよく知った空間なのに、凡そ一月前まではなんならあのベッドの上でそのローションティッシュで事後処理をしたりされたりしていたのは私なのに、言ってしまえば三年半、私はここに居たのに。今この空間に私の存在を匂わすものはなにもない。

 スーツケースひとつでこの部屋に転がり込んでスーツケースひとつで出て行ったんだから当たり前っちゃあ当たり前だろうが、三年半という月日の間に染み付いた空気感みたいなものすら残っていなかった。ひとりで延々と掃除をしたであろうゆずはやっぱり最高にダサくて情けなくて、なんならさみしくて少しくらいめそめそしたんじゃないかと思うとチクチクと心が痛む。

 棗ちゃんもういい加減にしてよ、そんなに私を貶めたいの?もういい、鍵返して。

 子供が癇癪起こしたみたいにぴーぴー騒ぐゆずは裸にパーカーを羽織っただけのラフ過ぎる格好のまま糾弾してきた辺りでそんなつもりは全く無かったのにやっぱり我慢出来ずにぴーぴーぴーぴー五月蝿ぇんだよ取り敢えずパンツ履けよ!別にあなたが誰を連れ込んでナニしようが構わないんだけど、最後くらいちゃんとしろよ三年半だよ?言っちゃえば七年だよ?最後くらいさぁ、幻滅させないでよ。もう少しひとの感情をさ、慮りなよ。私はまぁ、もういいさ。いや、よくないんだけどねでも今日で最後だしさ、諦めるわ。でもあんたあのこになんて言うの?私が勝手に騒いでるだけとかもう通じないんだからちゃんとしなよ。おまえは昔から顔しか良くないんだからそんなブサイクなツラしてんじゃねぇよ眉間にシワより過ぎなんだけど苛々しないでくれる?てゆうかだからパンツくらい履けっつってんじゃん!と、わーわー言い返したら棗ちゃんがクソうるさいからパンツ履く暇がないんだよ!なに今更!妬むのやめなよ!だいたい棗ちゃんが悪いんじゃんかなんで来るの?空気読めよ本当にさぁ、意味わかんないんですけどまじ勘弁して欲しいわ!

 裸パーカーで地団駄踏みそうな勢いの楪がいい加減寒かったんだかで可愛らしいくしゃみをするもんだからお前こそ空気読めやと喉まできたのを飲み下してそんなアホみたいな格好でぴーぴー言ってるからだよパンツ履け。と本日三回目のパンツ履けに応じて苛々しながら楪がベッドサイドに投げ散らかされていた白いパンツを拾って億劫そうに足を通すのをぼんやり眺めていると、こいつ見た目だけならこんなに可愛いのにどうして中身がこんなにクズなんだろうかと考えてしまう。

 可愛くてかわいそうな帯刀さん。

 ひとりで一生懸命、延々とこの部屋に残る私の痕跡をひとつひとつ丁寧に、執拗に消していったであろう帯刀さん。


 ふたりで選んだ唯一の品があの素敵なクイーンサイズのベッドである事も、今し方足を通した白地にパールグレーとブルーのやたらと凝った刺繍の施された下着が今年の誕生日に私から楪に贈ったものであることを知らずにそこで、それを脱がせたんだか脱ぐのを見ていたんだかな彼女も、帯刀さんにとってはどれも同じようにどうでもいいものなのかも知れないけれど、私にとってはこうなってしまった今でもそれはなんなら良い思い出だしその時は楽しかったしなにより幸せ感じてみたりとかしたのだ。彼女だって、一般的な性的思考の壁を超えて、このクズとセックスするくらいなんだから好きは好きなんだろう。その思い出だったり気持ちだったりに、どうしてこいつは泥を塗るような事を平気でしてしまえるんだろう。


「棗ちゃん、鍵返して」


 いつの間にやら服まで着ていた楪さんが不機嫌さを隠しもしない苛ついた声でぶっきらぼうに言うのに反応が返せなかったのは、未練由来なのか憤怒なのか、なんだかよくわからないがただひたすらに虚しくてかなしくて対外的な機能が省エネモードだったからなのだけど楪は単純に私が無視した、と受け取ったであろう。怒りとも悲しみとも、はたまた諦念とも取れる歪な表情で私から鍵をふんだくって彼女を追い掛けに行ってしまった。多分私も同じようなカオをしているに違いない。

 もうおしまいにしよう。

 私も、ゆずも、幸せなんてものは似合わないんだ。三年半、よく続いたわ。


 うまく納得しようとしている自分が惨めで、今までありがとうとかせめて欲しかったとかあんなやつに求めてしまった自分が愚かで、それでもまだあんなクズを許してしまえる自分が情けなくて、ひとり取り残された元恋人の他人とまぐわった後の湿っぽい事後の空気が澱んで停滞している思い出の詰まった素敵なクイーンサイズのベッドの前で、ひとりになって、泣いた。

 なにかが壊れてしまったんじゃないかってくらいに後から後から大粒の涙がポロポロどころかボロンボロン溢れてくる。眼球が熱くて溶け出しそうだった。溢れて止まらない涙を、ローションティッシュで抑える。どこをどんなに濡らしたってあの女がそれをどうこうすることはきっともう無いんだろうし、無くてはいけない。

 納得なんてひとつも出来ないじゃないか。


 縫い付けられたようにその場から動けず、立ち尽くしたままただひたすらに涙だけが流れ落ちていた。

 かなしいとか、さみしいとか、いとしいとか、それらも全部流れ落ちてしまえばいい。


 緩慢な動作で左耳にひとつだけ着いているピアスを外して、手の平で転がせばそれは幽かな光を浴びてキラキラと眩いばかりに輝いた。


 ーープラチナにダイヤでティファニーだしニコイチだし、あんまり主張しないし、可愛いし、なにより棗ちゃんに似合うから指輪じゃなくてこっちがいいなぁ。ほら、普段からしてられるし、ね。


 おそろいだよ!うん、そうだろうね。うれしい。ノリ気じゃなかった癖に。でもやっぱりうれしい。よかったでしょ。うん、帰ったら嵌めてね。はいはい、私にもね。もちろん!



 さよなら、私のポラリス。


 愛されることが出来ないなんてことはないと、示してあげたかったのだと、どうすれば伝わったんだろう。





 誰を追いかけたらいいのかわからなくなって途方に暮れる。

 棗ちゃん、唯ちゃん、つないだ手は解けてしまった。

 棗ちゃんはかなしそうだった。唯ちゃんは実際のところよくわからない。ただ私のことが好きだというから、傍においただけだった。


 本当はだいすきだ。ずっと傍にいて欲しいけれど、棗ちゃんは子どもが欲しいって言っていたし、あの人には正しく幸せになって欲しい。

 養子でも、他所で仕込んでくるでも、子どもを手に入れる方法自体はいくらでもある。この世は金だと、帯刀の家のものは言って憚らなかったが、実際金さえ積めばなんとかなりはする。

 それでもだ。ないものねだりなのはわかっている、私が失った憧れのものをあの人はもつ資格があるし、子どもには私みたいになって欲しくない。ちゃんと愛されて育って欲しいしそうであるべきだ。愛されたくて愛されたくて愛されかたがわからないとか他人の気持ちが汲めないとかやさしさが足りないとか、情緒だかなんだかが欠けたガラクタみたいな私が、顔しか良くない私が、金しか持っていない私が、一般的な幸せな家族を知らない私が、奪うことしか出来ない私が、これ以上あの人の人生を踏み荒らしてしまわないように。

 私がひとりでいればいい。

 七年間ほんとうにほんとうにありがとう。最初はこのババアまじでクソウゼェとか思ってたけど、叱ってくれるひとは新鮮だった。褒めてもくれたね。棘だらけの私はきっとたくさんあなたを傷付けたでしょう。その度に言い争いからの物理で殴る、みたいなケンカもしたけど、あなたは上手に私を許した。ごめんなさい。多分私、ちゃんと謝ったことってあんまりないと思う。ごめんね。

 あなたが擦り傷生傷だらけになって、たくさん私に与えてくれたものが愛情なのでしょう。はじめて自分以外の誰かの為になにかしたいと思えたこの脆く儚い不安定な感情が、愛だとか言っちゃうんでしょう。だいすきなんです。ほんとうに、本当は。

 指輪が欲しいだなんてなんて可愛いひとなんだろうと思ったけど、なんだって買ってあげたかったけど、それはちょっと私には眩し過ぎた。幸せそうな雰囲気が息苦しかった弱い私が叶えてあげられなかった願いは他にもたくさんあっただろう。どうしてこんなに苦しいのかと考えあぐねていた答えは、終わることへの恐怖だった。


 ずっとなんて無理だよ。

 もういい、もう充分だ。たくさん貰った。七年だ。そのうちの三年半で返せないくらいに貰いすぎた。だからもういい。あとは嫌いになってくれていい。私のことは全部忘れていい。私が全部覚えている。私は思い出だけで生きていける。あなたのなかで何度だって殺されよう。甘んじて罰をうけよう。写真付きの年賀状で私の息の根をとめてよ。



 住宅街の路地をでたらめに全力で走って、最終的に逃げ込んだ先はマセラティの車内だった。

 後部座席で革張りのシートに横たわる。は、は、と肩で息をするのも汗で張り付く髪も全てが煩わしい。こんなに走ったのなんて久しぶりだ。心臓の音がうるさい。熱い。事後か、吐息交じりのクソみたいなひとりごとは虚しく車内に響く。

 棗ちゃんは脚を跨がせて膝立ちでするのが好きだったなとか今思い出さなくてもいいことがぽんぽん浮かぶ。自分で動いて、とか言うから健気に腰を振った若かりし経験値の低い私を褒めてあげたい。あなたの指より太いのなんて入んないよバカじゃないのとか言っていた私が懐かしい。上手に出来ると棗ちゃんは褒めてくれたけど。やだ泣きそう。しにそう。


 その後物凄い筋肉痛に見舞われたのがくやしくてちょっとジム通いした私は大概あたまおかしい。

 次々浮かんでくる思い出たちは余計に私をさみしくさせた。隣には誰もいない。

 さむい。

 起きあがって運転席に座る。右隣には真っ赤なBMW。あの綺麗なお姉さんの隣には誰が居るんだろう。ひとりじゃないといいな。


 バカバカしいことがしたい気分だ。最高に最低な気分だ。

 エンジンをかけて、一呼吸。

 暫くの間、どこか遠くへ行こうとだけで決めて車を出した。


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