俺は未来から逃げ出した
広間はメイドと執事、その他にもアーダルベルト邸に仕える者たちでごった返していた。皆一様に不安そうな表情をしている。廊下と広間をつなぐ扉は開けっ放しで、そこを慌ただしく行き来する人の流れが途絶えることはない。
「姿が見当たらないだと!?」
「誰か行方を知るものはいないのか!!!」
「旦那様と奥方様に連絡を!!」
「レガン様、レガン様!?」
「貴様ら、直ちに探し出せ!! 明日は兄さんの大事な日だぞ!!!」
鋭い声が広いホールに響き渡る。声の主はラルク・アーダルハイド───レガンの弟───その人だ。彼はレガンによく似た顔を今は酷く歪ませ、怒りをあらわにしていた。
事の始まりはレガンのお付きのメイドがどこにもレガン様が見当たらないとこぼした事から始まった。きっとこの広い屋敷内、あなたが探し切れていないだけよと同じくレガンのお付きのメイドが言っていたが、夕食の時間を過ぎても、レガン本人は一向に姿を現さなかった。
ここでレガンにとっての幸運を挙げるならば、その日、レガンの両親は彼らの古い友人に招かれて屋敷を留守にしていた。そしてもう一つ。その日は雨だった。重い雲は一向に避ける様子はない。雨は魔の力を弱くした。その天の恵みに身を晒せば効果はもっと強くなる。レガンはそのチャンスを逃しはしない。皆の魔力が弱まっている時、つまりはレガンの身を魔力で探し出せない時を彼は狙ったのだ。
ザアザアと雨は降り続いている。
ラルクは曇天を憎々しげに睨みつけ、それから舌打ちをこぼした。こんな雨じゃ「姿探」の魔法も使えやしない。もし仮に使えたとして、いったいこの雨で魔の力はなんの姿を映し出すというのか。
「……兄さん、一体どこに…」
ギチリと噛み締めた奥歯がなる。兄であるレガンは(ラルクから見て)とても優秀な人だった。もしかしたら兄の優秀さを妬む愚か者が彼を浚っていってしまったのかもしれない。
明日は兄の生誕祭を大々的に行う予定だ。しかし、当の本人がいない生誕祭なんてどこを探してもないに決まっている。聞いた事すらない。……目立つことを極端に嫌う兄だからもしかしたらどこかに身を潜めているのかもしれない。あの人は息を殺すように生活していたから。
「…………」
自分は兄の考えている事などわからない。俺よりも暗い色をしたその目はいつも絶望を描いていた。何に絶望しているのか、何が兄をそんなに苦しめているというのか。俺にはさっぱり理解できなかった。だが、つい最近、そんな兄の目が生気を灯していた時があった。兄のあんな顔、俺は初めて見た。丁度一週間くらい前だっただろうか。
「………………」
ちらりと窓を見やる。雨が先ほどより強くなっているような気がした。
こんな日に兄は外へ行ったと言うのだろうか。兄の部屋は荒らされた形跡がなかった。兄が抵抗したような痕跡も、ましてや”余所者”が入ったという形跡さえも、見つかりはしなかった。
”兄は自らの足でこの屋敷から出て行った”。そう考えるのが普通だった。
そこでふと、兄に仕えていたメイドと執事がいっていたのを思い出す。奴らは本当に嬉しそうに”最近、レガン様がとても生き生きしているように感じます。”と、そう言っていた。
それを聞いて、俺も父も母も、どれだけ嬉しかった事か。
きっと兄は知らないに違いない。
「ーーー兄さんは馬鹿だ。大馬鹿ものだ」
そう、小さく呟いて踵を返す。ラルク様どちらへ? というその声に振り返らないままに言い放った。
「自分で探す!!!」
玄関の大きな扉を開け放つ。途端に顔に落ちる大きな粒にひんやりとした空気。後ろでお風邪を引いてしまいますと騒ぐ声を無視して、俺は土砂降りの中を駆け出した。
*
「はあっ、はあっ、はあっ、」
黒い外套を羽織った男が深い山の中を一目散にかけていく。こんな土砂降りの日に外に出ているような酔狂なものはなく、男は誰の目に止まる事なく国の外へ繋がる森の中へと足を踏み入れた。あまり光の入らない森の中はほぼ暗闇に近く、先はほとんど見えない。しかし男はそれを気にする素振りも見せなかった。
ぬかるんだ地面と冷たい雨が男の体力をグングン奪っていくが、男は気にした様子もない。男の目は真っ直ぐに前を向いている。
「───ははっ、」
男の外套がズルリと滑り落ちた。男の口は弧を描いていて、びしょ濡れであるにもかかわらず男はなおも笑うのをやめない。
「ああ、やっとでられた、」
男───レガンはその笑みをより一層深くした。
自分を含め、辺り一面びしょ濡れで、視界も悪ければ足下も悪い。そんな状況下にもかかわらず、レガンの気分は最高だった。
今までの短い人生でこんな事をするのは初めてで、国の外にでると言うことも、どんな環境で、どんな生態系をしていて、どんな人が居て、どんな生活があって、それから、それから───
レガンにとってこの国、いや、この世界は未知のものでいっぱいだった。屋敷の図書室や学園の図書室、国の保持する大きな図書館にまで足を運び、レガンは調べに調べ尽くした。だが、本に書いてあることが全てではないとレガンは知っている。今までのどんな時間よりも未来が分からないのに彼は幸せと希望いうものを感じていた。
「どんなに劣悪な環境だってかまわない。おれは、まだ、死にたくない」
森は奥へと続いている。先は見えない。
「邪魔するやつは全てなぎ払ってやろう」
目を爛々と輝かせ、ニヤリと笑うその姿は正真正銘"悪者"であったが、それが彼の通常運転である。
レガンは暗闇続く森の中を奥へ、奥へと進んでいった。…後ろを振り返ることもせずに。
*
ピシッ、
"ナニカ"が結界を抜けて、国の外へ足を踏み入れたのを感じた。
「「───レガン…?」」
幼なじみたちは作業していた手を止め、ふと顔を上げた。外はまだ雨が降り続いている。なぜ今自分が友の名を口に出したのか、本人たちには到底分からなかった。そんな気がした、ただそれだけのことだった。
「嫌な予感がする」
国の第一王子であるアルベルトはポツリと言葉をこぼした。その端正な顔をゆがめ、ぱちぱちと瞬きを数度繰り返す。勘なんて宛てにならないものを信じているというわけではないが、アルベルトの感じた嫌な予感はなかなか頭から離れなかった。
いつも生きづらそうにしていた彼の身に、もしかしたら何かあったのかもしれない。
「……けど、探す術がないな…」
姿探をしようにも、こんな土砂降りでは良い結果は見込めない。どんなに魔力が強かろうとも、この雨の前では皆力を発揮することができないと昔から決まっていた。現に、皆から感じる魔力はいつもよりだいぶ低い。
「明日それとなく聞いてみるしかないかな」
そうしよう、と読みかけの本へと手を伸ばす。しかし、アルベルトがその本の続きを読むことは適わなかった。
コンコン、
「はいれ」
「はっ、失礼いたします殿下」
慌ただしく入ってきた執事に黙ったまま視線を向ければ彼は焦ったように話し始めた。
「アーダルベルト領、バルド・アーダルベルト様のご子息、レガン・アーダルベルト様が行方不明であるとの話が先ほどラルク様より───」
「ああ、」
「嫌な予感はしていたんだ」
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