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5. 形見と義理

 義母の名代は、香水のきつい親戚夫人である。


 伯爵家の遠縁で、大奥様の茶飲み仲間だという触れ込みである。山査子の家の応接間に通すなり、彼女は値踏みの目で天井から床までを一往復させた。


「まあ……思ったより、ちゃんとしたお家ですこと」


「故人の祖母の家ですので」


「そうそう、その話ですのよ」


 夫人は扇を開いて、身を乗り出した。


「形見分けの儀、と申し上げましたけれどね。伯爵家としては、亡き奥様のお身の回りの品を、ご縁者のあなたにもお分けしたいの。ありがたいでしょう?」


「まあ、ご丁寧に」


 言いながら、目録らしき紙を出してくる。象牙の櫛、一。肩掛け、二。祈祷書、一。見覚えのある品書きである。どれも、あの別邸に置いてきた私の持ち物だ。四年間で増えたものが、この一枚に収まる量しかないという事実のほうに、うっかり感心してしまった。


「それでね。その、代わりと申しては何ですけれど――このお家。亡き奥様のお祖母様のお家は、いずれ伯爵家がお預かりして、供養のよすがにしてはどうかと、大奥様が仰っていて」


 来た。


 形見の小物と引き換えに、家を寄越せという算段である。しかも口ぶりからして、寄越せと言っているのは義母――大奥様その人だ。あの家で私が使っていた櫛だの肩掛けだのと、祖母の家一軒を、釣り合うとお思いらしい。


「大奥様は、それはそれは、亡き奥様を悼んでおいでで」


「さようでございましょうねえ」


 悼んでいるでしょうとも。毎晩、露見の夢を見るくらいには。


 私は茶を注ぎ足し、にっこりと申し上げた。


「ですけれど、あいにくですわ。故人に義理はございませんの」


「……は?」


「亡き奥様は、伯爵家に何のご恩もお持ちでないでしょう、と申し上げましたの。四年間、別邸で誰にもお会いにならず、何も与えられず。ご葬儀だけは、たいそう立派にしていただいたそうですけれど」


 夫人の扇が、ぱちりと止まり、こちらを覗き込んでくる。


「そそそ、葬儀、葬儀よ! あれに大変な費えを……」


「それにこの家、凍っておりますのよ」


 私はそう言って静かにお茶を口に含む。


「凍って……?」


「遺言の執行が済むまで、誰にも渡せない決まりですの。執行人はバルドゥイン子爵様。ご不服でしたら、公証人のヴェンツェル先生と、教会の文書庫をお相手になさいませ」


 教会、のところで夫人の顔色が変わった。なるほど、通告状の中身は、あの家の中では知れ渡っているらしい。


「きょ、教会だなんて、大袈裟な。こちらは善意で」


「まあ嬉しい。では善意だけ、頂戴いたしますわ。お品物とお家は、結構ですので」


 深い、深い礼。夫人は何度か口を開閉させ、扇をせわしなく動かしながら帰っていった。廊下に残った香水の匂いが消えるまで、窓を開け放しておく。山査子の生垣を抜けてきた風は、雨の匂いがした。


       ◇


 リンデンタール伯爵家の墓所に、新しい石が立った。先代よりも、先々代よりも立派な、磨き上げた白大理石である。石屋には「亡き妻への、せめてもの」と語ったという。ダンクマールは近ごろ、石屋にばかり金払いがいい。夜、書斎の窓から墓所の方角を見ては、カーテンを閉める。それが、日課になりつつある。石屋の請求書だけが、几帳面に増えていく。


       ◇


 夕方、店じまいの刻限に、空が破れた。


 夏の走りの、大粒の夕立である。帳場の(ひさし)の下で雨宿りをしていたら、隣に大きな影が並んだ。例の、生真面目な日傘が、頭の上に差しかかる。


「お帰りですか? 送ります」


「日傘で、雨を、ですの?」


「傘は傘です」


 まっすぐな理屈である。二人でひとつの傘に入り、水たまりを避けながら歩いた。石畳を打つ雨の音が、傘の布一枚向こうで鳴っている。傘は小さく、彼の右肩はぐっしょり濡れて、それでも傘は、きっちり私の側に傾いていた。


「……子爵様。濡れてらっしゃいますわよ」


「か、管理人が風邪を引くと、家が困ります」


 視線をこちらに向けることもなく言い放つ。


「まあ。家のためですの」


「そう、家のためです」


 家のため、と言った耳が、少し赤い気がしたけれど、雨の夕方は何もかも色が濃く見えるものである。詮索はやめておく。


     ◇


 山査子の生垣を過ぎ、玄関のひさしまで来て傘を出る。


 彼は濡れた肩を手巾で慌ててぬぐった。


 礼を言いかけて、ふと思いつく。


「その手巾、お借りしてよろしいかしら? お返しがてら、洗って干しておきますわ」


「お、おぉ! そ、それは助かりますな。では、金曜に!」


「では、金曜に……」


 彼が雨の中を帰っていく。まっすぐな背中が、角を曲がって見えなくなる。


 私は台所で手帳を開き、ペンを執って――一度、止まった。


 弔いの日付と、仕入れの刻限。そこに書き足そうとしているのは、初めての、約束の日付である。誰かと会う約束。四年間、この手が一度も書いたことのなかった種類の、一行である。


 書きかけて、やめようか、と思う。約束というものは、あてにすると、外れたときに痛い。四年の別邸暮らしで身につけた、欲しがる前に諦めておく癖である。ペン先が頁の上で迷って――それから、私は思い出す――。


 わたくし、死んだのだった。


 死んだ女に、いまさら用心するものなど、何ひとつないのである。


『金曜、手巾をお返しする』


 書いてしまえば、ただの一行である。ただの一行が、妙に、頁の上で明るい。


 ――その晩、花市の当番小屋で、若い衆がひとつ噂話を仕入れてきたそうだ。曰く。


「閉店後の花市に、白い影が出る」


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