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14. 夏の夜市

 予定帳の今日の行には、『夜市』とある。


 書いたのは何日も前なのに、頁のこのあたりだけ、ずっと小さな灯りがついているようだった。予定というものは、書いた日から当日まで、二度楽しめる仕掛けらしい。四年前の私が聞いたら、目を丸くする話である。


 日が落ちて、川沿いの通りは灯りの川になった。提灯の列が水面に映って揺れ、揚げ菓子の鍋が音を立て、手回しオルガンは景気よく調子をはずしている。砂糖の焦げる匂い、川の水の匂い、どこかの子の吹く笛。川風が、昼の熱の残る石畳を撫でていく。人いきれと蜜の匂いの間を、日傘の人――今夜は傘を畳んでいる――と連れ立って歩いた。


 入り口の屋台で、串焼きを一本ずつ買う。買い食いは、故人にできないことの第一号である。夜市の串は、春の昼のそれより、いくらか誇らしげに熱い。


「故人の夜遊びは、初めてですか?」


「ええ。生前も、初めてですけれど」


 屋台の並びで、威勢のいい声に呼び止められた。


「おや、達筆さんじゃないか!」


 揚げ菓子の鍋から身を乗り出したのは、帳場の常連の、世話焼きで知られたおかみさんである。


「ちょうどよかった。ねえあんた、うちの甥っ子に会っておくれよ。橋向こうの粉屋でね、働き者で、字ぃの書ける嫁さんを探してんの。あんたみたいな達筆、独り身にしとくのは勿体ないよ」


「まあ、ご親切に」


 私は揚げ菓子の紙袋を、扇の代わりに胸の前でぱたりと閉じた。


「あいにく、故人ですので。縁談は、生前に懲りましたの」


「……あんた、変わった人だねえ!」


 おかみさんは呆気にとられ、それから豪快に笑って、揚げたてを一つおまけしてくれた。悪気のない人の縁談は、断り心地まで軽い。


 隣で、串が止まっていた。


 買い食いの串を口に運びかけた姿勢のまま、ひと呼吸ぶん。すぐに何事もなかったように動き出したから、気のせいかもしれない。夜市の灯りは、何もかも少し大きく見せるのである。


       ◇


 芝居小屋は、川端の掛け小屋である。


 木戸銭(きどせん)を払って、平土間(ひらどま)の長椅子に並んで座る。伯爵夫人は、こういう場所には座らない。座れない。故人は、座れる。詰め合って座る造りのぶん、隣の肩が近いのは、平土間のせいである。


 口上役が出てきて、張り扇を鳴らした。


「さあさ、お立ち会い。始まりは人違いのお笑い一席――と、その前に。近ごろ王都で怖い話と申せば、皆さまご存じ、伯爵家の幽霊!」


 客席がどっと沸き、隣とふたり、思わず顔を見合わせた。噂もここまで来ると、立派な演し物(だしもの)である。ご本人としては、木戸銭のいくらかを頂きたいところである。


 演目は、瓜二つの従僕が入れ替わる笑劇である。舞台端の蝋燭が役者の顔を下から照らし、埃と白粉(おしろい)と汗の匂いが、灯りの熱と一緒に客席まで降りてくる。隣の席は職人の一家で、子どもが三人、開幕前から笑う気で満々である。


 入れ替わった先で寝床と夕食が倍になったり、二人の主人に同時に呼ばれて廊下を右往左往したり、他愛ないといえば他愛ない。他愛ないのに、気づけば私は、声を立てて笑っていた。


 思えば四年、笑い声というものを出していない。別邸に可笑しいことがなかったからでは、たぶん、ない。笑い声というのは、聞く人がいて初めて出る音なのだ。あの家には、それがいなかった。それだけのことだったのだと、平土間の笑いの渦の中で、いまさら分かる。


 三幕目の途中で、隣がこちらを見ているのに気づいた。


「……なんですの?」


「いえ」


 彼は舞台へ目を戻し、生真面目な横顔のまま言った。


「故人は、よく笑いますな」


「……生前の分ですわ」


 言ってから、二人とも、少し黙った。舞台の上では従僕が三人目の主人に出くわして、客席は大笑いである。笑いの渦のまんなかで、生前、という二文字だけが、ぽつんと重い。四年の中身を、この人は問わない。問わないまま、隣で同じ演目に笑っている。それで、十分なのである。


       ◇


 はねたあと、屋台で蜜掛けの揚げ菓子をもう二つ買った。


「故人のお口に、合いますか?」


「熱うございますわ。……ですから、おいしいの」


 焼きたては指に熱くて、二人して紙袋を持ち替え持ち替え歩く。熱いものを分け合うのは、生きている者の芸である。橋の上で川風に吹かれると、汗の引いた首すじに、夜がやっと涼しい。


「次の演目は、ひと月先だそうです」


「あら。人違いの、お続きかしら?」


「今度は、取り違えた恋文が三通り出るとか」


「まあ。忙しいこと」


 街灯の下で足を止め、手帳を開いた。提灯の残り灯りで、頁がほんのり橙色である。『次の演目、川端の小屋』。書く手は、もう止まらない。未来の日付というものに、ペン先がすっかり慣れてしまった。慣れる日が来るなんて、春の私に教えても、きっと信じない。


 ――別れ際である。


 橋のたもとまで来たところで、向こうから提灯が駆けてきた。息を切らした使いの男が、彼の前で膝に手をつく。


「も、申し上げます。御実家筋の伯母君様が、お屋敷にてお待ちかねでございます。その……ご縁談の儀、と伺ってございます」


 縁談。


 夜市の灯りが、その二文字の向こうで、すうっと一段、遠くなった――。


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