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12. 奥様!

 訛りの主が帳場に現れたのは、半月ばかりのちのことである。


 小柄な、風呂敷包みを抱えた年配の女である。木綿の旅着に、几帳面な繕いのあと。帳場の前で何度も膝を折り、遠慮がちに切り出した。


「あの……月々の、お花をお願いしたいんです。ほんの、少ぉしでええんです。あて、大したお金は持っとりませんけど」


「お届け先は?」


「北の丘の墓地でございます。リンデンタールの、奥様のお墓へ」


 ペンが、止まった。


 伯爵家は倍の花を頼んでくる。噂見物の客は魔除けの白を買っていく。けれど、なけなしの財布から月々の花を、と言った人は、この帳場に初めてである。


 顔を、上げた。上げて、しまったのである。


 女の目が私を捉えて、見開かれていく。風呂敷包みが、腕からするりと落ちた。


「……お、奥さ――」


「――人違いで、ございましょう」


 言いながら、私はもう帳場を回り込んでいた。風呂敷を拾い、女の腕を取り、市場の裏手へ。ズザンネ。別邸の女中頭。四年、あの音のない家で、人の声というものを絶やさずにいてくれた、ただひとりの人である。


 物置の納屋には、麻紐と朝の花の匂いがこもっている。


 扉を閉めるなり、ズザンネは前掛けで顔を覆って泣き出した。声を殺して、肩だけ震わせて。泣きやむのを待つ間に、私は空き樽をふたつ並べて席を作る。ロザリンデ嬢のときと同じ、当帳場自慢の応接間である。


「奥様……奥様、生きて……」


「しっ。……お聞きなさいな、ズザンネ」


 かいつまんで、話した。死んだのは書類の上だけであること。訂正する気は、当分ないこと。いまは「亡き夫人の遠縁・ヴェラ」であること。葬儀の日、棺の軽さに気づいた生真面目な子爵様がひとり、「では、わたしは何も見ていません」と言ってくれたこと。


 ズザンネは(はな)をすすり、前掛けを下ろし、それから背筋を伸ばした。


「あては、何も見ておりません。……あの聖具室の子爵様と、同じでございますよ」


「あなたまで巻き込むわけには」


「巻き込まれに、参りました」


 即答である。この人の即答の確かさを、私は四年ぶんの朝の膳立てで知っている。


「お墓には、もう行かれたのね?」


「へえ。着いた日に、真っ先に。ご立派なお石で、お花が山のようで――」


 そこで言葉を切り、ズザンネは膝の上の拳を握った。


「けど、あて、どうしても得心がいかんのです。あてらに暇が出たのは、『ご逝去』の前の日ですよ。見舞金をいただいて、流行病が怖いから別邸を閉める言われて。……あの朝、奥様は庭の野の花に水をやっとられた。あんなにお健やかやったのに、翌る日に亡くなったやなんて」


「触れの日付を、ご覧になったのね?」


「村に回ってきた黒枠の触れを見て、膝が抜けました。指を折って日を数えても、どうしても合わん。……せやのに、誰に言うても『流行病は急なもんや』で済まされてしもうて」


 思いのほか、近くにいたのである。日付ひとつで嘘に気づいた人が。誰にも取り合ってもらえないまま、その得心のいかなさを抱えて、なけなしの路銀で墓前の花を頼みに来た人が。


「王都へは、お参りだけにいらしたの?」


「奉公先を探しに、です。見舞金も、そろそろ心細うなりましたで。……けど、こない年やと、口入れ屋はんも渋い顔で」


 風呂敷包みひとつで、知らない王都を歩き回った半月だったらしい。それでも真っ先に墓へ行き、なけなしから月々の花を、と言うのである。この人の帳尻は、いつも情の側で合っている。


「ズザンネ。山査子の家に、女中の口がございますのよ」


「へ?」


「住み込み、賄いつき、週に銀貨一枚。……雇い主は、故人ですけれど」


「――ようございますとも」


 ズザンネはもう一度だけ前掛けを目に当て、それから、四年間で一番の早口になった。


「お掃除も、お繕いも、お庭も。それから――お茶を。奥様に、あての淹れたお茶を、一度差し上げてみたかったんです。別邸じゃ、女中頭がお茶を淹れるのは、出過ぎたことでしたで」


「……あら」


 四年、一人ぶんだった茶である。淹れる側の私しかいないと思っていた食卓に、淹れたい人が、ずっといたのである。


 目の奥が、少し熱くなった。泣くほどのことではない。ないのだけれど、この熱は、報せの朝にも、墓碑銘の前にも、来なかった種類のものである。


       ◇


 その晩の山査子の家は、湯気でできていた。


 竈には豆と塩豚の鍋。ズザンネの茶は、渋みの奥がほのかに甘い。折よく書類を抱えて現れた子爵様は、女中頭に目を留められるなり深々と頭を下げられて、往生している。


「聖具室の子爵様! 奥様が、お世話に……いえ、ヴェラ様が、お世話に」


「い、いえ。世話をされているのは、主にわたしのほうで」


「まあまあ、ようお似合い――いえ、なんでもございません。お鍋、よそいますで!」


 台所は、にわかに三人ぶんの音になった。皿の触れ合う音、鍋の湯気、繕い物の話と領地の話。四年、風の音だけだった耳に、この賑やかさは少しばかり染みる。染みて、あたたかい。


 寝る前に手帳を開いて、書き込んだ。『朝の市場、ズザンネと仕入れ』。弔いの日付で始まった頁に、家の者との予定というものが、初めて載ったのである。


 ――数日ののち、市場に一枚の刷り物が回ってきた。


『亡き伯爵夫人ヴェロニカ様 御追悼 慈善の会』


 主催は、リンデンタール伯爵家大奥様。会場は王都の集会堂。……またしても、黒い枠である。故人というのは、死んでからのほうが、社交の予定が増えるらしい。


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