第8話:ブルーシートの屋根と、銀色のギャップ萌え
神社を降りたあとは、現実的な問題が、容赦なく襲ってきた。
お金。
「なあ、ナギ」
「なに」
「お前の持ってる現金、いくらだ」
「えっと……四千円ちょっと」
「少なっ」
「しょうがないじゃん! 家出するとき、冷蔵庫のとこに置いてあったの、こっそり持ってきただけだし」
「親の財布から抜いてこなかったのか」
「それはさすがに……
置いてあったのと、財布から抜くのは違うでしょ」
「偉いのかバカなのかよくわかんねえな、お前」
「あんまり褒められてない気がする」
「褒めてねえからな」
カミヤは、ため息をひとつついてから、自分の財布を開けた。
中には、くしゃくしゃになった千円札が数枚と、小銭が少し。
「……やば」
「人狼のくせに、全然お金持ってないじゃん」
「深夜コンビニバイトをなめるな。時給は人間と一緒だ」
「もっと、こう、人ならざる財宝とかないの?」
「ねえよ。あったらとっくにニートやってる」
「神様っぽくない」
「神様じゃねえつってんだろ」
でも、笑っていられたのは、そのときまでだった。
商店街の外れにある小さな不動産屋で、「一週間だけでもいいから、安い部屋ありませんか」と聞いてみたら、「保証人は?」と一言で撃沈された。
ビジネスホテルの看板を見て、「一泊くらいなら……」とフロントに行ってみたら、料金表を見て絶望した。
「一泊七千円……」
「二人で一泊、食事なし」
「無理」
「だな」
カミヤは、受付の前で踵を返した。
「野宿、かな」
「夏だし、まだマシなほうだろ」
「虫、出るよ?」
「お前、人狼舐めてんのか」
「虫くらい、影の狼でどうにかできない?」
「贅沢な使い方させんな」
そんなやりとりをしながら、私たちは港の裏手にある防風林にたどり着いた。
松の木がいくつも並んでいて、その間に、地元の子どもたちが作ったのか、小さな秘密基地みたいな場所がある。ブルーシートと木の板で囲っただけの、簡単な空間。
「ここ、誰かの場所じゃない?」
「夜は空いてる」
「勝手に決めた」
「ダンボールとブルーシートがあるだけ、マシな寝床だ」
たしかに、そのへんのベンチで寝るよりはずっとマシだった。
ブルーシートの上に、コンビニ袋を枕代わりに置き、トートバッグを抱きしめるようにして横になる。
松の枝の隙間から、夜空が少しだけ覗いていた。さっきまで青かった空は、夕方を過ぎると急に群青色になって、やがて星がひとつ、ふたつと増えていく。
「ねえ、カミヤ」
「なんだ」
「影の狼、また見せて」
「やだ」
「なんで」
「エネルギー食う」
「どれくらい?」
「焼き鳥十本分くらい」
「意外と具体的」
「あと、あいつら使うと、眠くなる」
「じゃあ、寝る前に少しだけ」
「交渉すんな」
でも、彼はそれ以上拒まなかった。
防風林の地面に、静かに影が伸びる。
月は、まだ完全じゃないけれど、少しだけ太ってきていて、その光が地面に濃い影を落としていた。
カミヤが、指を軽く鳴らす。
その合図に応えるように、影がぐにゃりと揺れた。
「——」
息を飲む音が、自分のものなのか、世界のものなのか、わからなくなる。
黒い影から、狼がひょい、と顔を出した。
昼間の海辺で見たときと違って、防風林の薄暗い中では、そのシルエットが一層はっきりしている。
毛並みの一本一本まで、細かくは見えない。輪郭は、ところどころ煙みたいに揺らいでいるのに、不思議と「確かにそこにいる」って実感があった。
一匹、二匹、三匹——。
気づけば、五匹の狼が、私たちの周りに座り込んでいた。
「わ、近い……」
「噛まねえよ」
「わかってるけど」
一番近くにいた一匹が、すん、と私の足先の匂いを嗅いだ。
鼻先が、かすかに冷たい。
透明な存在だと思っていたのに、ちゃんと、温度がある。
「きみも、カミヤの仲間?」
問いかけると、狼は首をかしげた。
まるで、「まあ、そんなところ」と言っているみたいで、思わず笑ってしまう。
「こいつらは、俺の影に住んでるだけだ」
カミヤが、木の幹に背中を預けながら言った。
「本物の狼ってわけじゃねえ。俺が小さいころから一緒にいる、疑似人格みたいなもんだ」
「小さいころから?」
「生まれつき、こういう体質でな。影が、増えた」
「増えたって」
「子どものころに、山で迷って、死にかけたことがあってな。そのとき、自分の影に話しかけてたら、こいつらが出てきた」
「なにそれ、かわいい」
「可愛くねえよ。最初は勝手に出てきて、勝手に暴れて、人を傷つけそうになった」
彼の目が、一瞬だけ遠くを見た。
「だから、躾けた」
「躾けた?」
「噛むな。殺すな。俺が『行け』って言うまで、動くな。俺が『戻れ』って言ったら、消えろ」
簡単に言うけれど、その「躾け」にどれだけの時間と苦労がかかったのか、想像もつかない。
「……それ、誰かが教えてくれたの?」
「教えてくれるやつなんかいねえよ」
少しだけ、笑う。
「人狼ってのは、だいたい、ひとりだ」
「群れないんだ?」
「群れたら、目立つだろ」
「そっか」
影の狼の一匹が、私の膝の上に、そっと頭を乗せた。
重さは、それほどない。でも、確かな存在感がある。心臓の鼓動が、膝を通して伝わってくる気がして、胸がきゅっとなった。
「名前、あるの?」
「ない」
「かわいそう」
「必要ねえ」
「じゃあ、私がつけていい?」
「勝手に呼べ」
私は、膝に頭を乗せている狼の目を覗き込んだ。
銀色の瞳が、ぼんやりと光っている。
「じゃあ、きみは——」
少しだけ考えてから、口を開く。
「シロ」
「黒いのに?」
「逆にね。ギャップ萌え」
「……センスねえな」
「うるさい。カミヤは?」
「何が」
「名前、つけられたことある?」
「ねえよ」
「じゃあ、私が最初?」
「やめろ」
「やめない」
寝転びながら、松の枝の隙間から覗く星を数える。
「ねえ、これってさ」
「なんだ」
「修学旅行みたいだね」
「どこがだよ」
「ほら、知らない土地に泊まって、夜まで起きて、おしゃべりして。変なテンションになって、朝になったら眠くて死にそうになるやつ」
「野宿だぞ、これ」
「それはそれでレア体験」
笑いながら言ってみせる。
でも、本心だった。
あの学校の修学旅行では、きっとこんな自由はなかっただろう。決められた時間に起きて、決められた時間にバスに乗って、先生に怒られないように、みんなと同じ行動をして。
そんな「正しい修学旅行」より、今のほうがずっと、私には「青春」に思えた。
「楽しい?」
不意に、カミヤが聞いてきた。
「楽しい」
即答だった。
「怖かったけど。でも、今は楽しい」
「そうか」
「カミヤは?」
「ん」
「楽しい?」
少しだけ、間が空いた。
「……悪くねえ」
「それって、けっこう最高の褒め言葉じゃない?」
「調子乗んな」
彼の声は、少し眠そうで。影の狼たちも、ひとり、またひとりと、影の中に戻っていく。
最後に膝に頭を乗せていたシロも、名残惜しそうに私を見上げてから、するりと地面に溶けた。
「おやすみ、シロ」
誰に向かって言ったのか、自分でもわからない。
防風林に、静かな夜が降りてきた。
松の葉が、風にざわざわと揺れる音。遠くの波の音。虫の鳴き声。
その全部が、子守唄みたいだった。
「ナギ」
「ん……?」
もう意識が半分夢の中に沈みかけているとき、名前を呼ばれた。
「何」
「明日、起きても、この旅が続いてても——」
言葉が、一瞬途切れる。
「怖がるな」
「……」
「お前が怖がったら、俺のほうが困る」
なんて勝手な、と言い返そうとしたけど、口が動かなかった。
代わりに、小さく、「うん」とだけ言う。
それが、約束みたいに空気の中に溶けていった。
その夜、私は、久しぶりに、父親の怒鳴り声も、母の泣き声も聞かずに眠った。
夢の中で、海の音と、狼の遠吠えが、遠くで重なっていた。




