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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第1章:16歳、夏。人狼(カミサマ)と逃避行。

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第6話:美しすぎる予兆、失われるための海へ

 夜って、こんなに長かったっけ。


 カミヤの背中にしがみつきながら、流れていく街灯をぼんやりと数えていた。


 一本、二本、三本。


 オレンジ色の光が、一定のリズムで後ろへ飛んでいく。そのたびに、制服のスカートが風に煽られて、膝が少しひんやりした。


「眠いか、落ちんなよ」


 前から飛んできた声は、夜風よりも低くて、耳に心地よく引っかかる。


「落ちない。ちゃんと掴んでるし」


「さっきから、ずっと裾つまんでるだけだろ。それは掴んでるって言わねえ」


「じゃあ、どこ掴めばいいの」


「腰」


「え」


 思わず、声が裏返る。


 さっきまでなんとなく遠慮して、パーカーの裾を指先でつまむみたいにしていたけど、彼はそれが気に入らないらしい。


「今は気配が増えると集中できねえ。

 余計なことに気を回す余裕はねえんだよ。ちゃんと掴んどけ」


「……わかった」


 おそるおそる、彼の腰のあたりに両腕を回す。


 薄い布越しに、固い筋肉の感触が伝わってきて、心臓が一瞬だけ変なリズムを刻んだ。


「っ……」


「どした」


「なんでもない」


 なんでもないけど、なんでもあった。


 こんなふうに、誰かの身体に触れて、全体重を預けるみたいなこと、今まで一度もなかったから。


 父親の手は、いつだって殴るためのものだったし。友達と腕を組んで歩く、なんて青春ドラマみたいなことも、縁がなかったし。


 だから今、初めて知った。


 人の体温って、思ったより熱い。


 それが、こんな狭い空間で、自分の胸と、腕と、頬にまでじわじわと伝わってくると——。


「……ドキドキしても、知らないからね」


「は?」


「なんでもないってば!」


 自分で言ってて、意味がわからない。あまりに恥ずかしくて、風に流れていってくれと本気で願う。


 国道沿いの景色は、少しずつ変わっていった。


 大型スーパーの看板が消えて、代わりに、さび付いたガソリンスタンドや、深夜もやっているラーメン屋がぽつぽつと現れる。


「ねえ、どこ行くの?」


「とりあえず、ここから一番遠い海」


「海?」


「水辺の町は、逃げやすい」


「どういう理論……?」


「山のほうは、行き止まりが多い。人間の作った道ってのは、けっこう素直だ。海沿いの国道は、どこまでも繋がってる」


「逃げ慣れてる人の発想だ、それ」


「仕事柄な」


「仕事?」


「……まあ、いろいろだ」


 はぐらかされる。


 深掘りしたらいけないところに、無意識で足を突っ込みそうになって、慌てて話題を変えた。


「海、かぁ」


 夏の夜の海なんて、テレビかネットの動画でしか見たことない。修学旅行は京都だったし、家族旅行なんて、存在しなかったし。


「朝になったら、見える?」


「見える」


「やった」


 口元が、勝手に緩む。


 さっきまで死ぬほど怖かったはずなのに、人間って勝手だ。ほんの少しの希望と、知らない景色の予感だけで、こんなにも胸が軽くなる。


「そんなに海が見たいのか」


「うん」


「なんで」


「行ったことないから」


「それだけ?」


「それだけ」


 それだけ、だけど。


「だってさ、カミヤ。一生のうちで、どこにも行けないで終わるの、なんか悔しくない?」


「そうか」


「うん。どうせなら、一回くらい、ドラマみたいな海とか、見てみたい。修学旅行みたいなやつ。もう学校、行けなくなるかもしれないし」


 足元から、急に現実が顔を出す。


 学校。教室。黒板。チャイムの音。クラスメイトの笑い声。あの、灰色っぽい日々。


「……戻りたい?」


 不意に、彼が聞いてきた。


「学校に?」


「ああ」


 少しだけ、考える。


 制服のポケットに入れっぱなしの生徒手帳。机の奥にしまったままの教科書。体育館の、埃っぽい匂い。昼休みに一人で読んだ、図書室の小説。


「……わかんない」


 正直に答えた。


「戻っても、たぶん、何も変わらない気がする。家は地獄だし、学校は、普通。ちょっとしんどいくらいの普通。どっちも、私がいてもいなくても、回る」


 言ってから、自分の言葉に苦笑する。


「なんか、めんどくさいこと言ってるね、私」


「いや」


「うん?」


「……少し、わかる」


 エンジン音に紛れて、小さな声が聞こえた。


 彼の横顔は見えない。でも、背中越しに、微かに肩が揺れたような気がする。


「俺も、人間の世界に混ざって、普通のフリしてるけどさ。どこまで行っても、『いなくてもいいもの』だって気はする」


「そんなことないでしょ」


 反射的に否定していた。


「だって、コンビニで働いてるってことはさ、カミヤがいなかったら、夜中にアイス買いに来た人、困るじゃん」


「例えが軽すぎる」


「でも、そういうことだよ。夜中にコンビニでアイス買えるのって、誰かがレジに立ってるからでしょ。いなくてもいい人なんて、いないよ」


 自分で言って、少しだけ、胸が痛くなった。


 本当は、自分に向けて言いたい言葉だったのかもしれない。


「……お前さ」


「なに」


「変なとこ、真面目だよな」


「バカにしてる?」


「ほめてる」


「ほんとに?」


「三十点くらい」


「低すぎない?」


「上限が低い」


「ひどい!」


 笑い合っているうちに、夜の国道は、だんだんと街の明かりを減らしていった。


 代わりに、空が近くなる。


 ビルの影がなくなって、遠くのほうまで見渡せるようになると、水平線のあたりが、ほんのりと白んできているのがわかった。


「あ」


「気づいたか」


 カミヤの声が、少しだけ柔らかくなる。


「そろそろ、夜明けだ」


 ***


 やがて、風の匂いが変わった。


 草とアスファルトとガソリンだけだった空気に、ひんやりとした湿気と、少しだけしょっぱい匂いが混ざる。


 海だ。


 見えないのに、わかった。


 胸の中で、何かが弾ける。子どものころ、夏休み前の終業式で、「明日から夏休みです」と先生が言った瞬間の、あのどうしようもないワクワクに似ていた。


「ねえ、カミヤ」


「なんだ」


「ありがとう」


「まだ何もしてねえだろ」


「でも、海に連れてってくれてる」


「海ぐらいで礼を言われる筋合いねえよ」


「私にとっては、すごいことなんだってば」


「……大げさだ」


 そう言いながらも、彼の背中が、ほんの少しだけ誇らしげに張った気がした。


 私たちの盗んだ原付は、そのまま朝焼けに向かって走っていった。


 あのときの空の色を、たぶん私は一生忘れない。


 夜の濃い藍色と、朝の淡いオレンジが、にじみ合って、遠くの雲の端っこだけが金色に染まりはじめていた。


 その向こうに、まだ見えないけれど、確かに「海」がある。


 そう信じて疑わなかった。


 このときの私は、まだ知らない。


 この海辺の町で過ごす数日が、人生でいちばん「修学旅行」っぽい時間になることも。


 そして、その眩しさごと、あとで全部、失うことになることも。


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