第6話:美しすぎる予兆、失われるための海へ
夜って、こんなに長かったっけ。
カミヤの背中にしがみつきながら、流れていく街灯をぼんやりと数えていた。
一本、二本、三本。
オレンジ色の光が、一定のリズムで後ろへ飛んでいく。そのたびに、制服のスカートが風に煽られて、膝が少しひんやりした。
「眠いか、落ちんなよ」
前から飛んできた声は、夜風よりも低くて、耳に心地よく引っかかる。
「落ちない。ちゃんと掴んでるし」
「さっきから、ずっと裾つまんでるだけだろ。それは掴んでるって言わねえ」
「じゃあ、どこ掴めばいいの」
「腰」
「え」
思わず、声が裏返る。
さっきまでなんとなく遠慮して、パーカーの裾を指先でつまむみたいにしていたけど、彼はそれが気に入らないらしい。
「今は気配が増えると集中できねえ。
余計なことに気を回す余裕はねえんだよ。ちゃんと掴んどけ」
「……わかった」
おそるおそる、彼の腰のあたりに両腕を回す。
薄い布越しに、固い筋肉の感触が伝わってきて、心臓が一瞬だけ変なリズムを刻んだ。
「っ……」
「どした」
「なんでもない」
なんでもないけど、なんでもあった。
こんなふうに、誰かの身体に触れて、全体重を預けるみたいなこと、今まで一度もなかったから。
父親の手は、いつだって殴るためのものだったし。友達と腕を組んで歩く、なんて青春ドラマみたいなことも、縁がなかったし。
だから今、初めて知った。
人の体温って、思ったより熱い。
それが、こんな狭い空間で、自分の胸と、腕と、頬にまでじわじわと伝わってくると——。
「……ドキドキしても、知らないからね」
「は?」
「なんでもないってば!」
自分で言ってて、意味がわからない。あまりに恥ずかしくて、風に流れていってくれと本気で願う。
国道沿いの景色は、少しずつ変わっていった。
大型スーパーの看板が消えて、代わりに、さび付いたガソリンスタンドや、深夜もやっているラーメン屋がぽつぽつと現れる。
「ねえ、どこ行くの?」
「とりあえず、ここから一番遠い海」
「海?」
「水辺の町は、逃げやすい」
「どういう理論……?」
「山のほうは、行き止まりが多い。人間の作った道ってのは、けっこう素直だ。海沿いの国道は、どこまでも繋がってる」
「逃げ慣れてる人の発想だ、それ」
「仕事柄な」
「仕事?」
「……まあ、いろいろだ」
はぐらかされる。
深掘りしたらいけないところに、無意識で足を突っ込みそうになって、慌てて話題を変えた。
「海、かぁ」
夏の夜の海なんて、テレビかネットの動画でしか見たことない。修学旅行は京都だったし、家族旅行なんて、存在しなかったし。
「朝になったら、見える?」
「見える」
「やった」
口元が、勝手に緩む。
さっきまで死ぬほど怖かったはずなのに、人間って勝手だ。ほんの少しの希望と、知らない景色の予感だけで、こんなにも胸が軽くなる。
「そんなに海が見たいのか」
「うん」
「なんで」
「行ったことないから」
「それだけ?」
「それだけ」
それだけ、だけど。
「だってさ、カミヤ。一生のうちで、どこにも行けないで終わるの、なんか悔しくない?」
「そうか」
「うん。どうせなら、一回くらい、ドラマみたいな海とか、見てみたい。修学旅行みたいなやつ。もう学校、行けなくなるかもしれないし」
足元から、急に現実が顔を出す。
学校。教室。黒板。チャイムの音。クラスメイトの笑い声。あの、灰色っぽい日々。
「……戻りたい?」
不意に、彼が聞いてきた。
「学校に?」
「ああ」
少しだけ、考える。
制服のポケットに入れっぱなしの生徒手帳。机の奥にしまったままの教科書。体育館の、埃っぽい匂い。昼休みに一人で読んだ、図書室の小説。
「……わかんない」
正直に答えた。
「戻っても、たぶん、何も変わらない気がする。家は地獄だし、学校は、普通。ちょっとしんどいくらいの普通。どっちも、私がいてもいなくても、回る」
言ってから、自分の言葉に苦笑する。
「なんか、めんどくさいこと言ってるね、私」
「いや」
「うん?」
「……少し、わかる」
エンジン音に紛れて、小さな声が聞こえた。
彼の横顔は見えない。でも、背中越しに、微かに肩が揺れたような気がする。
「俺も、人間の世界に混ざって、普通のフリしてるけどさ。どこまで行っても、『いなくてもいいもの』だって気はする」
「そんなことないでしょ」
反射的に否定していた。
「だって、コンビニで働いてるってことはさ、カミヤがいなかったら、夜中にアイス買いに来た人、困るじゃん」
「例えが軽すぎる」
「でも、そういうことだよ。夜中にコンビニでアイス買えるのって、誰かがレジに立ってるからでしょ。いなくてもいい人なんて、いないよ」
自分で言って、少しだけ、胸が痛くなった。
本当は、自分に向けて言いたい言葉だったのかもしれない。
「……お前さ」
「なに」
「変なとこ、真面目だよな」
「バカにしてる?」
「ほめてる」
「ほんとに?」
「三十点くらい」
「低すぎない?」
「上限が低い」
「ひどい!」
笑い合っているうちに、夜の国道は、だんだんと街の明かりを減らしていった。
代わりに、空が近くなる。
ビルの影がなくなって、遠くのほうまで見渡せるようになると、水平線のあたりが、ほんのりと白んできているのがわかった。
「あ」
「気づいたか」
カミヤの声が、少しだけ柔らかくなる。
「そろそろ、夜明けだ」
***
やがて、風の匂いが変わった。
草とアスファルトとガソリンだけだった空気に、ひんやりとした湿気と、少しだけしょっぱい匂いが混ざる。
海だ。
見えないのに、わかった。
胸の中で、何かが弾ける。子どものころ、夏休み前の終業式で、「明日から夏休みです」と先生が言った瞬間の、あのどうしようもないワクワクに似ていた。
「ねえ、カミヤ」
「なんだ」
「ありがとう」
「まだ何もしてねえだろ」
「でも、海に連れてってくれてる」
「海ぐらいで礼を言われる筋合いねえよ」
「私にとっては、すごいことなんだってば」
「……大げさだ」
そう言いながらも、彼の背中が、ほんの少しだけ誇らしげに張った気がした。
私たちの盗んだ原付は、そのまま朝焼けに向かって走っていった。
あのときの空の色を、たぶん私は一生忘れない。
夜の濃い藍色と、朝の淡いオレンジが、にじみ合って、遠くの雲の端っこだけが金色に染まりはじめていた。
その向こうに、まだ見えないけれど、確かに「海」がある。
そう信じて疑わなかった。
このときの私は、まだ知らない。
この海辺の町で過ごす数日が、人生でいちばん「修学旅行」っぽい時間になることも。
そして、その眩しさごと、あとで全部、失うことになることも。




