第4話:秘密を乗せて、夜を駆ける二人の距離
原付は、街の灯りを次々と背中に置き去りにしていった。
コンビニの白い光も、カラオケボックスの派手なネオンも、いつの間にか見えなくなって、代わりに、オレンジ色の街灯と、遠くの国道を走るトラックのヘッドライトだけが、夜の景色に点々と刺さっている。
「ねえ」
「……今は黙って掴まってろ」
「でも——」
「落としたら面倒だ」
狼谷の声は、相変わらず低くてぶっきらぼうだ。
私は、腰に回した腕を少しだけ強く握る。怖いとか、そういうのじゃなくて——こうしていないと、現実感がすぐにふわっと消えてしまいそうで。
何度も瞬きしてみる。まつ毛の先が、湿っているのがわかった。
怖かった。
さっきまで、本当に、怖かった。
駐車場の冷たいアスファルトの感触も、黒川の指の圧力も、耳元で囁かれた声も、全部、まだ皮膚の裏側に残っているみたいで。
それを、無理やり上書きしてくるのが——。
原付の振動と、前に座る彼の背中の硬さと、体温。
「ねえ」
「……なんだよ」
観念したように、ため息混じりで返事が返ってきた。
「さっきの、狼。なに?」
「見なかったことにしろって言ったの、忘れたのか」
「忘れてない。でも、見たもん」
「面倒くせぇな、お前」
ぽつりと漏れたその台詞に、なぜか少しだけ救われる。
「じゃあさ、せめて教えて。なんで飛び降りても死なないの?」
「死なねえわけじゃない」
「え?」
「死にづらいだけだ」
「日本語、難しい」
「お前の頭が悪いだけだ」
ひどい。
でも、口調とは裏腹に、彼は速度を少しだけ落としてくれた。会話ができるくらいの、程よいスピード。
国道沿いのコンビニが見えてきて、私は思わず身を乗り出しそうになる。
「コンビニ! 寄りたい!」
「トイレなら、さっきのとこで行っとけ」
「ちがう。お腹すいた」
「……」
沈黙が、数秒。
「お前、さっきパン食ってたろ」
「半額のやつ一個だけだし。その前は、昨日からほぼ何も食べてないし」
「あのクソ親」
ぽそっと漏れた悪態は、風にかき消された。
「わかった。寄る。だが、時間はかけねえ」
「やった!」
思わず声が大きくなる。彼の腰に回した腕に力が入って、「おい、落ち着け」と小さくたしなめられた。
コンビニの白い光が、真夜中のオアシスみたいに眩しく見えた。
自動ドアが開くと、冷房の冷たい空気と、フライヤーで揚げ物を揚げる油の匂いが、どっと押し寄せてくる。
「五分だ。選べ」
「え、むり。迷う」
「迷うな」
「でも——」
「三分」
「減ってるし!」
私は慌ててお弁当コーナーに駆け寄った。棚にずらりと並ぶ、プラスチックの箱たち。唐揚げ弁当、のり弁、ハンバーグ弁当、ナポリタン——。
どれも、中学のときにクラスメイトたちが「昨日のおかず、コンビニの○○だった」と自慢していたやつらだ。私が家で食べていたのは、大抵、冷蔵庫に残っていたもやしと、特売の鶏皮を炒めた謎の料理だったから。
「からあげ弁当……」
ごくり、と喉が鳴る。
「唐揚げは譲れない。でも、ハンバーグもおいしそう……」
「一個にしろよ」
背後からの低い声に、びくりと肩が跳ねる。
「え、狼谷も食べる?」
「俺はいい」
「食べなよ。さっき、飛び降りたし」
「飛び降りたから腹が減るって理屈はねえだろ」
「なんか、すごいエネルギー使ってそうだし……。さっき、手から変なキラキラ出てたし……」
そこまで言うと、彼の眉がぴくりと動いた。
「見てたのか」
「目の前で、あんなの見せられたら、そりゃ見るでしょ」
「……お前、本当に、見なかったことにする気ねえんだな」
「助けてくれたから、内緒にはする。でも、知りたい」
彼は、しばし無言で私を見下ろした。
視線が、唐揚げ弁当と私の顔の間を何往復かする。
「……二つ買え」
「え?」
「一個はお前。もう一個は俺」
「食べるんじゃん」
「うるせえ。腹減ってきた」
そう言って、彼は冷凍食品コーナーに足を向けた。プラスチックの扉を開けて、冷たい空気を顔に浴びながら、中をのぞき込む。
「肉まん……は、もうやってねえか」
「夏だしね」
「夏でも売ってるとこは売ってるんだよ」
小さくぼやきながら、代わりに冷凍の焼き鳥パックを手に取る。
肉、だ。
私にとっての「ごちそう」がコンビニ弁当なら、彼にとっての「ごちそう」は、こういう肉なのかもしれない。そんなことを、なんとなく思った。
レジに向かう途中、私はついでに、お茶のペットボトルと、レジ横で光っていたコロッケをひとつ、トレーにのせた。
「お会計、千八百二十円になりまーす」
財布を開く。
五千円。
このお金が、どれくらいで尽きるかなんて、考えないようにした。今考えられるのは、目の前のごはんのことだけ。
「……貸しとく」
支払おうとした私の手を、彼が大きな手で横から遮った。
「え」
「今、全部使うな。あとでどうすんだよ」
狼谷が、代わりに自分の財布から二千円札を取り出して、レジに差し出す。レシートとお釣りを受け取って、ポケットにねじ込むと、こちらを一瞥した。
「あとで、ちゃんと返せよ」
「……うん」
「口だけじゃねえだろうな」
「返す。絶対返す」
「ならいい」
彼の言い方はぶっきらぼうなのに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
誰かに「貸しとく」なんて言われたの、初めてだった。
今までの人生で、「お前のせいで金が減った」とか「どれだけ食うんだ」とか、そんな言葉しかもらったことなかったから。
コンビニの駐車場の端っこ。自販機が並んでいる横の、コンクリートの段差に腰を下ろす。
アスファルトはまだ昼の熱を少しだけ残していて、お尻がほんのり暖かい。
「いただきます」
小さく呟いてから、唐揚げ弁当のフタをぱかっと開ける。
湯気と一緒に、甘辛い醤油の匂いが立ちのぼってきた。白いごはんの上に、こんがりと揚がった唐揚げが四つ。横には卵焼きと、申し訳程度の漬物。
「やば……」
唐揚げをひとつ、箸でつまんで、口に運ぶ。
カリッ、と衣が歯に砕ける音。中から、熱い肉汁がじゅわっと溢れ出す。鶏肉の旨みと、醤油とにんにくと生姜のバランスが、完璧すぎて。
「おいしい……」
思わず、涙が出そうになる。
いや、ちょっと出た。
味なんて、普段そこまで気にしたことはなかった。空腹なら、なんだって美味しく感じる。でも、この唐揚げは、そういうレベルじゃなくて——。




