第3話:「あんたしか、いないから」
「……は?」
「な、なんだよ、これ……」
背後の男たちが、慌ててポケットから何かを取り出そうとした。たぶん、さっき黒川が見せたようなナイフか、それ以上のもの。
だけど、彼らが武器を抜くより早く。
「殺すな」
フードの男が、短く言った。
それだけで、狼たちの耳が、ぴくりと一斉に動く。
「骨は折っていい。深くは、噛むな。血もあんまり出すな」
「——は?」
狼たちが、同時に動いた。
真っ黒な影が、風より速く、黒川たちに飛びかかる。牙が閃く。けれど、それは皮膚を裂かず、そのすぐ手前で止まる。
代わりに、体当たりのような一撃が、男たちを容赦なく吹き飛ばした。
「ぐっ——!」
黒川の身体が、駐車場の隅のフェンスに叩きつけられる。金属がきしむ音。彼は、苦悶の声をあげて、ずり落ちた。
「腕が——ッ!」
別の男が、地面を転がりながら叫ぶ。狼の前足が、その背中を押さえつける。体重だけで、息ができなくなっているのがわかった。
それでも——。
血は、一滴も流れていなかった。
骨が砕ける鈍い音が、夜気の中に響くたび、私の背筋がひゅっと強張る。目を逸らしたくなる。でも、見てしまう。
狼たちは、楽しんでいるわけでも、怒っているわけでもなく、ただ淡々と「仕事」をこなしているようだった。
私は、呆然と立ち尽くしていた。
目の前で起きていることが、現実だなんて、にわかには信じられなくて。
フードの男が、こちらを一瞥する。
「……見なかったことにしろ」
無表情のまま、そう告げられた。
その瞬間。
胸の奥で、何かが決壊した。
「……やだ」
自分でも、驚くほどはっきりした声が出た。
彼の眉が、わずかに動く。
「は?」
「見たし。見ちゃったし。無理だし」
言いながら、足が震えているのがわかる。それでも、止まらなかった。
「ていうか、助けてくれたら、黙ってる!」
「はあ?」
「助けてくれなかったら、警察行く! さっきの全部、言う!」
こんなわけのわからない人外じみた存在を、警察がどこまで信じるかなんてわからない。でも、そう言うしかなかった。
だって——。
「私、家にも帰れないし、ここにいたら、この人たちにまた捕まるし。だから、あんたが責任取ってよ!」
自分でも何を言っているのかわからない。
でも、言葉はもう止まってくれなかった。
「飛び降りても死なないくせに、人助けくらいできないわけ? 狼とか呼び出してボコボコにするくせに、女子高生ひとり守れないわけ? 意味わかんない!」
駐車場のどこかで、誰かが呻いた。「じょ、女子高生……」とかいう情けない裏返った声。
どうでもよかった。
フードの男は、呆気にとられたように、私を見ていた。
狼たちが、主人の反応を伺うように一瞬だけ動きを止める。けれど、黒川たちのうめき声が再び大きくなると、彼らはまた淡々と押さえつけに戻った。
夜の空気が、湿って、熱くて、重い。
汗と、血の匂いになりかけたものと、アスファルトの焦げた匂い。
そんな中で、私は、彼から目を逸らさなかった。
「た、頼むから……。助けてよ」
最後の一言は、ほとんど、泣き声だった。
フードの下で、男の薄い唇がわずかに動く。
「……なんで」
「え?」
「なんで、俺なんだよ」
静かな問い。
「他を当たれ。俺は、お前に関わる気は——」
「だって、あんたしか、いないから」
息が詰まるような静寂。
こんなセリフ、漫画やドラマの中だけだと思っていた。実際に口から出てきた自分の言葉に、私自身が一番驚いている。
でも、それが、たぶん、本当の気持ちで。
さっきまで「誰も助けてくれない」って絶望していたこの世界で、唯一、私を「この場」から救ってくれた存在は、目の前の彼だけだったから。
彼は、ゆっくりと息を吐いた。
夜風が、彼のフードを少しだけめくる。髪は黒くて、少し長い。うなじのあたりにかけて、綺麗な曲線を描いている。
「……めんどくせぇ」
ぼそっと、そんな言葉が漏れた。
その瞬間、足元の影から立ち上がっていた狼たちが、一斉に身体をしならせる。黒川たちを押さえつけたまま、口を閉じる。
彼は、面倒そうに首を回してから、私のほうに歩いてきた。
コツ、コツ、とスニーカーの足音が近づく。
距離が縮まるにつれて、彼の匂いがわかった。夜風と、鉄と、ほんの少しだけ、血のような——でも嫌な感じではない、生暖かい匂い。
「名前は?」
「……ナギ」
「名字」
「城ヶ崎……城ヶ崎凪」
「城ヶ崎ナギ」
彼は、私の肩を片手で掴んだ。黒川とは違って、その手は思ったよりも熱くて、大きかった。
熱が、皮膚から骨の奥にまで伝わる気がして、心臓がドクンと跳ねる。
「俺の名前は、狼谷。カミヤだ」
「カミ、ヤ……」
人間の名前のはずなのに、「狼」の字が頭に浮かぶ。
彼は、うっすらと笑ったような、笑っていないような、曖昧な表情をした。
「見たこと、黙ってる代わりに——」
そこで、言葉を切る。
「お前のトラブルに、巻き込まれてやる」
「……ほんとに?」
「いちいち確認させんな。嫌なら、今この場で置いてく」
「嫌じゃない!」
即答だった。
自分でもびっくりするくらい、迷いがなかった。
狼谷は、肩に置いた手を離し、駐車場の隅に停めてあった黒い原付のほうへと向かった。さっきまで、そこに誰かがいたような気がするが、もう人影はない。
鍵を回すと、エンジンが静かに唸る。
「乗れ」
「え、でも——」
「つべこべ言ってる暇はねえだろ。こいつら、完全に黙らせたわけじゃねえ」
彼が顎で示した先では、黒い狼たちが、まだうめき声を上げる男たちを押さえていた。意識はある。目はぎらぎらとこちらを睨んでいる。
このままここにいたら、どうなるか。想像するまでもない。
私は、慌てて原付の後ろに跨った。トートバッグを肩から前に抱え込む。
「落ちんなよ」
狼谷が、短く言って、アクセルをひねる。
咄嗟に、私は彼のパーカーの裾を掴んだ。握った感触は、思ったよりもしっかりしていて、安心するような、余計にドキドキするような、不思議な気持ち。
「しっかり掴めって。落ちたら洒落になんねぇからな」
「……うん」
おずおずと、私は、裾から腰のあたりに手を移した。そこは、硬い筋肉と、薄い布の感触。
背中越しに、彼の体温が、やけにはっきりと伝わってきた。
「行くぞ」
原付が前に飛び出す。
夜の風が、顔に叩きつけられる。さっきまで、逃げ場のない暗闇に押し潰されそうだったのに、今は——。
夏の夜の匂いが、胸いっぱいに広がった。
信号の赤と青と黄色の光が、流れるように視界を横切る。ビルのネオンが、遠ざかっていく。
後ろを振り向く余裕はない。でも、なんとなくわかった。
さっきまでいた駐車場と、狼たちと、私を捕まえようとした男たちと——そして、さっきの私自身とは、もう、戻れない場所になったんだって。
「ねえ、狼谷」
原付のエンジン音に負けないように、声を張る。
「なんだ」
「ありがとう!」
数秒の沈黙。
それから、小さく舌打ちする音。
「礼は、全部片付いてからにしろ」
彼の言葉はそっけないのに、背中越しの体温は、少しだけ、さっきよりも近く感じた。
夏の夜風が、二人の間をすり抜けていく。
こうして、私と人狼の、逃避行の夏が始まった。
——そのときの私は、まだ知らなかった。
この夏の終わりに、彼を失うことを。
そして、その後もずっと、私の影に、小さな狼が寄り添って歩くようになることを。




