第2話:絶体絶命の夜、その救世主はビルの屋上から
アスファルトは、さっきよりも少し湿っていて、鼻をつくカビ臭さが混じっていた。頭上には、ビルの壁が迫ってくるようで、空が細く切り取られている。
「ね、名前、なんていうの?」
「……ナギ」
「ナギちゃん。いいね、その名前。芸名にも使えるよ」
名前を呼ばれても、心は少しも弾まなかった。
路地を抜けると、突然、視界が開けた。
そこには、真っ暗な駐車場が広がっていた。ビルの陰に隠れるようにして、何台かの車が停められている。その向こうには、窓ガラスの割れた古い廃ビルが、夜空に黒い影を落としていた。
「……ここ、事務所じゃないですよね」
「はは。鋭いね」
黒川の声が、急に冷たくなる。
背後で、靴音が増えた。
振り返ると、いつの間にか、二人の男が路地の入口を塞いでいた。どちらも、黒いパーカーにジーンズ。顔には、薄っすらと笑いが浮かんでいる。
「逃げ場、ないよ」
黒川が、私の肩を掴んだ。その指が、皮膚に食い込む。
「……なに、するんですか」
震えを悟られないように、必死で声を平らにする。
「だから、言ったでしょ。写真、撮るだけだって」
「撮られるの、お前だけじゃないけどな」
背後の男が、くくっと笑う。
頭の中で、何かがカチリと音を立てた。
あ、これ、本当に、やばいやつだ。
「や、やめ——」
叫ぼうとした口を、黒川の手が塞いだ。強烈なタバコとコロンの匂いが鼻腔を満たす。
「騒ぐと、余計に痛い目みるよ」
耳元で囁かれたその声に、背骨が氷みたいに冷たくなる。
駐車場の隅から、誰かの笑い声が聞こえた。薄闇の中、車のボンネットに腰をかけている若い男が、スマホをいじりながらこちらを見ている。
「新入り? 細いじゃん。すぐ壊れそう」
誰も、助けてくれない。
誰も、気づいてくれない。
さっきまで、あんなにうるさかったネオンの輝きが、急に遠く感じられた。
私の世界は、今、ここの暗闇と——。
「——ッ!」
黒川の背後で、何かが「ドンッ」と大きな音を立てて落ちた。
地面が、震えた気がした。
黒川の手が、一瞬だけ緩む。
その隙に私は、全力で叫んだ。
「たすけ——!」
「……うるさい」
低い声が、夜を裂いた。
次の瞬間だった。
――――ズドォンッ!!
雷が落ちたかのような衝撃が、駐車場全体を揺らす。
駐車場の中央。割れたコンクリートが、まるで隕石でも落ちてきたみたいに、円形に砕け散っている。その中心に——。
男が、しゃがみ込んでいた。
黒いパーカーのフードを目深にかぶり、片膝を立てて、片手で地面を押さえている。砕けたコンクリートの破片が、その周りに放射状に散らばっていた。
落ちてきた?
三十メートルくらいはありそうな、廃ビルの屋上から?
そんなはずない。人間なら、即死だ。ぐちゃぐちゃになっててもおかしくない高さ。
でも、その男は、平然と——いや、少し眉をひそめながら——立ち上がった。
「……マジかよ」
車のボンネットに座っていた男が、呆然と呟く。
黒川が、私を突き飛ばして、一歩前に出た。
「誰だよ、お前」
フードの下から覗いた横顔は、驚くほど整っていた。
すっと通った鼻筋。涼しげな目元。長い睫毛。顎のラインは少し幼さが残っているけれど、背は高いし、肩幅も広い。高校生か、大学生くらいだろうか。
「なんで、飛び降りて、生きてるんだよ……」
「別に。死なないから」
淡々とした声。
風が吹き抜けて、フードの端がめくれかける。その下に、一瞬だけ見えたもの——。
耳のあたりの、異様な影。人間のものより、わずかに尖ったシルエット。
見間違い、かもしれない。
でも、それ以上に、もっと異様なのは——。
彼の右手の甲から、銀色の粒子がこぼれていることだった。
ガラスの粉みたいにきらきらと光るそれは、地面に落ちる前に、ふっと消えていく。さっきまで赤く擦りむけていたはずの皮膚は、もう何事もなかったかのように、なめらかだった。
「は?」
言葉にならない声が、誰のものなのか、自分でもわからなかった。
男は、ゆっくりと顔を上げる。
その視線が、黒川たちを通り越して——私と、ぶつかった。
一瞬、時間が止まったみたいに感じた。
彼の目は、暗がりでもわかるくらい、琥珀色をしていた。夏の夕方の、陽に透けた麦茶みたいな、深くて透明な色。
そこに映る自分の顔は、きっとひどいものだっただろう。涙目で、頬は真っ青で、震えていて。
彼は、ほんの少しだけ、目を細めた。
「……見た?」
「え?」
「今の、見たかって聞いてんだよ」
低く、抑えた声。その響きには、苛立ちも、不安もなくて、ただ——諦めに似た色があった。
私は、口をぱくぱくさせるだけで、何も言えなかった。
代わりに、黒川が怒鳴る。
「おい、ガキ! 邪魔すんな!」
彼の手がポケットに突っ込まれる。次の瞬間、銀色のナイフが、月明かりを反射してきらりと光った。
さっきまで、笑顔だったくせに。
少しでも邪魔が入れば、これだ。
私は、喉の奥で何かがぐつぐつと煮え立つのを感じた。恐怖と怒りと、悔しさと。
でも、その感情が形になるより早く——。
「……そうか」
フードの男が、小さく呟いた。
さっと、影が揺れた。
彼の足元から伸びた黒い影が、夏の夜のアスファルトに滲むように広がり——。
「なんだ、これ——」
黒川が、悲鳴の途中で言葉を失う。
影の中から、何かがせり上がってきていた。
狼だ。
そう思った。けれど、それは、普通の狼ではない。
薄闇で形作られたような、黒い狼。体の輪郭は、ところどころ煙のように揺らいでいて、目だけが、ぼんやりと銀色に光っている。
一匹、また一匹。影から、次々と浮かび上がる。
一、二、三、四——五匹。
駐車場の真ん中に、黒い狼の群れが、静かに立っていた。




