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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第1章:16歳、夏。人狼(カミサマ)と逃避行。

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第2話:絶体絶命の夜、その救世主はビルの屋上から

 アスファルトは、さっきよりも少し湿っていて、鼻をつくカビ臭さが混じっていた。頭上には、ビルの壁が迫ってくるようで、空が細く切り取られている。


「ね、名前、なんていうの?」


「……ナギ」


「ナギちゃん。いいね、その名前。芸名にも使えるよ」


 名前を呼ばれても、心は少しも弾まなかった。




 路地を抜けると、突然、視界が開けた。


 そこには、真っ暗な駐車場が広がっていた。ビルの陰に隠れるようにして、何台かの車が停められている。その向こうには、窓ガラスの割れた古い廃ビルが、夜空に黒い影を落としていた。


「……ここ、事務所じゃないですよね」


「はは。鋭いね」


 黒川の声が、急に冷たくなる。


 背後で、靴音が増えた。


 振り返ると、いつの間にか、二人の男が路地の入口を塞いでいた。どちらも、黒いパーカーにジーンズ。顔には、薄っすらと笑いが浮かんでいる。


「逃げ場、ないよ」


 黒川が、私の肩を掴んだ。その指が、皮膚に食い込む。


「……なに、するんですか」


 震えを悟られないように、必死で声を平らにする。


「だから、言ったでしょ。写真、撮るだけだって」


「撮られるの、お前だけじゃないけどな」


 背後の男が、くくっと笑う。


 頭の中で、何かがカチリと音を立てた。


 あ、これ、本当に、やばいやつだ。


「や、やめ——」


 叫ぼうとした口を、黒川の手が塞いだ。強烈なタバコとコロンの匂いが鼻腔を満たす。


「騒ぐと、余計に痛い目みるよ」


 耳元で囁かれたその声に、背骨が氷みたいに冷たくなる。


 駐車場の隅から、誰かの笑い声が聞こえた。薄闇の中、車のボンネットに腰をかけている若い男が、スマホをいじりながらこちらを見ている。


「新入り? 細いじゃん。すぐ壊れそう」


 誰も、助けてくれない。


 誰も、気づいてくれない。


 さっきまで、あんなにうるさかったネオンの輝きが、急に遠く感じられた。


 私の世界は、今、ここの暗闇と——。


「——ッ!」


 黒川の背後で、何かが「ドンッ」と大きな音を立てて落ちた。


 地面が、震えた気がした。


 黒川の手が、一瞬だけ緩む。


 その隙に私は、全力で叫んだ。


「たすけ——!」


「……うるさい」


 低い声が、夜を裂いた。


 次の瞬間だった。


 ――――ズドォンッ!!


 雷が落ちたかのような衝撃が、駐車場全体を揺らす。


 駐車場の中央。割れたコンクリートが、まるで隕石でも落ちてきたみたいに、円形に砕け散っている。その中心に——。


 男が、しゃがみ込んでいた。


 黒いパーカーのフードを目深にかぶり、片膝を立てて、片手で地面を押さえている。砕けたコンクリートの破片が、その周りに放射状に散らばっていた。


 落ちてきた?


 三十メートルくらいはありそうな、廃ビルの屋上から?


 そんなはずない。人間なら、即死だ。ぐちゃぐちゃになっててもおかしくない高さ。


 でも、その男は、平然と——いや、少し眉をひそめながら——立ち上がった。


「……マジかよ」


 車のボンネットに座っていた男が、呆然と呟く。


 黒川が、私を突き飛ばして、一歩前に出た。


「誰だよ、お前」


 フードの下から覗いた横顔は、驚くほど整っていた。


 すっと通った鼻筋。涼しげな目元。長い睫毛。顎のラインは少し幼さが残っているけれど、背は高いし、肩幅も広い。高校生か、大学生くらいだろうか。


「なんで、飛び降りて、生きてるんだよ……」


「別に。死なないから」


 淡々とした声。


 風が吹き抜けて、フードの端がめくれかける。その下に、一瞬だけ見えたもの——。


 耳のあたりの、異様な影。人間のものより、わずかに尖ったシルエット。


 見間違い、かもしれない。


 でも、それ以上に、もっと異様なのは——。


 彼の右手の甲から、銀色の粒子がこぼれていることだった。


 ガラスの粉みたいにきらきらと光るそれは、地面に落ちる前に、ふっと消えていく。さっきまで赤く擦りむけていたはずの皮膚は、もう何事もなかったかのように、なめらかだった。


「は?」


 言葉にならない声が、誰のものなのか、自分でもわからなかった。


 男は、ゆっくりと顔を上げる。


 その視線が、黒川たちを通り越して——私と、ぶつかった。


 一瞬、時間が止まったみたいに感じた。


 彼の目は、暗がりでもわかるくらい、琥珀色をしていた。夏の夕方の、陽に透けた麦茶みたいな、深くて透明な色。


 そこに映る自分の顔は、きっとひどいものだっただろう。涙目で、頬は真っ青で、震えていて。


 彼は、ほんの少しだけ、目を細めた。


「……見た?」


「え?」


「今の、見たかって聞いてんだよ」


 低く、抑えた声。その響きには、苛立ちも、不安もなくて、ただ——諦めに似た色があった。


 私は、口をぱくぱくさせるだけで、何も言えなかった。


 代わりに、黒川が怒鳴る。


「おい、ガキ! 邪魔すんな!」


 彼の手がポケットに突っ込まれる。次の瞬間、銀色のナイフが、月明かりを反射してきらりと光った。


 さっきまで、笑顔だったくせに。


 少しでも邪魔が入れば、これだ。


 私は、喉の奥で何かがぐつぐつと煮え立つのを感じた。恐怖と怒りと、悔しさと。


 でも、その感情が形になるより早く——。


「……そうか」


 フードの男が、小さく呟いた。


 さっと、影が揺れた。


 彼の足元から伸びた黒い影が、夏の夜のアスファルトに滲むように広がり——。


「なんだ、これ——」


 黒川が、悲鳴の途中で言葉を失う。


 影の中から、何かがせり上がってきていた。


 狼だ。


 そう思った。けれど、それは、普通の狼ではない。


 薄闇で形作られたような、黒い狼。体の輪郭は、ところどころ煙のように揺らいでいて、目だけが、ぼんやりと銀色に光っている。


 一匹、また一匹。影から、次々と浮かび上がる。


 一、二、三、四——五匹。


 駐車場の真ん中に、黒い狼の群れが、静かに立っていた。


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