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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第2章:三百年の孤独が、君の瞳に溶けていく。――潮騒の街のニューハーフバーで、不器用な人狼が恋をした、一夜の約束。

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第4話:「どこに行けばいいのか、わかんない」迷子の蘭と、一晩だけの寝床

 その瞬間、空気が変わった。


 蘭が、男の腕を払いのけ、一歩踏み込む。


 肩の線が沈み、腰が落ちる。重心が、床に吸い込まれるような綺麗な「構え」だった。


(おいおい)


 カミヤが思わず口の端を上げた次の瞬間、蘭の右足がしなやかな弧を描いた。


 ヒールのつま先が、金髪崩れの側頭部を正確に捉える。


 乾いた音がした。


「——っ」


 叫び声を上げる暇もなく、金髪崩れが横に吹き飛ぶ。コンクリートの地面に頭を打ちつけ、そのまま動かなくなった。


「なっ……」


 残りの二人が、間抜けな声を漏らした。


 蘭は、その隙に一瞬だけ深く息を吸い、次の動きを選ぼうとして——


 掴まれた。


 後ろから伸びた腕が、彼女の片腕をねじり上げる。もう一人が前から体を押さえ、自由を奪う。


「このアマ……!」


「調子乗んなよ!」


 蘭は、悔しそうに歯を食いしばった。


「離しなさい……っ」


 足をばたつかせ、膝で相手の股間を狙うように動くが、うまくいかない。男たちの体格差と数の前に、技術が追いつかない。


 路地の出口に、黒塗りのワンボックスが停まっているのが見えた。


 ドアが半分開き、中から誰かが覗いている。


(あそこまで連れてくつもりか)


 カミヤの尾てい骨あたりが、ひやりとした。


(——面倒くせえ)


 胸の中で、クロが吠える。


『主人』


 声が、骨に響く。


『見捨てるのか』


「黙ってろ」


『あの娘の目、さっきのふざけんなの声。お前、好きだろう、ああいうの』


「好き嫌いの問題じゃねえ」


『じゃあ、なんだ』


 橋の上で、ナギが震える声で「助けて」と言った時のことが、頭の片隅でよぎる。


 あの時と、同じ匂いだ。


「——チッ」


 舌打ちが、路地に響いた。


 気がつけば、もう歩き出していた。


「おい」


 低い声が、路地の空気を震わせる。


 男たちが、一斉に振り返った。


 路地の入口に、黒いパーカーの男が立っていた。


 フードの影から覗く瞳は、夜目には異様なほど明るい琥珀色をしている。


「なんだてめ……」


「離せ」


 たったそれだけの言葉だった。


 だが、その声の底にある「何か」に、男の背筋が一瞬だけ粟立つ。


「関係ねえだろ、テメェにはよ」


 強がりで吐き捨てる。


 カミヤは、一歩、二歩と近づいた。足音は、驚くほど静かだ。


 蘭の目が、揺れる。


 ——この人、誰。


 ——助けてくれるの?


 そんな問いが、そのまなざしに宿っていた。


(あー……)


 心のどこかで、何かを諦める。


「お前ら、人数と足の速さでしか勝てねえくせに、女に手ぇ出してんじゃねえよ」


 軽く吐き捨てる。


「はあ?」


「なんだとゴラァ!」


 二人が同時に蘭の身体を離し、カミヤに向かってくる。


 拳が飛ぶ。ナイフは、まだ抜いていない。舐めているのだ。


 カミヤは、それを半歩だけ体をずらして避けた。


 最初の男の肘を掴み、そのまま肩を極めて前方に投げ飛ばす。地面に叩きつけられた男の肺から、情けない音が漏れた。


 二人目の男が、怒鳴りながら突っ込んでくる。


「この野郎っ!」


 腹に拳が飛んでくる。カミヤは、あえてそれを受けた。


「……っ」


 拳を突き出した男が、驚いたような顔をする。まるでコンクリートに殴りつけたかのような手応えに、拳の骨がきしんだ。


「いてぇか?」


 カミヤは、にやりと笑う。


 そして——


 胸倉を掴んだ。


「うおっ……」


 もう片方の手で、さっき投げた男のジャケットも掴む。


 二人の身体を、同時に前後に振った。


「が、あっ……!」


「ぐ、はっ……!」


 まるで壊れた人形をぶつけ合わせるように、その場で何度も。


 頭蓋と頭蓋がぶつかり、空気が弾ける音がする。脳が揺さぶられ、意識が読めないところまで飛んでいく。


 十秒もかからなかった。


 二人は、ぐったりと地面に転がり、ピクリとも動かない。


 路地に、急な静寂が落ちる。


 蘭が、呆然とその光景を見ていた。


「……あ、あの……」


 声が震えている。


 カミヤは、肩に軽くついた埃を払った。


「行けるか」


「え?」


「立てるなら、さっさとこの場から離れろ。事情がどうとかは、どうでもいい」


 背を向ける。


 ここで終わりにすれば、まだ傷は浅い。顔を見られたとて、名前も何も知られていない。荷揚げの仕事は、別の倉庫に移ればいい。


 ——そう、頭ではわかっている。


「待って……!」


 背中に、切羽詰まった声が届いた。


「お願い、助けて……!」


 カミヤは、振り返った。


 蘭の瞳に、涙が浮かんでいる。


 ただ怖いだけの涙ではない。恐怖と、怒りと、悔しさと、自分への苛立ちが全部混ざり合って、今にも溢れそうな、不器用な涙。


「……あいつら、すぐに仲間を呼ぶ」


 蘭が唇を噛む。


「私、もう帰れない……店にも、家にも……」


「なんでだ」


「顔、見られたから。店に戻ったって、また来る。逃げても、追われる。……だから」


 言葉が喉で詰まる。


「どこに行けばいいのか、わかんない」


 かすれた声だった。


 その「わからない」に、妙なリアリティがあった。


 カミヤは、しばらく黙っていた。


 沈黙が、二人の間の空気を冷やす。


 やがて、小さく、深いため息が落ちた。


「……面倒くせえ」


 それは、自分に向けた悪態だ。


「ついてこい」


「え……?」


「一晩だけだ。俺の寝床なら、あいつらもすぐには嗅ぎつけねえ。夜が明けたら、その後のことは考えろ」


「……本当に?」


「嘘ついてどうする。行くぞ」


 カミヤは、蘭の腕を掴まない。


 代わりに、一歩だけ先を歩いた。


 蘭は、一瞬戸惑い、それから小さく頷いて、その背中を追った。


 彼女のヒールの音が、路地に寂しく響く。


 その足音が、彼の三百年の旅路に、初めて「誰かの歩幅」が重なった瞬間だった。


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