第4話:「どこに行けばいいのか、わかんない」迷子の蘭と、一晩だけの寝床
その瞬間、空気が変わった。
蘭が、男の腕を払いのけ、一歩踏み込む。
肩の線が沈み、腰が落ちる。重心が、床に吸い込まれるような綺麗な「構え」だった。
(おいおい)
カミヤが思わず口の端を上げた次の瞬間、蘭の右足がしなやかな弧を描いた。
ヒールのつま先が、金髪崩れの側頭部を正確に捉える。
乾いた音がした。
「——っ」
叫び声を上げる暇もなく、金髪崩れが横に吹き飛ぶ。コンクリートの地面に頭を打ちつけ、そのまま動かなくなった。
「なっ……」
残りの二人が、間抜けな声を漏らした。
蘭は、その隙に一瞬だけ深く息を吸い、次の動きを選ぼうとして——
掴まれた。
後ろから伸びた腕が、彼女の片腕をねじり上げる。もう一人が前から体を押さえ、自由を奪う。
「このアマ……!」
「調子乗んなよ!」
蘭は、悔しそうに歯を食いしばった。
「離しなさい……っ」
足をばたつかせ、膝で相手の股間を狙うように動くが、うまくいかない。男たちの体格差と数の前に、技術が追いつかない。
路地の出口に、黒塗りのワンボックスが停まっているのが見えた。
ドアが半分開き、中から誰かが覗いている。
(あそこまで連れてくつもりか)
カミヤの尾てい骨あたりが、ひやりとした。
(——面倒くせえ)
胸の中で、クロが吠える。
『主人』
声が、骨に響く。
『見捨てるのか』
「黙ってろ」
『あの娘の目、さっきのふざけんなの声。お前、好きだろう、ああいうの』
「好き嫌いの問題じゃねえ」
『じゃあ、なんだ』
橋の上で、ナギが震える声で「助けて」と言った時のことが、頭の片隅でよぎる。
あの時と、同じ匂いだ。
「——チッ」
舌打ちが、路地に響いた。
気がつけば、もう歩き出していた。
「おい」
低い声が、路地の空気を震わせる。
男たちが、一斉に振り返った。
路地の入口に、黒いパーカーの男が立っていた。
フードの影から覗く瞳は、夜目には異様なほど明るい琥珀色をしている。
「なんだてめ……」
「離せ」
たったそれだけの言葉だった。
だが、その声の底にある「何か」に、男の背筋が一瞬だけ粟立つ。
「関係ねえだろ、テメェにはよ」
強がりで吐き捨てる。
カミヤは、一歩、二歩と近づいた。足音は、驚くほど静かだ。
蘭の目が、揺れる。
——この人、誰。
——助けてくれるの?
そんな問いが、そのまなざしに宿っていた。
(あー……)
心のどこかで、何かを諦める。
「お前ら、人数と足の速さでしか勝てねえくせに、女に手ぇ出してんじゃねえよ」
軽く吐き捨てる。
「はあ?」
「なんだとゴラァ!」
二人が同時に蘭の身体を離し、カミヤに向かってくる。
拳が飛ぶ。ナイフは、まだ抜いていない。舐めているのだ。
カミヤは、それを半歩だけ体をずらして避けた。
最初の男の肘を掴み、そのまま肩を極めて前方に投げ飛ばす。地面に叩きつけられた男の肺から、情けない音が漏れた。
二人目の男が、怒鳴りながら突っ込んでくる。
「この野郎っ!」
腹に拳が飛んでくる。カミヤは、あえてそれを受けた。
「……っ」
拳を突き出した男が、驚いたような顔をする。まるでコンクリートに殴りつけたかのような手応えに、拳の骨がきしんだ。
「いてぇか?」
カミヤは、にやりと笑う。
そして——
胸倉を掴んだ。
「うおっ……」
もう片方の手で、さっき投げた男のジャケットも掴む。
二人の身体を、同時に前後に振った。
「が、あっ……!」
「ぐ、はっ……!」
まるで壊れた人形をぶつけ合わせるように、その場で何度も。
頭蓋と頭蓋がぶつかり、空気が弾ける音がする。脳が揺さぶられ、意識が読めないところまで飛んでいく。
十秒もかからなかった。
二人は、ぐったりと地面に転がり、ピクリとも動かない。
路地に、急な静寂が落ちる。
蘭が、呆然とその光景を見ていた。
「……あ、あの……」
声が震えている。
カミヤは、肩に軽くついた埃を払った。
「行けるか」
「え?」
「立てるなら、さっさとこの場から離れろ。事情がどうとかは、どうでもいい」
背を向ける。
ここで終わりにすれば、まだ傷は浅い。顔を見られたとて、名前も何も知られていない。荷揚げの仕事は、別の倉庫に移ればいい。
——そう、頭ではわかっている。
「待って……!」
背中に、切羽詰まった声が届いた。
「お願い、助けて……!」
カミヤは、振り返った。
蘭の瞳に、涙が浮かんでいる。
ただ怖いだけの涙ではない。恐怖と、怒りと、悔しさと、自分への苛立ちが全部混ざり合って、今にも溢れそうな、不器用な涙。
「……あいつら、すぐに仲間を呼ぶ」
蘭が唇を噛む。
「私、もう帰れない……店にも、家にも……」
「なんでだ」
「顔、見られたから。店に戻ったって、また来る。逃げても、追われる。……だから」
言葉が喉で詰まる。
「どこに行けばいいのか、わかんない」
かすれた声だった。
その「わからない」に、妙なリアリティがあった。
カミヤは、しばらく黙っていた。
沈黙が、二人の間の空気を冷やす。
やがて、小さく、深いため息が落ちた。
「……面倒くせえ」
それは、自分に向けた悪態だ。
「ついてこい」
「え……?」
「一晩だけだ。俺の寝床なら、あいつらもすぐには嗅ぎつけねえ。夜が明けたら、その後のことは考えろ」
「……本当に?」
「嘘ついてどうする。行くぞ」
カミヤは、蘭の腕を掴まない。
代わりに、一歩だけ先を歩いた。
蘭は、一瞬戸惑い、それから小さく頷いて、その背中を追った。
彼女のヒールの音が、路地に寂しく響く。
その足音が、彼の三百年の旅路に、初めて「誰かの歩幅」が重なった瞬間だった。




