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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第2章:三百年の孤独が、君の瞳に溶けていく。――潮騒の街のニューハーフバーで、不器用な人狼が恋をした、一夜の約束。

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第3話:「ふざけんな」と震える声──再び、光か闇かを選ぶ路地裏の岐路

 港の朝は、早い。


 まだ東の空がうっすらと白んでいるうちから、トラックのエンジン音が低く唸り始める。フォークリフトが倉庫の間を縫い、コンテナとパレットが行き交う。


 カミヤは、指定された倉庫に行くと、無言で軍手を受け取った。


「新顔か?」


「源さんの紹介だ」


「なら大丈夫だろ。荷物はこれだ。壊すなよ」


 中型コンテナに積まれているのは、主に食品と雑貨。たまに、妙にやけに頑丈な木箱もあるが、そういうのには指示がない限り触らない。


 一つのパレットを四人で運ぶ仕事を、カミヤは一人でこなした。


「おい兄ちゃん、それ二人分だぞ」


「大丈夫だ」


 腰を落とし、膝で持ち上げる。百キロ超の荷重がかかるはずだが、カミヤの筋肉は、さほどの負荷には感じていない。


 十階建てのビルから飛び降りても骨一本折れない身体にとっては、これくらいは準備運動だ。


「……あいつ、ヤベえだろ」


「クレーンかよ……」


 ささやき声が、あちこちから聞こえてくる。


 仕事の手を抜くわけにはいかない。だが、目立ちすぎてもいけない。そのギリギリの線を探りながら、カミヤは黙々と荷物を運び続けた。


 昼休憩には、コンビニのおにぎりを二つと、味噌汁のカップを一つ。


 倉庫の外で座っていると、カモメが頭上をかすめて飛んでいく。鳴き声が、遠く、うるさい。


「よく食うな、兄ちゃん」


 同じ班の中年男が、笑いながら缶コーヒーを差し出してきた。


「よく働く男には、よく食わせないとな」


「悪いな」


 缶を受け取り、一口。砂糖の多い缶コーヒーの甘さが、乾いた喉を滑り落ちる。


(こういう、どうってことない時間が、一番人間っぽいのかもしれねえな)


 ふと、そんなことを思う。


 ——夜。


 仕事を終えたカミヤは、倉庫の二階の空き部屋に上がった。


 畳がところどころ剥がれ、窓のサッシには錆が浮いている。だが、壁はまだしっかりしていた。風と雨さえ防げれば、他に文句はない。


 角に丸めたダンボールを敷き、拾ってきた毛布を一枚被る。


 薄い窓ガラスの向こうで、港のライトが瞬いていた。


 天井を見上げると、そこに、夜がある。


 影狼が、静かに動いた。


 床に伸びた自分の影から、クロが顔を出す。


『主人』


「なんだ」


『この街、匂いが悪い』


「薬だろ」


『それだけじゃない。血と、淀んだ涙の匂いがする』


 クロの鼻は、いつだって敏感だ。


 カミヤは、薄く目を細めた。


「港町ってのは、だいたいそういうもんだ。運ぶもんが多けりゃ、そのぶん裏も増える」


『狩りはしないのか』


「しない」


『つまらん』


 クロは、ふてくされたように影に沈む。


 人間を殺さないと決めたのは、カミヤ自身だ。


 どれだけ酷い人間でも、死なない程度に痛めつけて終わらせる。それが、今の彼の「線」だった。


 三日が過ぎ、四日が過ぎ、一週間が過ぎた。


 仕事はきついが、身体は平気だ。疲れるのは、むしろ心のほうかもしれない。


 誰かと家族になったこともない。友達と呼べる相手も、とっくに寿命で死んだか、どこかへ行った。今さら誰かと深く関わる気もない。


(だから、こういう日々で十分だ)


 そう、自分に言い聞かせる。


 二週間が過ぎた頃、財布にはそれなりの厚みが戻ってきた。


 原付のガソリンも満タン。簡単な着替えも、新しく一式買えるくらいには。


 夜風が、いつもより少し暖かく感じた。


 カミヤは、毛布から半身を起こして、窓の外を見た。


 港の向こう、街のネオンが、色とりどりに滲んでいる。


「……たまには、街に出るか」


 ひとりごとのような声が、埃っぽい部屋に落ちた。


 ---


 その夜、久しぶりにジャケットの襟を正した。


 倉庫仕事で汚れたTシャツの上に、まだマシな方のパーカーを羽織る。その上から、シンプルな黒のジャケット。ボトムスは、破れていないジーンズ。


 鏡なんてものはない。窓ガラスに映る自分の輪郭を、なんとなく確認する。


 驚くほど整った顔立ち。通った鼻筋と、長い睫毛。自分では見慣れたそれを、「厄介な外見だ」と思う。


 目立ちたくないのに、目立ってしまう顔だ。


「……ま、どうせすぐ出ていく街だ」


 パーカーのフードをかぶれば、多少はごまかせる。琥珀色の瞳も、闇の中ではそれほど光らない。


 港から歓楽街までは、歩いて十五分ほど。


 ネオンが集まる一角に足を踏み入れると、空気の匂いが変わった。


 アルコールと香水と、香辛料と、汗と、媚びた笑い声。そこに、微かに混じる、泣きたいのに泣けない人間の匂い。


「お兄さん、遊んでかない?」


 キャバクラの前に立つ呼び込みの女が、笑顔で声をかけてくる。


「また今度な」


 軽く手を振ってスルーする。


 スナック、ガールズバー、ホストクラブ。そして——


 ふと、違う種類の光が目に入った。


 ビルの二階に掲げられた、白い看板。


 艶やかな筆文字で「月下美人」と書かれ、その下に小さく「ニューハーフバー」とある。


(……ニューハーフ、ね)


 人間は、外側を変えることで、自分の居場所を探す。


 肉体ごと異形で生まれ、人間の皮をかぶって「紛れ込む」しかない自分とは、ある意味で正反対で、ある意味で似ている。


 カミヤは、看板を一瞥し、通り過ぎようとした。


 その時だった。


 鼻先を、微かな違和感が掠める。


 甘い香水と、安めのファンデーションの粉の匂い。その下に、硬く締め上げられた筋肉の汗の匂い。さらに、その奥に——


 恐怖と、怒りと、必死の抵抗。


(……喧嘩の匂いだ)


 足が、自然と止まる。


「面倒ごとは御免だぞ」


 小さく呟きながらも、身体はもう動いていた。


 表通りから少し外れた、ビルの脇の細い路地。ゴミ袋と酒瓶のケースが積み上げられ、地面には水か何かがこぼれて、黒く濡れている。


 奥から、押し殺したような声が聞こえた。


「だから、見てないって言ってるでしょ……!」


 女の声だ。


 カミヤは、路地の入口から中を覗き込んだ。


 ——そこにいた。


 三人の男と、一人の女。


 女は、ビルの壁に背を押しつけられている。周りを囲んでいるのは、いかにもなチンピラ風の男たちだ。


 正面に立つのは、髪の毛を黒く染めた金髪崩れ。色素の抜けた眉毛、落ち窪んだ目。口の端が乾いて白くなっている。妙にきつい香水の匂いが、路地に充満していた。


「嘘つけよ、蘭ちゃん」


 男は舌をねっとりと動かしながら言った。


「サヤから買ってるとこ、バッチリ見てただろ? 黙っててほしかったら、アンタも一発キメな。そしたら同罪だ、誰にも言えねえだろ?」


(麻薬……)


 カミヤは、すぐに状況を理解した。


「蘭」と呼ばれた女は、看板の店のキャストだろう。背が高く、ヒールを履いているせいもあって、男たちの誰よりも目線が高い。


 長い黒髪をまとめて後ろに流し、露出の少ないドレスなのに、立っているだけで人目を惹く「線」がある。普通なら、その場にしゃがみ込んで泣きそうな状況なのに、まだ相手を睨み返すだけの気力を残していた。


「サヤは、あんたたちに無理やり……」


「おっと」


 金髪崩れが指を立てる。


「無理やりなんて言葉、安く使うもんじゃないよ。サヤちゃんだって、ちゃんと自分でサインしてんだ。買う自由、使う自由。なあ?」


 ほかの二人が、にやにやと笑う。


 蘭の顎が、悔しさで震えた。


「……最低」


 絞り出すような声だった。


 金髪崩れは、その声に快感を覚えたように、眉をひそめる。


「ねえ蘭ちゃん。俺は優しいからさ、まだ選ばせてやってんだよ? 黙って見て見ぬフリするか、一緒に落ちるかって。どっちもできないとか、ないから」


 その言葉を聞きながら、カミヤは内心で天秤を動かしていた。


(関われば、確実に面倒だ)


 麻薬絡み。組織の匂いもする。彼女を助けたところで、自分もまともにこの街にいられなくなるのは、目に見えている。


(見なかったことにすりゃいい)


 それが、一番賢い選択だ。


 橋の上でも、同じことを考えた。


 あの時は、選んだ。人間の少女を、一人、光の下に送り出す選択を取った。その結果、自分は「誘拐犯」と呼ばれ、警察と組織に追われることになり、橋ごと落ちた。


 また同じことを、繰り返すのか。


「……」


 踵を返そうとしたその時、女の声が低く、刺すように響いた。


「——ふざけんな」



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