第2話:港町・潮見市の夜、裏稼業へと続く路地裏で
「潮見市」の文字が書かれた標識を通り過ぎると、景色が変わった。
右手に、錆びたクレーンが林立する巨大な埠頭。左手には、古いアーケードの商店街と、その裏側に隠れるような歓楽街のネオン。観光地でもあり、港町でもあり、労働者の街でもある——そんな混沌を、ひとつの湾の中に押し込めたような地方都市。
夕陽が海に落ちかけている。空はオレンジから紫へと、ゆっくりと焦げつつあった。
信号で止まった時、カミヤはジャケットの内ポケットから財布を取り出す。
中身は、二千円ちょっと。
(ガソリン入れたら、それで終わりってとこだな)
とりあえず、仕事と寝床だ。
こういう町には、たいてい一人や二人、裏社会と表社会の境目で仕事をあっせんしている「手配師」がいる。日雇いの港湾労働、臨時のボディーガード、荷物運びから、少々グレーな運転手まで。
そういう奴は、だいたい酒とタバコと陰口が集まる場所にいる。
カミヤは原付を、商店街の外れにあるパチンコ屋の駐輪場にとめた。キックペダルにワイヤーロックを巻きつけ、周囲を一瞥する。
人間の匂い、潮の匂い、油の匂い、安い香水と柔軟剤の匂い。そして、その下に薄く沈んでいる、覚えのある匂い。
(薬……か)
胃の奥が、わずかに冷える。
面倒な町だと、内心で舌打ちする。
だが、金がない以上、選り好みはできない。
路地を一本、また一本と抜ける。外灯の少ない細い道には、灰皿代わりの空き缶と、吸い殻と、缶チューハイの空き缶が転がっていた。
「なあ兄ちゃん、火ぃある?」
薄汚れたフードパーカーの若い男が、ふらふらと近づいてくる。目が据わっている。むき出しの前腕には、点々と針の痕が並んでいた。
「悪いな。持ってねえ」
カミヤは軽くあしらい、通り抜けようとした。
だが、その男の隣にいた別の若者が、妙に鋭い目でカミヤを睨んだ。
「兄ちゃん、港でバイト探してんだろ」
足が、自然と止まった。
「……なんでそう思う」
「顔」
妙な返事だ。若者は、口角だけで笑った。
「この街で、よそ者のガタイのいい男が来たら、だいたい港目当てだよ。こっちだよ」
勝手に先導を始める。
胡散臭いにもほどがある。
(追い返すか)
そう思って足を上げかけた瞬間、影が小さくざわついた。
『主人。あいつの後ろに、もう一つの匂いがある』
クロの声だ。
カミヤは、鼻先で空気を嗅いだ。
安い香水と、煙草と——樟脳のような、古い木と紙の匂い。
「……年寄りの匂いだな」
『人をまとめている匂いだ』
裏社会の「根っこ」の匂い。そういうものには、カミヤも何度か出会ってきた。
ほんの少しだけ、ルートを変えようとしただけだ。変えた結果が、どう転ぶかなんて、誰にもわからない。
「で、その先に何がある」
「源さんとこ」
若者が答えた。
「この辺で仕事欲しい奴は、みんな源さん通すんだよ。兄ちゃんみたいに腕っぷしありそうだと、日当も悪くないかもな」
数分歩くと、赤いネオン管がチカチカ瞬く古いスナックが見えてきた。
看板には、かろうじて読める文字で「スナック・すずらん」と書かれている。昭和で時間が止まったような店構えだ。
若者は、入口のドアを顎でしゃくった。
「ほら。がんばれよ」
そう言って、あっさり背中を向ける。
「……さっさと足洗えよ」
思わず余計な一言が口から出た。
若者は、一瞬だけ振り返って、薄く笑った。
「兄ちゃんこそな」
その背中が、薄暗い路地に消える。
(……ガキの癖に、なかなか言いやがる)
カミヤは小さく鼻を鳴らし、ドアを押した。
中は、薄暗かった。
カウンターが一列、奥に小さなステージにもならないスペースと、カラオケのモニター。古い演歌が小さな音で流れている。
カウンターの内側に、一人の男がいた。
五十代半ば。髪は七三に分けられ、白髪混じり。黄ばんだシャツに、安物のグレーのスーツ。右手の指には、古い火傷の痕がある。
目だけが、妙に若く、鋭かった。
「……あんた、見ない顔だな」
ソファ席に客はいない。カウンターにも誰も座っていない。なのに、空気は薄く煙たかった。
男は、くゆらせていた煙草の火を、灰皿に押しつける。
カミヤは、カウンターから一つ席を空けた場所に腰を下ろした。つまり、「馴れ馴れしくはないが、逃げる気もない」距離感だ。
「北の方から流れてきた。日雇いの仕事、ねぇか」
単刀直入に切り出す。
男は、細い目でカミヤを頭からつま先まで眺めた。
「名前は」
「狼谷」
「オオカミタニ?」
「カミヤでいい」
「年は」
「二十そこそこに見えるなら、それで」
「……はぐらかすねぇ」
男は舌打ちせずに舌打ちしたような顔をした。だが、その目には不機嫌ではなく、興味が宿っている。
「喧嘩は?」
「多少は」
「刃傷沙汰は?」
「仕事の内容による」
「なるほどな」
男はカウンターの下から、くしゃくしゃになったメモ用紙の束を取り出した。中から、一枚を破り取る。
「港の倉庫で荷揚げだ。日当八千、翌日払い。宿は、倉庫の二階の空き部屋を使っていい。寝具は出ねぇから、自分でどうにかしろ。飯も自分持ちだ」
「十分だ」
現金がすぐに手に入り、屋根があるだけマシだ。
男は書きかけたペンを止める。
「……ただし、ひとつ聞いておく」
「なんだ」
「人を殴ることに、抵抗は?」
空気が、ほんのわずかに変わった。
「抵抗がまるっきりねえ奴なら、俺はここに回さねえ。だが——」
「必要なら、やる」
カミヤは、淡々と言った。
「だが、やり過ぎはしねえ。そこは、譲らねえ」
男は、しばらく無表情でカミヤを見つめていた。
やがて、口元をわずかにほころばせる。
「……いい目をしてる。線は越えねえが、踏み込む覚悟はある目だ」
メモ用紙に、簡単な地図と、倉庫番号、担当者の名前が殴り書きされる。
「源だ。そう呼ばれてる。何かあったら、また来な」
「世話になる」
財布の中身を見て、カミヤは一番安そうな缶ビールを一本だけ頼んだ。源は何も言わず、冷蔵庫から缶を取り出す。
プシュ、と音を立てて缶を開け、一口。
安物の苦味が舌に広がる。
(……とりあえず、今夜明日の寝床は確保だな)
三百年生きていても、生活はいつだって日銭で回している。その滑稽さに、自分でも苦笑したくなる。
だが、人狼が人間界で「普通に」生きるには、それしかない。
潮見市の夜の匂いを、カミヤは静かに肺に落とし込んだ。




