第1話:橋の崩れた夜から三ヶ月後、優しい狼は南へ走る
橋の崩落とともに姿を消した人狼・カミヤ。それから三ヶ月が経ち、彼は原付と共に南の港町「潮見市」へと辿り着きます。
そこで出会ったのは、ニューハーフバー『月下美人』のナンバーワンキャストでありながら、自らのアイデンティティと孤独に揺れる女性・リオでした。 「自分の身体をいじってまで人間の枠に入ろうとした女」と「人間の皮を被って紛れ込むしかない獣」。
似たような孤独を抱える二人が、街を支配する麻薬組織の闇に巻き込まれ、一夜限りの救済へと走り出します。潮騒の街を舞台に描かれる、不器用で切ない恋と戦いの記録をどうぞお楽しみください。
橋が落ちてから、三ヶ月が経った。
原付のエンジンは、もう何時間も同じ唸りを続けている。海沿いの国道を、黒い影が一つ、ひたすら南へと流れていく。
ヘルメットの隙間から、潮の匂いが入り込んだ。塩と、海藻と、遠くの漁港の油の匂い。風はまだ冷たく、頬を刺す感触が心地よい。
——ニュースでは、一週間も騒がれた。
「女子高生誘拐事件、容疑者と少女を乗せた車両、橋崩落とともに消息不明」
「容疑者の男は死亡、少女は川下で救助」
その後、「橋の老朽化ガー」「行政の責任ガー」と、テーマがすり替わっていくのに、そう時間はかからなかった。世間は忙しい。昨日の悲劇は、今日のワイドショーの飯のタネで、明日には次のネタに上書きされる。
人狼一匹の生死なんて、なおのこと。
ハーフヘルメットの下、カミヤは口元だけで笑った。
「……ま、慣れたもんだな」
誰に聞かせるでもない、独り言だ。
三百年も生きてりゃ、いろんなもんを見送ってきた。主も、仲間も、時代も、町も、国も。隣で笑ってた奴が、次の瞬間にはいなくなることも、珍しくない。
置いていかれる痛みなんて、とっくの昔に擦り切れた——はず、だった。
それでも、胸の奥のどこかが、ときどきうずく。
あの橋の上で、自分のパーカーを引きちぎって少女に被せ、影狼を全部解き放ち、警察とヤクザとをまとめて薙ぎ払った夜。満月の下、少女の背中を、光の方へ押し出した時のこと。
琥珀色の瞳に映っていた、泣きそうで、でも泣かないように噛みしめていた強情な顔。
「ナギは、ちゃんと光の下で生きてるかねぇ」
ぽつりと呟き、アクセルを少しだけ開く。
原付は、排気量のわりにはよく走る。中古で買った時にはボロだったが、簡単にバラして全部整備し直した。エンジンもタイヤも、もうしばらくは保つ。
ガソリンメーターは、まだ半分。財布の中身は、千円札が二枚と、くしゃくしゃのレシート、小銭が少し。
(仕事探さねえとな)
橋から落ちたあの日から、三ヶ月。二つの町を転々とし、それぞれで日雇いをして、また南を目指してきた。
目的地は、ない。
ただ、どこかの町で、数週間から数ヶ月だけ地面に根を下ろし、働いて、少し金を貯めて、また流れる。三百年もそんなことを繰り返していれば、「ここが終の棲家だ」なんて思える場所は、もう残っていない。
原付の影が、夕陽を背に伸びる。
細長く伸びた影の足元で、黒い何かが、ふ、と蠢いた。
『主人』
耳ではなく、骨の芯に響く声。
カミヤは目だけ動かして、路面に走る自分の影を見下ろした。影の中から、六つの赤い光点が、じっとこちらを窺っている。
五匹の影狼のうち、最も気性が荒く、最も忠誠心の強い「クロ」だ。
「なんだ」
『退屈だ。ずっと走ってばかりで、狩りがない』
「贅沢言うな。今は目立てねぇ」
『あの娘は、どうした』
「ナギのことか」
『あの娘のところに置いていった、小さい狼。あいつ、主人の匂いが好きだった』
カミヤは、風に紛れるような小さな笑い声を漏らした。
「……さぁな。どっかで、しぶとく生きてるだろ。あいつ、そういう顔してた」
『ふん』
クロは鼻を鳴らし、また影の底に沈み込む。
胸の奥の棘——橋の上での、最後の咆哮の余韻。それはもう、鋭くはない。生きていれば、いずれ鈍っていく痛みだ。
三百年の孤独に比べれば、こんなもんは、どうということはない。
そう、カミヤは自分に言い聞かせる。
前方に、青い標識が見えてきた。
「潮見市 → 8km」
知らない名前の、知らない町。だが、その海と夜に、思いもよらない出会いが待っていることを、今のカミヤはまだ知らない。
アクセルを、ほんのわずかに強く捻った。




