第14話:『犯人死亡』の裏側に、たった一つの真実を隠して
そのあと、どうやって橋から引きずり降ろされたのか、あまり覚えていない。
警官たちの怒鳴り声と、救急車のサイレンと、ヘリのプロペラ音が、ぐちゃぐちゃに混ざっていた。
誰かが「少女確保!」と叫んだ。
「大丈夫か」「怪我はないか」と、矢継ぎ早に質問される。
私は、ただひとつの言葉しか、口にできなかった。
「……カミヤは?」
誰も、答えてくれなかった。
代わりに、テレビが答えを出した。
『橋崩落、犯人の男死亡か』
『少女保護、誘拐事件は解決へ』
画面の中でアナウンサーが、淡々と言葉を紡いでいく。
「犯人死亡」
そのテロップが、頭の中で何度も点滅した。
***
季節は、冬になっていた。
あの夏の日から、何度も何度も、朝が来て、夜が来て。
私は、あの家には戻らなかった。
保護されたあと、事情を話した。
父親に殴られていたこと。母親が止めなかったこと。夜、逃げ出したこと。
全部本当のことなのに、「盛ってない?」と疑う視線も、確かにあった。
でも、病院の診断書や、近所の人の証言や、学校での担任の話で、どうにか「虐待」は認められた。
父は、いなくなった。どこに行ったのか、誰も教えてくれない。
母は、テレビに映らなくなった。
代わりに、私は「保護された被害者」として、児童相談所やカウンセラーのところを何度も回った。
「怖かったでしょう」
「でも、もう大丈夫よ」
その言葉に、私は笑ってうなずいた。
「はい。もう、大丈夫です」
そう言うたびに、胸の奥で、なにかがちくりと痛んだ。
怖いのは、あの家じゃない。
怖いのは、「犯人死亡」という、軽いテロップ一行で、あの人の存在が片付けられてしまったことだ。
あの橋の上で、銀色の粒子を撒き散らしながら、私を逃がすために戦っていた人が。
「犯人」の一言で、全部、終わってしまったことが。
***
冬の風は、骨の中まで冷やしてくる。
アパートの外廊下に出ると、吐く息が白くなった。
私は、両手をポケットに突っ込んで、自分の部屋の前まで歩く。
二階建ての、古い木造アパート。家賃は安いけれど、壁は薄い。上の部屋の人がくしゃみをすると、なんとなくわかるレベル。
でも、ここには、あの家の臭いはない。
タバコと焼酎と油の臭い。
怒鳴り声と、泣き声の残響。
代わりにあるのは、電子レンジの音と、風呂の湯気と、誰かが笑いながらテレビを見る音。
「ただいま」
小さく呟いて、鍵を差し込む。
六畳一間の部屋。キッチンと、小さな居間と、押し入れと。
テーブルの上には、バイト先のスーパーでもらってきた惣菜のパックと、格安のペットボトルのお茶。
窓辺には——。
一本の、缶コーヒーが置いてある。
ブラック無糖。
あのとき、神社の前で、彼が飲んでいたのと同じメーカー。同じデザイン。
私は、毎朝それを一本だけ買ってきて、窓辺に供えている。
「今日も、ちゃんと生きてきたよ」
独り言みたいに呟きながら、コートを脱いでハンガーにかける。
制服じゃない。
安物のデニムに、バイト先から支給されたポロシャツ。首には、社員証じゃなくて「パート」の名札。
高校には、戻らなかった。
戻ろうと思えば、戻れたのかもしれない。
でも、どうしても、あの玄関をくぐる気にはなれなかった。
その代わりに、通信制の高校に申し込んで、週に何回か通うことにした。
教室は、小さい。クラスメイトも、少ない。みんな、なにかしら事情を抱えている。
学校帰りに、そのままスーパーのバイトに行く。
レジを打ったり、品出しをしたり。
「いらっしゃいませー」
「ありがとうございましたー」
その言葉を、あの人は、どんな気持ちで言ってたんだろう。
「夜勤、大変?」
ある日、社員さんに聞かれて、私は笑って首を振った。
「そんなに。夜のほうが、落ち着きますし」
あの日のコンビニを、ふと思い出す。
深夜のレジ。白い蛍光灯。誰もいないイートイン。
そこに立っていた、ぶっきらぼうな店員。
「いらっしゃいませ」
「ありがとうございました」
あの、何気ない一言一言の裏側に、あんな世界があったなんて。
「ねえ、カミヤ」
窓辺の缶コーヒーに向かって、話しかける。
「今日ね、レジ打ちミス、ゼロだった」
誰も答えない。
当たり前だ。
カミヤは、橋の下に消えたんだから。
「あとね、学校のほうも、レポート一個出した」
誰も褒めてくれない。
でも、それでいい。
あの日、彼が言った。
『フラグ立ててる暇があったら、足を動かせ』
『生きろ』
『勝手に物語を終わらせるな』
その言葉が、今も背中を押している。
「ちゃんと、しぶとく生きてるよ」
小さく笑って、テレビの電源を入れる。
ニュース番組では、今日もいろいろな事件が流れている。
誰かが死んで、誰かが逮捕されて、誰かが涙を流している。
でも、あの夏の日の橋のニュースは、もうどこにもない。
過去の事件として、アーカイブの中に押し込まれている。
「犯人死亡」
「少女保護」
それだけ。
私の記憶の中では、まるで違う物語なのに。
「……ありがとう、カミヤ」
呟きは、窓ガラスに吸い込まれていく。
そのときだった。
窓の外で、ふっと光が揺れた。
「……え?」
雪だった。
いつの間にか、外は白い粒で満ちていた。
街灯の光を受けて、雪片がひらひらと舞っている。
その中に——。
一瞬だけ、銀色の粒子が混じった気がした。
「……」
目をこする。
見間違いかもしれない。
でも、もう一度、外を見る。
街灯の下、駐車場のアスファルトの上に、銀色の粒子がふわっと浮かび上がった。
それは、数秒だけ、狼の形をとった。
小さな、小さな狼。
子どものイラストみたいに、簡略化されたシルエット。
でも、目だけは、ちゃんと光っていた。
琥珀色。
「……っ」
息が詰まる。
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
「カ、ミヤ……?」
名前を呼んだ瞬間、その小さな狼は、すっと消えた。
代わりに——。
足元に、違和感が走る。
部屋の蛍光灯が作る私の影。
その中に、何かが混じっていた。
小さな耳。
小さな尾。
「え?」
影の中で、小さな狼が、首をかしげた。
「……」
瞬きをしても、消えない。
足を少し動かすと、一緒についてくる。影の濃さに合わせて、輪郭が少し変わるけれど、ちゃんと「そこにいる」。
「うそ……」
足元にしゃがみ込んで、そっと手を伸ばす。
触れない。影だから。
でも、小さな狼は、私の手のひらに鼻先を押し付けるみたいな仕草をした。
くすぐったいような、あたたかいような感覚が、掌に広がる。
「……シロ?」
試しに、あの名前を呼んでみる。
影の狼は、嬉しそうに尻尾を振った。
「じゃあ、きみは——」
言葉が、喉の奥で震える。
「カミヤ、からの、プレゼント?」
誰も答えない。
でも、それで十分だった。
涙が、ぽたぽたと畳の上に落ちる。
「ずるいよ……」
笑いながら、泣く。
「そんなの、また、生きるしかなくなるじゃん」
彼は、本当に卑怯だ。
でも、そんな卑怯さに、何度も救われている。
「ねえ、これで、少しは、影になれた?」
窓の外には、相変わらず雪が降り続いている。
街灯の光の中で、白い粒と、ほんの少しの銀色の粒子が混じり合っていた。
「ありがとう、カミヤ」
今度は、はっきりと言えた。
「私、ちゃんと生きるから」
影の中の小さな狼が、こくんと頷いた気がした。
私は、涙を拭いて、立ち上がる。
バイトに行く時間だ。
スーパーのレジの前で、「いらっしゃいませ」と言う。
夜のコンビニとは違う。でも、どこか似ている。
誰かの日常の中に、私は立っている。
それが、今の私の「光の下」だ。
影は、足元に寄り添っている。
小さな狼の影と一緒に。
物語は、あの橋の上で終わらなかった。
これからも、きっと、いろんなことがある。
嫌なことも、楽しいことも、怖いことも、嬉しいことも。
その全部を抱えながら、私は今日も、「生きててよかった」と言えるように、しぶとく歩いていく。
——そのたびに、足元の影の中で、小さな狼が、こっそりと尻尾を振っていることを、私はちゃんと知っている。
最後までお読みいただき本当にありがとうございました。
満月の夜、崩落する橋の上でカミヤが叫んだ「お前は光の下で生きろ」という言葉,。
彼は濁流へと消えてしまいましたが、凪の足元には、彼が遺した小さな狼の影「シロ」が寄り添っています,。
たとえ離ればなれになっても、凪は彼との約束を胸に、この世界でしぶとく生きていくことを決めました。
物語は、ここから数ヶ月後。社会的に「死んだ」ことになったカミヤが、一台の原付で新たな街へと流れ着く第2章へと続きます。
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また次の街でお会いしましょう。




