第13話:『生きろ』という呪いと、銀色の粒子が消える川
橋の中央付近が、限界に近づいているのがわかった。
コンクリートに走るひび割れが、どんどん広がっていく。欄干の一部は、すでに川に落ちていた。
影の狼たちが、そのひび割れを踏み越えて走るたび、橋全体がゆらゆらと揺れる。
「……やば」
思わず声が漏れる。
向こう側にいる警官たちも、危険を感じたのか、一時的に引き下がっていた。
その隙に、私は橋のたもとまであと数メートル、というところまで辿り着いていた。
「ナギ!」
また、名前を呼ばれる。
振り返ると、カミヤが、橋の真ん中でこちらを見ていた。
狼の姿のまま。血まみれのはずなのに、銀色の光がそれを全部覆い隠して、まるで月の化身みたいに見えた。
「行け!」
彼が、叫ぶ。
「ここで止まったら、全部意味ねえ!」
「でも——!」
涙が、視界をぼやけさせる。
「一緒に——」
「無理だ!」
鋭い声。
「俺は、こっから先、行けねえ!」
「なんで!」
「見ろよ!」
彼が、足元を指さす。
橋の中央付近。大きなひび割れ。コンクリート片が、ぽろぽろと川に落ちていく。
「ここは、俺みたいなもんが暴れりゃ、崩れるようにできてんだよ!」
「カミヤが、壊したんじゃないの?」
「きっかけにはなったかもな。でも、もともとギリギリだった」
彼は、息を切らしながら笑った。
「橋ってのは、いつか落ちるもんだ。設計したやつらは、『何十年先』って数字を見てたかもしれねえけど……」
「今じゃん!」
「そうだよ。今だ」
彼は、ひとつ深呼吸をして、続けた。
「だったら、その『いつか』を、お前を逃がすために使う」
「……っ」
胸の奥で、なにかがはじけた。
「やだ」
子どもみたいな言葉が、口からこぼれる。
「そんなの、いやだよ」
「知るか」
彼は、無茶苦茶なことを言う。
「俺の我慢の限界は、とっくに超えてんだよ。ここんとこ、人間に撃たれすぎた」
「だったら、なおさら——」
「ナギ」
その一言で、身体がぴたりと止まった。
「なに」
「聞け」
睨まれているのに、どこか優しい目。
「お前、あの家にいたころ、どうやって耐えてた」
不意の質問に、一瞬、息が止まる。
「どう、って……」
「死ななかった理由だよ」
「……」
少しだけ、考えた。
「本、かな」
「本?」
「学校の図書室で、いっぱい借りてた。ファンタジーとか、冒険物とか。知らない世界の話読んで、『ここじゃないどこかに行けたらいいな』って思ってた」
答えながら、涙があふれてきた。
「でも、本の中の主人公たちは、みんな、すごくて。勇敢で。ちゃんと、自分で歩ける子たちで。私みたいに、逃げることしかできない子じゃなくて」
「そうか」
カミヤは、少しだけ目を細めて笑った。
「じゃあ、今から、お前がそいつらになる番だ」
「え」
「物語の主人公」
「無理だよ」
「無理じゃねえ」
彼は、拳を握りしめた。
「主人公ってのはな、最初から強いわけじゃねえ。怖くても、震えてても、『もう一歩』踏み出すから、主人公になるんだよ」
「……」
「お前は、もうあの家から一歩踏み出した。夜の繁華街から、一歩踏み出した。俺にしがみついて、一緒にここまで来た」
「それは、カミヤが——」
「違えよ」
彼の声が、少しだけ強くなる。
「俺は、きっかけでしかねえ。選んだのは、いつもお前だ」
「……」
「だから、今も、選べ」
橋の向こうを見る。
川の向こうに続いていく、知らない街。つまらない日常。めんどくさい人間関係。うるさい大人たち。歪んだニュース。
でも、その中に——。
「お前は、光の下で生きろ」
さっきの言葉が、もう一度、彼の口からこぼれた。
「俺は、影だ。影は、光がないと存在できねえ。光のない場所に、一人で取り残された影なんて——」
一瞬、言葉が途切れる。
「それは、影じゃねえ。ただの闇だ」
「……」
「お前が、光の下で生きて、笑って、飯食って、『生きててよかった』って言いながら唐揚げ食ってる限り——」
彼は、微笑んだ。
「俺は、影でいられる」
胸が、痛すぎて、呼吸ができなかった。
「そんなの、卑怯だよ」
やっと絞り出せた言葉。
「そんなふうに言われたら、行くしかなくなるじゃん……」
「卑怯で結構」
彼は、肩をすくめる。
「行け、ナギ」
名前を呼ばれるたびに、身体の芯が震える。
「嫌われてもいいの?」
「とっくに嫌われてる」
「私にだよ」
「お前に、嫌われる道、選べるほど、器用じゃねえ」
「……ずるい」
笑いながら泣く、なんて器用なこと、私にはできない。
ただ、涙を流しながら、叫ぶだけ。
「カミヤ!」
「なんだ」
「私、カミヤのこと——」
「言うな」
ぴしゃり、と遮られた。
「そういうのは、ちゃんと生き延びてから言え」
「でも——」
「フラグ立ててる暇があったら、足を動かせ」
「なにそれ、なろう脳?」
「うるせえ」
橋が、限界に近づいている。
あちこちから、コンクリートの砕ける音がする。
「ナギ」
「なに」
「約束しろ」
「……」
「生きろ」
短く、はっきりと。
「俺がどうなっても、生きろ。勝手に死ぬな。勝手に消えるな。勝手に、物語を終わらせるな」
「——」
喉が、きゅっと締まる。
「約束しろ。ナギ」
「……うん」
やっと、それだけ絞り出した。
「約束する」
涙でぐしゃぐしゃの顔でも、嘘だけはついてない。
「絶対、生きる。カミヤが、『生きててよかった』って思えるくらい、しぶとく生きる」
「上等だ」
彼が、笑った。
その笑顔は、狼の顔のままなのに、不思議と優しかった。
「行け、ナギ!」
世界が、スローモーションになる。
足が、地面から離れる。
一歩。
二歩。
橋のたもとまで、あと数歩。
そのとき。
「——ナギ!」
また、名前を呼ばれた。
さっきまでの怒鳴り声とは違う。
必死で、掴みとろうとするみたいな、かすれた声。
「なに!」
振り返らずに答える。
「ナギ・城ヶ崎ナギ!」
フルネーム。
彼が、私の名前をフルで呼んだのは、これが初めてだった。
「お前を——」
銃声。
轟音。
世界が、崩れた。
橋の中央部分が、ついに持ちこたえられなくなったのだ。
コンクリートが、轟音とともに川に落ちていく。
「カミヤ!」
思わず叫んで、振り返る。
橋の真ん中で、彼が崩れ落ちる橋の破片と一緒に、ゆっくりと沈んでいくのが見えた。
影の狼たちが、その周りを旋回するように走る。
銀色の粒子が、滝みたいに溢れ出る。
「——っ!」
声にならない叫び。
伸ばした手は、彼に届かない。
数十メートルの距離と、崩れ落ちるコンクリートと、渦巻く川の流れ。
全部が邪魔をする。
「嫌だ! 行かないで!」
無意味な言葉を、何度も叫んだ。
「カミヤ! カミヤ——!」
彼は、こちらを見ていた。
狼の顔のまま。
琥珀色の目に、私の姿を映して。
「——ナギ」
最後に、もう一度。
「生きろ」
口の動きだけで、そう言ったように見えた。
次の瞬間、橋の中央部分と一緒に、彼の姿は川の中へと消えた。




