第12話:怪物と呼ばれる英雄と、止まらない少女の足
橋の真ん中に近づくにつれて、空気が変わっていくのが、肌でわかった。
遠くで、ヘリコプターのプロペラ音がする。まだ姿は見えないけれど、風の震え方がいつもと違う。
橋の欄干の向こう、川の流れはゆっくりとしていて、水面が鈍く光っていた。
「ナギ」
「ん」
「ここから先は、走ってもらう」
「え?」
「俺が合図したら、全力で向こう側のたもとまで走れ。振り向くな。止まるな。泣くな」
「三つも条件つけないで」
「守れそうなやつだけ守れ」
「泣かないのは、ちょっと自信ない」
「泣きながらでも走れ」
「わかった」
うなずいた瞬間、橋の向こうからサイレンの音が聞こえはじめた。
赤と青の点滅が、遠くに小さく揺れている。
「警察……」
「だけじゃねえな」
カミヤの声が低くなる。
そのすぐあと、橋のこちら側——私たちが来たほうからも、同じようなサイレンの音がした。
振り返ると、白と黒のパトカーが数台と、その後ろに黒いワゴン車が連なっているのが見えた。
「挟み撃ち……」
呟いた私の背後で、カミヤが小さく笑った。
「わかりやすいな」
「笑ってる場合じゃなくない?」
「笑ってねえよ」
橋の両端に、車が並ぶ。
拡声器を通した声が、風に乗って響いてきた。
「そこにいる二人、聞こえるか! ゆっくり手を挙げて、こちらに歩いてきなさい!」
よくドラマで聞く台詞。でも、実際に自分が向けられると、胃がきゅっと縮む。
「少女は、保護する! 抵抗はするな!」
私のことだ。
「カミヤ……」
「落ち着け」
彼は、私の肩に手を置いた。
その手は、驚くほど冷静で、安定していた。
「俺がやることは、ひとつだけだ」
「なにを——」
最後まで聞く前に、世界が変わった。
空気が、きしむみたいな音を立てた。
橋の上の影が、ざわっと揺れる。
カミヤの足元から伸びる影が、夏の太陽に似合わないほど濃く、深く、黒くなる。
「——来い」
低い声が、橋全体に響いた。
影が弾けた。
真っ黒な狼たちが、一気に飛び出す。
一匹、二匹、三匹、四匹、五匹。
いつも見ていた「影の便利屋さん」ではなくて——今日は、違った。
毛並みが、月の光もないのに銀色にちらちらと光っている。牙は、鋭く長く伸びて、目はぎらりと光を宿していた。
「……っ」
息が、止まる。
「行くぞ」
カミヤの声に、私の身体が反射的に動いた。
「え、どこに——」
「向こう側だ。後ろを見んな。走れ」
「でも、カミヤは——」
「俺は、ここ」
短い言葉。
そのあとすぐ、彼は私の背中を押した。
「ナギ、走れ!」
その一言に、身体が反応する。
足が、勝手に地面を蹴っていた。
橋の中央から、向こう側へ向かって。
その瞬間、背後で轟音が響いた。
「撃て! 撃てぇ!」
誰かの叫び声。
乾いた連続音。映画の中でしか聞いたことのなかった銃声。
「っ——!」
思わず振り向きそうになる。
そのとき。
「見るな!」
怒鳴り声が背中を打った。
「前だけ見ろ!」
「……っ!」
歯を食いしばって、視線を前に固定する。
橋の向こう側には、まだ距離がある。欄干の向こうに見える川面が、やけに遠い。
足が重い。肺が焼ける。制服のスカートが足にまとわりついて、走りにくい。
でも、止まれない。
「ナギ!」
また、名前を呼ばれた。
「はい!」
返事が、自分でも驚くくらい大きく出る。
その声に押されるみたいに、足が少し軽くなった気がした。
背後で、世界が壊れていく音がする。
コンクリートが砕ける音。金属がひしゃげる音。誰かの悲鳴。狼の唸り声。
そして——。
「ぐっ……!」
短い、低いうめき声。
カミヤのものだって、すぐにわかった。
振り向きたい。
でも、振り向いたら終わる。
それが、身体のどこかでわかっていた。
「前——」
さっき彼が言った言葉を、自分でかみしめる。
「前だけ見ろって、言ったじゃん……!」
涙で滲む視界の向こうに、橋のたもとが近づいてくる。
そのとき。
「そこまでだ、動くな!」
橋の向こう側から、別の声が飛んできた。
見れば、こちら側にも警官たちが並んでいる。
防弾チョッキに、ヘルメット。盾を構えた者もいる。
「少女! 止まりなさい!」
「いやだ!」
自分でも驚くくらいの大声が出た。
「止まったら、全部終わる!」
警官たちの間で、ざわっと動揺が走る。
その一瞬の隙に、背後から衝撃波みたいな風が押し寄せた。
「——ッ!」
思わず、橋の欄干にしがみつく。
次の瞬間、足元のコンクリートが、音を立てて割れた。
「え、ちょ——」
橋が、揺れる。
揺れる、どころじゃない。
中央付近が、ぎしぎしと嫌な音を立てながら、少しずつ沈んでいく。
「嘘でしょ……」
振り返った。
そこには——。
人間じゃないものが、いた。
***
カミヤ、だったもの。
あの、夜のコンビニで「いらっしゃいませ」とぶっきらぼうに言っていた男と、同じ顔なのに、まるで違う存在。
背丈は、二メートル近くまで伸びていた。
黒いパーカーは破れて、筋肉質な身体の上から、黒い毛がびっしりと生えている。顔は、半分ほどが狼のように伸びて、口元からは鋭い牙が覗いていた。
目だけは、あのときと同じ——琥珀色。
でも、その色は、炎みたいに揺らめいていた。
「——」
言葉が、出なかった。
人狼。
頭のどこかで、そう認識しているのに、心が追いつかない。
彼の足元では、影の狼たちが、まるで本物の群れみたいに動いていた。
橋の上にいた警官たちが、次々と吹き飛ばされる。だけど、その誰の胸にも、致命的な一撃は加えられていなかった。
肩を打たれ、足を撃たれ、盾ごと弾き飛ばされて、コンクリートに転がる。
「ひ、ひいっ——!」
「うわぁぁっ!」
悲鳴が、あちこちからあがる。
人身売買組織の男たちだろうか、黒いワゴンから降りてきたスーツ姿の何人かが、銃を構えて一斉に撃った。
銃声。
火花。
カミヤの身体が、何発もの弾丸を受ける。
「——っ!」
叫びそうになった瞬間、彼の身体から、銀色の粒子が噴き出した。
前にも見た、あの「月の光みたいなやつ」。
でも、今日は違う。
量が、桁違いだった。
肩を撃ち抜かれた場所から、胸を貫いた場所から、腹をえぐられた場所から。
銀色の光が、滝みたいに溢れ出て、空中で渦を巻く。
それが、肉と骨と皮膚を、瞬時に繋ぎ直していく。
「……」
息を呑む暇もない。
撃たれても、撃たれても、彼は止まらなかった。
影の狼たちが、その前を走る。壁みたいに広がって、弾丸を受け止め、跳ね返す。
ひとつ、またひとつ、影が弾けて消える。
でも、そのたびに、彼の足元の影から、新たな狼が立ち上がる。
無限再生。
その言葉が、脳裏をよぎった。
「や、やめろ! 撃つな、効かない!」
誰かが叫んだ。
でも、銃声は止まらない。
彼は、橋の中央に立ったまま、手加減をしていた。
それが、わかった。
拳は、致命傷になる所だけは外して振るわれる。
顎のわずか下、こめかみの際——
衝撃だけが叩き込まれ、意識だけが刈り取られる。
足払いで倒した相手の頭を、踏み潰すことはしない。
代わりに、頸動脈を一瞬だけ圧迫するように踏み込む。
投げ飛ばされた人間は、
空中で身体を捻られ、受け身も取れないまま地面に叩きつけられ、
そのまま動かなくなる。
「……なんで」
こんなに傷ついてまで。
こんなに、撃たれてまで。
「なんで、そこまで——」
彼の再生は、もはや常軌を逸していた。
撃たれた瞬間に、傷が塞がる。血が、ほとんど地面に落ちない。代わりに、銀色の粒子が、橋の上にきらきらと降り注いでいる。
それは、美しくて、恐ろしくて。
「モンスターめ!」
誰かが叫ぶ。
「怪物だ!」
「殺せ!」
その言葉が、耳の中を反響する。
「怪物」って、そういう存在だ。
理解できない。怖い。だから、排除したい。
でも、私の中では、違っていた。
「——カミヤ!」
叫びが、喉からこぼれた。
彼が、一瞬だけこちらを見た。
琥珀色の目が、私を射抜く。
その目の奥に、一瞬だけ、いつもの彼がいた。
「行け!」
低い声が、橋全体を震わせる。
「ナギ! お前は——」
銃声が、彼の声をかき消した。
弾丸が頬をかすめたのか、銀色の粒子が一瞬だけ舞う。
「お前は、光の下で生きろ!」
さっき、神社の前で彼が言った「神様なんていない」という言葉が、ふっと頭をよぎる。
でも今、この橋の上で。
いちばん「神様」に見えるのは——。
「……やだよ」
思わず、呟いていた。
「一人で、光の下なんて、生きたくない」
でも、足は、止まらなかった。
それが、悔しかった。




