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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第1章:16歳、夏。人狼(カミサマ)と逃避行。

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第11話:満月の予感、夏の終わりの長い橋

 夏の午後の山道って、こんなに蒸し暑いものだっけ。


 原付のエンジンがだんだん苦しそうな音を立て始めたころ、私は背中の汗が制服に張り付く感覚に、半分うんざりしながら空を見上げていた。


 さっきまで青かった空は、いつの間にか薄く霞んでいて、雲の切れ間から白い月がのぞいている。


「ねえ、カミヤ」


「なんだ」


「今日って……」


 言いかけたところで、彼が先に言った。


「……満月だ」


 低い声。


 原付のハンドルを握る手に、いつもより少し力がこもっているのがわかった。


「やっぱり」


 夜のニュースが流れたあの日から、もう何日も経っていた。


 海辺の町を出て、スーパーの裏でバイトしていたカミヤの知り合いに会ったり、山奥の廃工場で一晩過ごしたり、誰もいない公園でカップラーメンを分け合ったり。


 その全部が、楽しかった。


 怖さと楽しさが紙一重で隣り合っていて、「修学旅行の夜」がずっと続いているみたいだった。


 でも今、胸の奥で小さな警報が鳴っている。


 満月。


「ねえ、平気?」


 背中ごしに、そっと問いかける。


「なにが」


「満月」


「平気じゃねえよ」


 あっさり返されて、思わず苦笑する。


「そのわりに、いつも通りに見えるけど」


「まだ昼だからな」


「夜になったら?」


 少しだけ、間が空いた。


「……あんまり見られたくねえ」


 ぽつり、と落とされた言葉。


「変身、見られたくないの?」


「そういう、単純な話じゃねえ」


 ハンドルを切る音。


 山道が終わって、少し開けた場所に出る。そこには、川にかかった大きな橋があった。


 古いコンクリートの橋。下を流れる川は思ったより深そうで、水面が太陽の光をぎらぎらと反射している。


「ここ、なに?」


「山の向こうの市街地に抜ける幹線道路。ここの橋、構造が古いわりに、やたら長い」


「へえ……」


 私は、ただの景色としてそれを眺める。


 カミヤの表情は、さっきからずっと硬かった。


「……どうしたの」


「いや」


 彼は原付を橋の手前で止めた。エンジンを切ると、蝉の声と川の音が一気に耳に押し寄せてくる。


「ナギ」


「なに」


「ちょっと、歩くぞ」


「え、なんで」


「原付はここに隠しとく」


 橋のたもとにある草むらに、原付を押し入れる。


 なんとなく、胸がざわついた。


「ねえ、カミヤ」


「ん」


「もしかしてさ……」


 喉が、ひゅっと細くなる。


「終わり、って、感じてる?」


 自分で言いながら、全身に鳥肌が立つ。


 さっきまで、続いていくと思っていた「逃避行の夏」が、急に、ここで途切れてしまうんじゃないかって。


 彼は、少しだけ目を細めて、私を見た。


「勘のいいガキは、嫌いだ」


「……ほんとに?」


「ほんとだ」


「じゃあ、黙ってるから、教えて」


「なにを」


「この先に、なにがあるのか」


 橋の上には、まだ何も見えない。


 ただ、道路標識と、ガードレールと、たまに通り過ぎるトラック。


 でも、空気が違った。


 夏の午後なのに、風がどこかひんやりしている。蝉の声の向こうに、金属が擦れるような、イヤな音が混じっている。


 カミヤは、ポケットに手を突っ込んで、ひとつ深く息を吸った。


「……敵が、揃う」


「敵」


「警察と、あの組織と、その手先の連中と」


「なんで、ここに?」


「ここが、一番やりやすいからだろ」


 彼は、橋をじっと見つめた。


「両端を塞げば、逃げ場がねえ。山の中だ、人もいねえ。ヘリも飛ばしやすい。銃も撃ちやすい」


 その言葉のひとつひとつが、じわじわと現実味を帯びて胸に沈んでいく。


「……そんなの、卑怯だ」


「卑怯じゃねえよ。賢いだけだ」


「でも——」


「ナギ」



 名前を呼ばれて、口を閉じる。



「お前を、『表の世界』に送り返すには、ここが一番都合がいい」



「表の世界……?」



「この橋の向こうには、県警の包囲網が敷かれてるはずだ。パトカーと、マスコミと、野次馬と……いわゆる『正義の味方』が待ってる場所だ」



 カミヤは、橋の向こう岸を顎でしゃくった。



「あいつらの懐に入っちまえば、こっちまで追ってきている『組織』の連中も、もう手出しはできねえ。警察ってのは、一度保護した『可哀想な被害者』だけは、メンツにかけても守るからな」



「『被害者』って……」



 嫌な予感が、背骨を這い上がる。



「カミヤは?」


「俺は、ここ」


 橋のこちら側を、ぽん、と足先で蹴る。


「行かないの?」


「行けねえ」


 当たり前みたいに言う。


「俺は、顔も割れてるし、ニュースでも流れた。お前と一緒にいる限り、お前はどこまで行っても『誘拐された被害者』だ」


「でも、私が『違う』って——」


「言ったところで、信じねえ。さっきも言ったろ」


 冷静な声。


「だから、お前は『助かった被害者』として世間に戻れ」


「戻りたくない」


「戻れ」


 有無を言わせない口調。


「お前が戻らなかったら、世間は『凶悪な犯人に洗脳された少女』ってラベルを貼る。そのほうが、お前にとっても、俺にとっても、面倒くさい」


「面倒くさいとか、そういう問題じゃなくて!」


 声が、裏返る。


「私、戻りたくないよ。あの家にも、あの街にも。ニュースで『かわいそうな被害者』みたいに扱われて、裏では『あの子もやっぱりちょっと変だったよね』とか言われるの、目に見えてるし」


 中学のとき、同じクラスの子が不登校になったときのことを、思い出す。


 先生たちは「心のケア」だとか「家庭環境」だとか、それっぽい言葉を使っていたけれど、教室の隅では、「あの子、もともと暗かったしね」とか「ちょっと浮いてたよね」とか、そんなひそひそ話が飛び交っていた。


 あれが、今度は私になる。


 想像しただけで、吐きそうだった。


「……嫌だ」


 小さな声だった。


 橋の上を渡っていく風に、すぐかき消されてしまいそうな。


「カミヤと、行きたい。どこまでも」


「どこまでだよ」


「わかんない。でも、少なくとも、ここじゃないどこか」


 胸の奥が、じりじりと焼ける。


 こんなに「一緒にいたい」って思ったの、人生で初めてだった。


「バカ言え」


 彼は、短く吐き捨てる。


「俺と一緒にいたら、お前、どこまで行っても『犯罪者の女』だぞ。学校にも戻れねえ、働くのも難しい、まともな生活なんざ送れねえ」


「でも、生きてる」


「生きるだけなら、俺がいなくてもできる」


「できなかったよ!」


 言葉が、勝手にあふれた。


「家にいたとき、何回も思ったもん。『このまま死ねたら楽だな』って。学校行くのも、帰るのも、全部、地獄みたいで。息してるだけで、胸が痛くて」


 夏の空が、滲んで見える。


「でも、カミヤと一緒に逃げてから、一回も、『死にたい』って思わなかった」


 海辺の町。神社の階段。防風林。コンビニ弁当。焼き鳥。影の狼たち。


 それら全部が、私の中で、眩しく光っている。


「だから、今さら、『じゃあここで別れましょう』とか、無理」


「お前は——」


 カミヤが、何かを言いかけて、唇を噛んだ。


 琥珀色の瞳が、橋の向こうを一瞬だけ見つめる。


「……悪い」


 小さく、でもはっきりとした声。


「なにが」


「最初に、関わったこと」


 静かな告白みたいに聞こえた。


「お前を助けなきゃよかった、って意味じゃねえ」


「うん」


「ただ、あの夜、駐車場に落ちてきたのが俺じゃなきゃ、お前は今、こんな目にあってねえ」


「でも、あのままだったら——」


「わかってる」


 彼は、視線を落とした。


「人間のくせに、変に諦め悪いガキ、拾っちまったなって話だ」


「ひどくない?」


「褒めてんだよ」


「褒め方おかしい」


 ほんの少しだけ、空気がやわらぐ。


 でも、その中に、どうしようもない終わりの気配が、じっとりと沈んでいた。


「ナギ」


「なに」


「満月の夜は、俺の力が一番強い」


「うん」


「再生も、怪力も、影も。全部、フルで使える」


「うん」


「だから、ここは——」


 彼は、橋の向こうを睨むように見つめた。


「俺が、暴れる番だ」


 その言い方が、妙に静かで、怖かった。



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