第11話:満月の予感、夏の終わりの長い橋
夏の午後の山道って、こんなに蒸し暑いものだっけ。
原付のエンジンがだんだん苦しそうな音を立て始めたころ、私は背中の汗が制服に張り付く感覚に、半分うんざりしながら空を見上げていた。
さっきまで青かった空は、いつの間にか薄く霞んでいて、雲の切れ間から白い月がのぞいている。
「ねえ、カミヤ」
「なんだ」
「今日って……」
言いかけたところで、彼が先に言った。
「……満月だ」
低い声。
原付のハンドルを握る手に、いつもより少し力がこもっているのがわかった。
「やっぱり」
夜のニュースが流れたあの日から、もう何日も経っていた。
海辺の町を出て、スーパーの裏でバイトしていたカミヤの知り合いに会ったり、山奥の廃工場で一晩過ごしたり、誰もいない公園でカップラーメンを分け合ったり。
その全部が、楽しかった。
怖さと楽しさが紙一重で隣り合っていて、「修学旅行の夜」がずっと続いているみたいだった。
でも今、胸の奥で小さな警報が鳴っている。
満月。
「ねえ、平気?」
背中ごしに、そっと問いかける。
「なにが」
「満月」
「平気じゃねえよ」
あっさり返されて、思わず苦笑する。
「そのわりに、いつも通りに見えるけど」
「まだ昼だからな」
「夜になったら?」
少しだけ、間が空いた。
「……あんまり見られたくねえ」
ぽつり、と落とされた言葉。
「変身、見られたくないの?」
「そういう、単純な話じゃねえ」
ハンドルを切る音。
山道が終わって、少し開けた場所に出る。そこには、川にかかった大きな橋があった。
古いコンクリートの橋。下を流れる川は思ったより深そうで、水面が太陽の光をぎらぎらと反射している。
「ここ、なに?」
「山の向こうの市街地に抜ける幹線道路。ここの橋、構造が古いわりに、やたら長い」
「へえ……」
私は、ただの景色としてそれを眺める。
カミヤの表情は、さっきからずっと硬かった。
「……どうしたの」
「いや」
彼は原付を橋の手前で止めた。エンジンを切ると、蝉の声と川の音が一気に耳に押し寄せてくる。
「ナギ」
「なに」
「ちょっと、歩くぞ」
「え、なんで」
「原付はここに隠しとく」
橋のたもとにある草むらに、原付を押し入れる。
なんとなく、胸がざわついた。
「ねえ、カミヤ」
「ん」
「もしかしてさ……」
喉が、ひゅっと細くなる。
「終わり、って、感じてる?」
自分で言いながら、全身に鳥肌が立つ。
さっきまで、続いていくと思っていた「逃避行の夏」が、急に、ここで途切れてしまうんじゃないかって。
彼は、少しだけ目を細めて、私を見た。
「勘のいいガキは、嫌いだ」
「……ほんとに?」
「ほんとだ」
「じゃあ、黙ってるから、教えて」
「なにを」
「この先に、なにがあるのか」
橋の上には、まだ何も見えない。
ただ、道路標識と、ガードレールと、たまに通り過ぎるトラック。
でも、空気が違った。
夏の午後なのに、風がどこかひんやりしている。蝉の声の向こうに、金属が擦れるような、イヤな音が混じっている。
カミヤは、ポケットに手を突っ込んで、ひとつ深く息を吸った。
「……敵が、揃う」
「敵」
「警察と、あの組織と、その手先の連中と」
「なんで、ここに?」
「ここが、一番やりやすいからだろ」
彼は、橋をじっと見つめた。
「両端を塞げば、逃げ場がねえ。山の中だ、人もいねえ。ヘリも飛ばしやすい。銃も撃ちやすい」
その言葉のひとつひとつが、じわじわと現実味を帯びて胸に沈んでいく。
「……そんなの、卑怯だ」
「卑怯じゃねえよ。賢いだけだ」
「でも——」
「ナギ」
名前を呼ばれて、口を閉じる。
「お前を、『表の世界』に送り返すには、ここが一番都合がいい」
「表の世界……?」
「この橋の向こうには、県警の包囲網が敷かれてるはずだ。パトカーと、マスコミと、野次馬と……いわゆる『正義の味方』が待ってる場所だ」
カミヤは、橋の向こう岸を顎でしゃくった。
「あいつらの懐に入っちまえば、こっちまで追ってきている『組織』の連中も、もう手出しはできねえ。警察ってのは、一度保護した『可哀想な被害者』だけは、メンツにかけても守るからな」
「『被害者』って……」
嫌な予感が、背骨を這い上がる。
「カミヤは?」
「俺は、ここ」
橋のこちら側を、ぽん、と足先で蹴る。
「行かないの?」
「行けねえ」
当たり前みたいに言う。
「俺は、顔も割れてるし、ニュースでも流れた。お前と一緒にいる限り、お前はどこまで行っても『誘拐された被害者』だ」
「でも、私が『違う』って——」
「言ったところで、信じねえ。さっきも言ったろ」
冷静な声。
「だから、お前は『助かった被害者』として世間に戻れ」
「戻りたくない」
「戻れ」
有無を言わせない口調。
「お前が戻らなかったら、世間は『凶悪な犯人に洗脳された少女』ってラベルを貼る。そのほうが、お前にとっても、俺にとっても、面倒くさい」
「面倒くさいとか、そういう問題じゃなくて!」
声が、裏返る。
「私、戻りたくないよ。あの家にも、あの街にも。ニュースで『かわいそうな被害者』みたいに扱われて、裏では『あの子もやっぱりちょっと変だったよね』とか言われるの、目に見えてるし」
中学のとき、同じクラスの子が不登校になったときのことを、思い出す。
先生たちは「心のケア」だとか「家庭環境」だとか、それっぽい言葉を使っていたけれど、教室の隅では、「あの子、もともと暗かったしね」とか「ちょっと浮いてたよね」とか、そんなひそひそ話が飛び交っていた。
あれが、今度は私になる。
想像しただけで、吐きそうだった。
「……嫌だ」
小さな声だった。
橋の上を渡っていく風に、すぐかき消されてしまいそうな。
「カミヤと、行きたい。どこまでも」
「どこまでだよ」
「わかんない。でも、少なくとも、ここじゃないどこか」
胸の奥が、じりじりと焼ける。
こんなに「一緒にいたい」って思ったの、人生で初めてだった。
「バカ言え」
彼は、短く吐き捨てる。
「俺と一緒にいたら、お前、どこまで行っても『犯罪者の女』だぞ。学校にも戻れねえ、働くのも難しい、まともな生活なんざ送れねえ」
「でも、生きてる」
「生きるだけなら、俺がいなくてもできる」
「できなかったよ!」
言葉が、勝手にあふれた。
「家にいたとき、何回も思ったもん。『このまま死ねたら楽だな』って。学校行くのも、帰るのも、全部、地獄みたいで。息してるだけで、胸が痛くて」
夏の空が、滲んで見える。
「でも、カミヤと一緒に逃げてから、一回も、『死にたい』って思わなかった」
海辺の町。神社の階段。防風林。コンビニ弁当。焼き鳥。影の狼たち。
それら全部が、私の中で、眩しく光っている。
「だから、今さら、『じゃあここで別れましょう』とか、無理」
「お前は——」
カミヤが、何かを言いかけて、唇を噛んだ。
琥珀色の瞳が、橋の向こうを一瞬だけ見つめる。
「……悪い」
小さく、でもはっきりとした声。
「なにが」
「最初に、関わったこと」
静かな告白みたいに聞こえた。
「お前を助けなきゃよかった、って意味じゃねえ」
「うん」
「ただ、あの夜、駐車場に落ちてきたのが俺じゃなきゃ、お前は今、こんな目にあってねえ」
「でも、あのままだったら——」
「わかってる」
彼は、視線を落とした。
「人間のくせに、変に諦め悪いガキ、拾っちまったなって話だ」
「ひどくない?」
「褒めてんだよ」
「褒め方おかしい」
ほんの少しだけ、空気がやわらぐ。
でも、その中に、どうしようもない終わりの気配が、じっとりと沈んでいた。
「ナギ」
「なに」
「満月の夜は、俺の力が一番強い」
「うん」
「再生も、怪力も、影も。全部、フルで使える」
「うん」
「だから、ここは——」
彼は、橋の向こうを睨むように見つめた。
「俺が、暴れる番だ」
その言い方が、妙に静かで、怖かった。




