第10話:たとえ世界が、きみを容疑者と呼んでも
外の空気は、さっきまでと同じはずなのに、まるで別物に感じられた。
さっきまで、ただの「海辺の町」だったこの場所が、急に「敵地」に変わる。
「全国ニュースになったか」
防波堤に向かう途中、カミヤがぽつりと言った。
「もう、逃げるだけじゃ、済まねえな」
「どういうこと……」
「親が、警察に届け出て、マスコミに泣きついた。ああやって『善良な被害者』を演じられたら、世間は簡単に味方する」
「でも、真実は違う……」
「真実なんざ、だれも興味ねえよ」
乾いた声。
「必要なのは、『わかりやすい悪者』だ。誘拐犯、人身売買組織、暴力。そういうラベルだ」
「じゃあ、カミヤは——」
「わかりやすい悪者役だな」
肩をすくめてみせる。
「お前を助けたって事実は、俺とお前しか知らねえ。世間から見りゃ、『未成年の女を連れ回してる怪しい男』でしかねえしな」
「そんなの、ひどすぎる」
「世の中、大体そんなもんだ」
彼は、防波堤の上に音もなくひょいっと飛び乗った。
助走もなく、体が浮いた気配すらない。
気づいたときには、もう上にいる。
私も真似しようとして足をかけた瞬間、
バランスを崩して、思わず彼の手を掴んだ。
「おっと」
「……ありがと」
「ぼんやりしてるからだ」
「だって……」
「わかってる」
短いやりとり。
でも、その「わかってる」の一言で、少しだけ呼吸が楽になった。
防波堤の上から見る海は、さっきよりもずっと眩しくて、どこまでも続いているように見える。
でも、その広さが、今は少しだけ怖かった。
「カミヤは、どうするつもり……?」
「どう、って?」
「だって、このままだと……」
言葉を飲み込む。
このままだと、「犯人」として捕まる。ニュースで「身柄確保」とか、「逮捕」とかいうテロップが流れる。
そのとき、私の名前がどう扱われるかなんて、想像したくもない。
「行くところ、増えたな」
「行くところ?」
「海沿いの神社と、山の奥と、人気のねえ橋と」
「なんで橋?」
「橋は、切れる」
短く答えてから、彼はポケットから缶コーヒーを取り出した。
さっきのとは違うやつ。微糖と書いてある。
プルタブを開けて、一口飲む。
「……」
「どう?」
「甘い」
「さっきよりは、マシじゃない?」
「かもしれねえ」
そんな他愛のない会話をしながらも、私の頭の中は、さっきのニュースのことでいっぱいだった。
「ねえ、カミヤ」
「なんだ」
「もしさ。今からでも、私が一人で警察に行ったら」
「ダメだ」
即答だった。
「なんで」
「お前の話なんて、誰も信じねえよ」
「でも、私が誘拐されてないって言えば——」
「『犯人に洗脳されている』って言われて終わりだ」
「……そんな」
「世の中、『弱い立場の人間』の証言を、必ずしも信じちゃくれねえ」
彼は、海を睨むように見つめた。
「しかも、お前の家庭環境は、外から見りゃ『普通』だ。親が泣きながら『娘を誘拐された』って言ってるのに、『あの家は虐待してました』なんて言っても、ただの言い訳にしか聞こえねえ」
「じゃあ、どうしたらいいの……」
「生き延びる」
短い答え。
「今は、それだけ考えろ。世間とか正義感とか、そういうのはあとだ」
「あとなんて、あるのかな……」
ポツリとこぼした声が、波の音にかき消される。
「ある」
カミヤは、はっきりと言った。
「俺が、作る」
心臓が、跳ねた。
「だから——」
彼は、ゆっくりと、私のほうを見る。
琥珀色の瞳が、射抜くように私を見つめる。
「……俺のこと、『誘拐犯』に見えるか?」
ニュースが繰り返す言葉を、彼はわざと自分に突きつけるように呟いた。
「見えない。……絶対に」
考えるより先に、言葉が溢れていた。
「さっきのニュースを見たあとでもか?」
「関係ない。……関係ないよ」
「——世間から見れば、俺は未成年を連れ去った犯罪者なんだぞ」
「それでも!」
自分でも驚くほど強い声が出た。震える拳を握りしめ、私は彼を真っ直ぐに見返す。
「だって、私は分かってる。あのままだったら、私はどうなっていたか。あの暗い路地裏で、誰に捕まって、どこへ売り飛ばされていたか……!」
私の叫びに、カミヤの瞳がわずかに揺れた。
呼吸が、少し荒くなる。
一瞬、喉が詰まった。
「カミヤがいなかったら、私、もうあそこで——」
言いかけて、口を閉じる。
「カミヤは……
私を売られる側から、引きずり戻した人」
彼は、一瞬だけ目を伏せた。
まつ毛に落ちた影が、夏の光の中で、かすかに揺れる。
「……」
なにか、飲み込むような仕草。
それから、わずかに肩の力を抜いて、ぽつりと言った。
「なら、いい」
「うん」
「その認識でいろ」
「うん」
「世間がどう言おうが、お前だけは、そう言ってろ」
「……うん」
うなずいた瞬間、胸の中の何かが、かちりとハマる音がした気がした。
世界中が、「カミヤは犯人だ」と言っても。
ニュースのテロップが、「容疑者」と彼を呼んでも。
私だけは、違う名前で呼ぶ。
「ねえ、カミヤ」
「なんだ」
「カミサマ、って呼んでいい?」
「やめろ」
「なんで」
「くすぐったい」
「神様っぽいのに」
「二度と言うな」
「じゃあ、心の中でだけ、呼ぶ」
「勝手にしろ」
防波堤の上で、二人分の影が伸びる。
私の影と、その隣の、少し背の高い影。
その足元には、誰にも見えない、小さな狼の影が、そっと寄り添っていた。
——それに気づくのは、もう少し先の話だ。
今はまだ、海風が髪を揺らし、ニュース番組のキャスターが「少女の安否が心配されています」と他人事みたいに言っているだけの、夏の一日。
でも、この日から、私たちの逃避行は、「家出」とか「旅ごっこ」なんて言葉でごまかせないものになった。
世間全部を敵に回してでも、守りたいものができたから。
私は、その「敵だらけの世界」の真ん中で、彼の背中にしがみつきながら、生き延びる未来を、必死で探そうとしていた。




