川が飲み込む男
朝の光が差し込んでいた。
森の空気は冷たく、火の残り香がわずかに鼻をくすぐる。
いつの間にか、ここでの生活にも慣れていた。
火を起こし、水を確保し、肉を焼く。
探索の時に見つけた小さな穴蔵。
今はそこを拠点にしている。
この世界に来た――いや、“目覚めた”時から、もう何日が経ったのか。
自然と動く手を止め、ふと考える。
「……俺、なんでこんなに落ち着いてんだ?」
見知らぬ森、見たこともない化け物。
それに――言葉で現実をねじ曲げる力。
普通なら、恐怖で取り乱してもおかしくないはずだ。
だが、自分は不思議なほど冷静だった。
この状況に、素直に順応している自分に、不信感を覚える。
まるで、前にもこんなことがあったかのような……。
(いや、あり得ねぇだろ)
そう思った瞬間、頭の奥でズキリと痛みが走った。
「……っ、またか……」
こめかみを押さえる。
痛みは脈打つように続き、思考が霞む。
何かを思い出そうとすればするほど、痛みが強くなる。
――暗い部屋。
青い光。
何かを話している自分の声。
そこまで思い浮かべたところで、痛みが限界に達した。
「……クソ、何なんだよ……」
呼吸を整え、火の残りを棒でつつく。
「考えるほど痛ぇって、俺の頭どうなってんだ」
皮肉っぽく笑い、肩をすくめる。
「……まぁ、いい。どっちにしろ、生きてりゃ答えはそのうち出るだろ」
そう呟いて、焚き火に枝をくべた。
火花が小さく弾け、穴蔵の天井を淡く照らす。
この拠点にも、すっかり馴染んできた。
外では、雨音が遠くで響く。
土砂降りだった。
「……明日は川が荒れるな」
小さく呟いて、ゆういちは横になった。
***
朝の空気は湿って重かった。
昨夜の雨は尋常じゃない量だったらしい。
森のあちこちに小さな水たまりができ、
水を汲みに川へ向かったが――流れは濁流と化していた。
「……汲むのは無理かもなぁ」
水位はいつもの一メートルから、すでに胸の高さほど。
濁った水が荒々しく渦を巻き、泡を立てて流れていく。
少しでも足を滑らせれば、もう戻ってこられそうにない。
そんな中、森の奥で――木々が揺れた。
重い足音。
湿った空気が震え、地面がかすかに鳴る。
そして、現れた。
黒と茶の混じった毛並みが、濡れたように光る。
身の丈は五メートルを優に超え、
腕ほどの太さの爪が血のように赤く輝いていた。
「……おいおい、なんだそのサイズ」
低く呟く声が、少しだけ笑っていた。
だが、心臓の鼓動ははっきり速くなっている。
風が逆。匂いが伝わる。
化け物の鼻がわずかに動いた。
そして咆哮。
大地が鳴り、鳥たちが一斉に飛び立つ。
「止まれッ!」
声を放つ。
一瞬、巨体が止まる。
だが、それはほんの数秒。
次の瞬間には、再び突進してきた。
「死ねッ!」
「死ねッ、死ねよッ、死ねぇぇッ!」
だが、何も起きない。
獣の瞳は冷たく、狂気じみた光を放っている。
「……嘘だろ……!?」
太い腕が横薙ぎに振り抜かれた。
避けきれず、腹を裂かれる。
「っぐあッ……!」
熱い。
焼けるような痛みが腹を貫き、息が詰まる。
血が溢れ、足元を濡らした。
「止まれッ……!」
「……止血、しろッ!」
震える手で傷を押さえながら、かすれた声で言霊を吐く。
淡い光が走り、血が止まった。
しかし、痛みは消えない。
「……っはぁ……すぐには治んねぇか……」
息を荒げながら後退する。
巨体がゆっくりと近づいてくる。
――視界の端に、ポケットが光った。
(そういえば……)
探索の時に拾った、小さな光る石。
夜でもぼんやり光っていたから、なにかに使えると思って持ってきていたのだ。
「助かったな、俺」
石を掴み、歯を食いしばる。
「――輝けッ!!」
目の前が真っ白に弾けた。
化け物の咆哮が響く。
視界を奪われ、のたうち回る音。
「よし……!」
その隙に身を翻し、森の奥へと走る。
木の陰に飛び込み、泥を掴む。
腹と腕に塗りつけ、匂いを抑え込む。
呼吸を殺し、じっと息を潜める。
鼓動だけがうるさい。
少しでも音を立てれば――。
「……あー、やべ」
腹が疼いた。
傷口が少し開き、血が滲み出す。
鉄の匂いが漂う。
次の瞬間、森が震えた。
化け物が再び咆哮を上げ、こちらを振り向く。
「やっぱバレたか……」
笑いながらも、足はすでに動いていた。
枝が頬を叩き、泥が飛び散る。
腹の痛みが一歩ごとに波のように押し寄せる。
(考えろ……使えるもんは全部使え)
前方に濁流の川。
その手前には、雨でできた大きな水たまり。
ゆういちは立ち止まり、振り返る。
化け物が一直線に迫ってきていた。
「……じゃあ、お前に泳ぎでも覚えてもらうか」
深呼吸。
声を張る。
「凍れッ!!」
水たまりが白く変わる。
化け物がそこに足を踏み込んだ瞬間――
ズルッ、と滑る音。
「落ちろッ!!!」
巨体が前のめりに倒れ、川へ。
濁流が牙を剥き、化け物を飲み込む。
赤い爪が一瞬だけ空を掻いた。
そのまま――沈んだ。
静寂。
ただ、水の音だけが耳に残る。
「……ったく。あぶねぇとこだった」
ゆういちは腹を押さえながら、座り込んだ。
血の匂いと泥の臭いが入り混じる。
「死ねが効かねぇとか聞いてねぇぞ……」
苦笑しながら空を見上げた。
雲の切れ間から、わずかに陽が差す。
「……もう少し、強くならねぇとな」
ゆういちは息を吐き、ゆっくりと立ち上がる。
痛みに顔をしかめながら、森の奥――拠点の穴蔵へと歩き出した。




