始まり
――風の音がする。
木々がざわめき、湿った土の匂いが鼻をくすぐった。
目を開けると、そこは見渡す限りの森だった。
幹の太い木々が天を覆い、陽の光が斑に差し込んでいる。
(……森? どこだ、ここ)
地面に仰向けになっていた俺は、上体を起こした。
体は重く、頭の中が白く霞んでいる。
思い出そうとしても、何も浮かばない。
名前だけが、かろうじて口から零れた。
「……ゆういち」
それ以外の記憶は、跡形もなく消えていた。
(とりあえず落ち着け。ここは……日本のどこか、だよな?)
自分に言い聞かせながら立ち上がる。
空気は少し冷たい。鳥の声も聞こえる。
……けれど、何かがおかしい。
木の種類も、葉の形も見たことがない。
鳥の鳴き声も、どこか不協和音のように耳障りだ。
(ここ……本当に日本なのか?)
そう思った瞬間――
ガサッ、と茂みが動いた。
低い唸り声。
反射的に身を固くする。
茂みを割って現れたのは、一頭のイノシシ……のような何かだった。
だが、すぐにそれが普通の動物ではないと分かった。
体長は二メートルを超え、皮膚の下の筋肉が波打っている。
牙は赤く光り、瞳も同じく血のように赤い。
「……なんだ、あれ……」
次の瞬間、地響きがした。
化け物が突進してくる。
「うわっ――!」
避ける間もなく、腹に衝撃。
体が宙を舞い、地面を転がった。
土と枯葉が顔に張り付き、息ができない。
「……ぐ、あ……!」
腹を見ると、青黒いアザが広がっている。
痛みが骨まで響く。
(マズい……逃げないと……!)
足に力を込めて立ち上がる。
茂みを掻き分け、木々の間を駆け抜けた。
枝が頬を切り、服が裂ける。
地面はぬかるみ、足が取られる。
転びそうになりながらも、ただ走る。
「はぁっ……はぁっ……誰か……っ!」
助けを呼ぶ声は森に吸い込まれていく。
返事はない。
聞こえるのは、自分の荒い息と、後ろから迫る蹄の音だけ。
(追ってきてる……!)
後ろを振り返ると、化け物の赤い目が木々の隙間に光っていた。
それが恐ろしくて、前だけを見て走る。
泥に足を取られ、何度も転ぶ。
膝が擦りむけ、手のひらは泥まみれだ。
「くそっ……なんなんだよ、あれ!」
叫んでも誰も答えない。
ただ、イノシシの息遣いだけが近づいてくる。
ようやく森を抜けたと思ったその先――
地面が途切れていた。
崖。
風が頬を打ち、下を覗けば底の見えない谷。
背後からは、化け物の足音。
「……詰んだな」
お腹の痛みが再び蘇る。
まともに動けない。
呼吸をするたびに、痛みが波のように押し寄せる。
それでも、目の前の怪物を睨みつけた。
赤い目が、まるで俺の恐怖を楽しむように光っている。
「来るなぁぁぁ!!」
叫んだ瞬間、空気が震えた。
風が止み、葉が静止する。
化け物の足音が――消えた。
「……え?」
恐る恐る目を開ける。
イノシシは、崖の手前で止まっていた。
まるで時間が凍りついたかのように、ピクリとも動かない。
「……なんで……止まった?」
自分の声が、やけに大きく響いた。
心臓の鼓動だけが聞こえる。
「……はぁ……なんなんだよ……」
腹の痛みを押さえながら、俺は呆然と立ち尽くした。
その赤い目は、まだ俺を睨んでいる。
「……クソ……死ねよ」
吐き捨てるように呟いた瞬間――
空気が弾けた。
音もなく、イノシシの巨体が崩れ落ちる。
その赤い目が、静かに光を失っていった。
風の音だけが、森に戻ってきた。




