第五章、爵位式で復讐を。
アンジェリカがブリオット家で、お料理大作戦を成功させていた頃――。
とある屋敷の一室では、不穏な空気が流れていた。
「素材も悪いし、センスもないし、こんなもの着れないわ、新しいのを持ってきて」
椅子に座ったミレイユが、手にしていたドレスを無造作に放る。
そんなことを繰り返しているので、彼女の周りには様々なドレスが散乱していた。
「ですが、ミレイユ様……これ以上ドレスや宝飾品は増やすなと、旦那様から言われておりまして……」
「なぁに、メイドの分際で私に口答えする気?」
ミレイユの前に立った若いメイドは、青い顔で俯き黙り込んだ。
アンジェリカがブリオット家に行った数日後、ミレイユはこのアズール男爵家に迎えられた。
一番低い爵位である男爵家は、当然ミレイユの実家である伯爵家の屋敷より狭い。
借金があるので仕方なく結婚の話を受けたが、予想以上の待遇の悪さに、ミレイユの不満は積もるばかりだ。
険悪なムードが漂う部屋に、コツコツと足音が近づいてくる。
やがてドアを開いたのは、ヨシュア・スコット・アズール……ミレイユの婚約者だった。
「ミレイユ、無駄遣いはやめてくれと、前にも言ったはずだが」
ミレイユより一回り年上の彼は、鼻の下に髭を蓄えた、黒髪で小太りの男だ。お世辞にもカッコイイとは言えない。
しかしミレイユは、彼が入ってくるなり、天使の顔つきで駆け寄った。
そして大きな瞳を潤ませて、彼を見上げた。
「嫌ですわ、無駄遣いだなんて……私はヨシュア様のために、美しくあるよう努力をしているだけですのに」
ミレイユが訴えると、ヨシュアはだらしない顔をした。
――鼻の下伸ばしちゃって……ああ、気持ちが悪い。
愛らしく微笑みながら、腹の中で毒づくミレイユ。
当然、ヨシュアに対して愛など微塵もない。
「しかし、これ以上は本当に困る、早くフランチェスカ家の財産を売り払ってくれないと、アズール家まで共倒れしてしまうよ」
「わかっていますわ、財産の整理は今進行中ですので、もう少しお待ちを……それよりもヨシュア様、パーティーはございませんの? 私、ヨシュア様といろんな場所に行って、いろんな方にあなたの自慢をしたいんですの」
ミレイユがヨシュアのところに来たのは、これが狙いだ。
フランチェスカ家は破綻しているため、もうパーティーを開いたり、ドレスを新調することができない。
だからヨシュアを好きなふりをして、ドレスを用意してもらい、パーティーに連れていってもらう。
そこで身分の高い男性に気に入られ、結婚しようという算段だ。
ミレイユは婚約中だが、まだ正式に発表はしていないし、結婚前ならやり直しがきく。
ヨシュアを利用するだけして、不要になれば婚約破棄して捨てればいいと、ミレイユは考えていた。
「ああ……そうだ、言おうと思っていたのだが、先日ブリオット公爵から手紙が届いてね」
「ブリオット――?」
聞き覚えのある名に、ミレイはピクリと反応を示す。
ブリオットがアンジェリカを結婚相手に迎えたことを、ミレイユは誰にも言っていない。
自分より身分の高い家に姉がもらわれたなど、プライドの高いミレイユはまだ認めていなかった。
「ご子息が正式に公爵位を継承される、爵位式が行われるそうだ、君やご両親も一緒に参加するかい?」
これはいい、とミレイユは思った。
それだけ盛大なパーティーなら、多くの貴族紳士が参加するだろう。
「ええ……もちろん、喜んで参加いたしますわ」
輝かしい未来を夢見ながら、ミレイユは妖艶に微笑んだ。
それから二週間後の夕刻、ミレイユはアズール家から馬車に乗って出かけた。
移動中にだんだんと日が傾き、爵位式の会場に着く頃には、静かな夜が訪れていた。
馬車を降りたヨシュアは、ミレイユを連れて会場に入ると、受付に招待状を提示して中に入る。
その後ミレイユは、隙を見てヨシュアの元を離れた。
婚活が最大の目的なので、ヨシュアがそばにいると邪魔だからだ。
千人ほど集客可能のパーティー会場だ、広く、人も多いため、一度はぐれたらすぐには見つけられない。
そんな中、ミレイユは辺りを見回し、両親を見つけた。
会場の窓際、ポツンと立った二人に急いで近づく。
「ミレイユ、どうだ、アズール家での暮らしは」
ネイビーを基調にした衣装を纏ったユリウスが、愛娘に気づき口を開いた。
「ひどいものよ、使用人のレベルも低いし、自由にドレスも選べない、なによりあんな不男が夫だなんて耐えられないわ」
両親の前で立ち止まったミレイユが、苦々しい顔つきで答える。
彼女は瞳と似た色合いの、淡いグリーンのドレスを纏っていた。
「まあ、それはかわいそうにね、ミレイユ……だけど、今日ここで素敵な紳士を見つければいいわ、天使のように愛らしいミレイユなら必ずよい出会いがあるはず」
宥めるように言ったのは、金色のドレスを纏ったアマンダ。
三人とも、家が破綻しているにも関わらず、相変わらず豪華な衣装を身につけていた。
「当然、そのつもりよ、アズール男爵はたまたま、タイミングよく求婚されたから、とりあえず受けただけだもの」
ヨシュアがミレイユに結婚を持ちかけたのは、ちょうどフランチェスカ家が破綻したところだった。
だからあまりにもタイミングがよく、断ることができなかったのだ。
そう、それはまるで、示し合わせたかのように――。
「お父様とお母様のためにも、条件がよい殿方を探さなくては」
「なんと親孝行な娘よ、うちはすぐに子供ができたが、どちらも女だった……できればうちの借金を肩代わりして、養子に入ってくれる男がいいのだが」
「金さえ払ってくれれば、孫に家を継がせるのもありではなくて、ミレイユが嫁ぎ先でたくさん男児を産めば問題ないはずよ」
家が破綻していることも忘れ、保証のない夢物語に花を咲かす一同。
そもそもそれほど魅力的な女性なら、とっくに見そめられているだろうに。
ミレイユが社交界デビューしたのは十六歳で、現在十八歳。
この二年間、パーティー三昧で、出会いは山ほどあった。しかし、結果は言うまでもない。
「嫌だわ、二人とも気が早くてよ……だけど、そうね、私と結婚するなら、それくらい尽くしてくれなきゃ満足できないわ」
クスッと笑うミレイユに、賛同の笑みを浮かべる両親。
そんな彼らの周りには、丸いテーブルが等間隔に並んでいる。
その上にはご馳走が並んでおり、立食パーティーのような感じになっている。
めかし込んだ貴族たちは、親しい者同士で会話を楽しみ、場内は賑やかな雰囲気に包まれている。
爵位式というのは『私が継承しました、これからもよろしくお願いします』と、他の貴族に後継者の顔を知ってもらうための場だ。
なのでそんなに堅苦しいものではなく、少しかしこまった夜会のような場だ。
しかし、これほどの会場を貸し切り、人数分のご馳走を用意できるのは、富と権力の証明にもなる。
やがて、室内の賑やかな雰囲気に変化が起きる。
会場の一番前に、誰かがやって来たことに気づいたからだ。
貴族たちは会話をやめ、前方に現れた人物に注目する。
高い天井の下、大きく立派な壁画の前に、立ち止まったのは一人の紳士だった。
左右長さが違う黒いマントを纏い、白銀色の衣装に身を包んだ彼は、堂々とした立ち姿で前を見た。
「紳士淑女の皆様、本日はお忙しい中、お集まりいただきありがとうございます。ブリオットの公爵位を継承いたします……クラウス・シモンズ・ブリオットでございます」
輝く銀髪に、アクアマリンの瞳、抜けるような肌をした彼は、貴族たちに向けて、明確に宣言した。
まるで絵本の世界から出てきたような、目を疑うほどの美形。
その容姿に、場内の貴婦人たちは皆釘付けになった。
そしてそれは、ミレイユも例外ではない。
少し離れた場所からでも、十分にクラウスの魅力は伝わった。
――なんて素敵な方なの……!!
ミレイユは胸の前で両手の指を組み、あまりの秀麗さにうっとりした。
中央に立つクラウスの横には、父のサウロスがついている。
彼は裾の長いグレーの上着に、白いベストとパンツ姿だった。その左胸には、ブリオットの家紋である、ライオンの刻印が入った勲章がついている。
父の隣で、クラウスは話を続けた。
「すでにご存知の方も多いと思いますが、僕は父、サウロスが貴族以外の女性との間に作った子供です。しかし、僕はそれを恥じるつもりはありません。母を愛していたからです。しかし、卑しい血が流れているのも事実です。だから僕は、僕のやり方で、これからも皆様に認めていただけるよう、精進していくしかありません。まだ僕は若く、あまりにも未熟です。教養溢れる成熟した皆様に、ご教授いただくことも山ほどあるでしょう。こんな僕ですが、どうか今後とも、よろしくお願いいたします」
そこまで話すと、クラウスは貴族たちに向けて、深々とお辞儀をした。
すると一拍置いて、どこからか、パチパチと手を叩く音がする。
もう一人、また一人と同調する者が増え、やがて場内は温かな拍手で包まれた。
やけに和やかなムードに納得できないユリウスは、怪訝な顔つきで辺りを見回した。
「なんだ、あの男……妾の子供の分際で、なぜこんなに受け入れられている……!?」
不満を漏らすユリウスに、たまたまそばに立っていた男性が顔を向けた。
「彼は世継ぎにもらわれた十歳の頃から、公爵としての教養を身につけるため、父親とともに領地の見回りをしていたのだ。それも自分のところだけではなく、他の貴族の領地にも顔を出し、その主の人となりを調べ、喜ぶ品を献上した」
ユリウスと同年代の金髪紳士は、クラウスについて知っていることを話した。
それを聞いたユリウスは、驚いて目を見開いた。
そんな話は初耳だったからだ。
それもそのはず、クラウスはユリウスには会いに行っておらず、なにも献上していないのだから。
クラウスは今まで社交界やパーティーにも参加していなかったため、フランチェスカ家と遭遇することもなかった。
クラウスが意図的に彼らとの接点を避けていた、というのもあるが。
「彼が薬を持ってきてくださったのには、本当に驚きましたわ」
話を続けたのは、金髪紳士の隣に立つ、茶髪の上品な婦人だった。
「妻が腰を悪くしていた時、彼が届けてくれた薬がよく効いたのだよ」
「ええ、おかげで今はコルセットもできるようになったわ」
夫の言葉に、婦人はにこやかに頷いた。
クラウスは単に金目のものを贈りつけるのではなく、きちんとその人物に必要なものを選んだ。
裕福でプライドの高い貴族たち、その心を掴むにはどうすればいいか、クラウス自身が考えたやり方だ。
そうして小さな努力を積み重ねたからこそ、今のクラウスがある。
「以来、私はすっかり彼のファンなのだよ」
「ふ、ファ、ン……?」
ユリウスは引き攣った口元でおうむ返しをした。
「彼は子供の頃は下町で育ったらしく、我ら貴族にとっては風変わりな言葉も知っているのだ、実に面白い男だよ」
先ほどクラウスが自己紹介で言っていないことまで知っている。
それはなにも、この夫妻が特別ではない。
クラウスはすでに、ありのままで、貴族社会に認められているのだ。
それを知ったユリウスは、自分たちだけ除け者にされたようで、頭に来た。
なぜフランチェスカ家だけが、クラウスに遠ざけられていたかも知らず。
「そ、そんな取り入るようなことを……」
「取り入るとは自分より力のある人間に、有利になるよう働きかけることだ。ブリオットより位の低い我が家はそれに当てはまらない。君はもう少し教養を身につけた方がいいな、すでに手遅れだろうが」
金髪紳士は鼻で笑うと、吐き捨てるように言った。
ユリウスはなにも言い返すことができず、目を伏せるしかない。
夫がその調子なので、アマンダも黙って下を向いている。
空気を読まず、前を見ているのはミレイユだけだ。
彼女は父が苦言を受けている間も、クラウスに夢中だった。
現公爵である父サウロスから、新たな公爵となる息子クラウスへと、勲章のブローチが受け渡される。
これが爵位継承の儀式だった。
サウロスから勲章を託されたクラウスは、改めて客人の方を向いた。
クラウスの左胸には、百獣の王であるライオンが刻まれた、ブリオットの勲章が輝いている。
これで正式に、クラウスはブリオット公爵となったのだ。
しかし、今日はこれで終わりではない。
むしろクラウスにとっては、この後がメインイベントだった。
「実は本日は、皆様にもう一つ、大事な発表があります」
爵位式としか聞いていなかった貴族たちは、みんな不思議そうに顔を見合わせた。
そんな中、クラウスは会場の外に視線を向ける。
そして扉の手前で、待機していた彼女に合図を送った。
「さあ、おいで」
クラウスは微笑み、扉に向けて左手を差し出す。
すると、呼ばれた彼女が、ゆっくりと会場に足を踏み入れた。
ざわざわと場内が色めき出す。
貴族たちの視線は、クラウスに向かって歩く一人の女性に集中した。
緩やかにカールした赤茶色の髪を揺らしながら、会場の前に現れたのは、ミレイユが見覚えある人物だった。
――へ……?
ミレイユは心の中で間抜けな声を漏らした。
クラウスの美貌に心奪われた彼女は、大事なことをすっかり忘れていたのだ。
姉が嫁いだ先が、彼の元だったことを――。
クラウスは歩み寄る彼女の手を取ると、自分の元へ引き寄せた。
そして腰に手を添え、再び前を見た。
「彼女の名は、アンジェリカ・ドーリー・フランチェスカ……僕の婚約者です」
突然の発表に、場内がわっと湧き立つ。
ユリウスとアマンダは、顰めた顔を突き合わせた。アンジェリカを選んだ物好きな妾の子供、どうせ大した力はあるまいとたかを括っていたのに。
婚約発表を目の当たりにした今、二人は圧倒的な権力の差に言葉がなかった。
アンジェリカはクラウスの隣に立ち、控えめに前を見ていた。
光沢のある純白の胸元とスカート、それを囲むようにたっぷりとあしらわれたワインレッドのフリル。
全体的に金の刺繍が施されたそれは、マリアンヌがアンジェリカのために仕立てたものだった。
「フランチェスカ家については、様々な憶測が飛び交っていることでしょう。しかし、フランチェスカ家の破綻について、彼女は一切関与しておりません。その辺りはきちんと調査しており、ブリオットに相応しい女性と判断した上での婚約ですので、どうぞ皆様、ご心配なきよう」
クラウスの言葉に、ざわざわと空気が乱れ、貴族たちがコソコソと話し出す。
「確かに、フランチェスカの姉君はお見かけしたことがないわ」
「引きこもりがちだとか、病弱だとかいろいろ噂はあるけれど……どちらにせよ、外出されないなら散財しようがないわよね」
「そうねぇ、まぁ、破綻した原因は明らかだけれど」
場内のあちこちで囁かれる言葉は、すべてユリウス、アマンダ、ミレイユに向けられていた。
三人は大勢の冷たい視線に晒され、身動きが取れなかった。
「彼女は浪費どころか、僕がドレスや装飾品を贈っても、ちっとも喜んでくれないのです。経験豊富な紳士淑女の皆様、無欲な貴婦人を振り向かせる方法をご存知でしたら、どうか僕にご指導いただけませんか」
クラウスの洒落の効いた台詞に、その場にいた貴族たちは思わず笑みを漏らした。
アンジェリカは恥ずかしそうに俯いていたが、クラウスに肩を叩かれ、顔を上げた。
「大丈夫ですよ、あなたはそのままでいいんですから」
覗き込むように顔を近づけ、導くように優しく声をかける、そんなクラウスに背中を押され、アンジェリカは勇気を出して正面を見た。
「ご紹介いただきました、アンジェリカでございます。この度、ブリオット公爵家に嫁ぐことになりました。私は……」
アンジェリカは一旦言葉を切ると、その先を考えた。
そのままでいいと言ってくれた、クラウスの言葉を胸に、自分らしく話すしかないと思った。
目を逸らさないよう意識して、背筋を伸ばし、胸を張る。
少しでも、クラウスに釣り合うように。
「私は、事情があって、社交界に来たことがありません、こんなふうに着飾って、パーティーに出るのも初めてです。なので……至らない点がたくさんあるかもしれません、ですが……み、皆様と、仲良く、なれたらと思っていますので、どうぞ、よろしくお願いいたします……あっ、しゅ、趣味はお料理です!」
アンジェリカはガバッと頭を下げた後、急いで顔を上げて最後の言葉を付け足す。
それから改めて、深々とお辞儀をした。
アンジェリカの斬新な挨拶に、一瞬、来客たちはあっけに取られていたが、どこからかパチパチと拍手が聞こえた。
最初まばらだったそれは、次第に増えて、会場は祝福ムードに包まれた。
冷たい反応も覚悟していたアンジェリカは、想像以上の温かな空気に胸を撫で下ろした。
そんな彼女を、クラウスは誇らしげな瞳で見つめた。
そしてウエイターが持ってきたシャンパングラスを受け取ると、その手を高く掲げた。
「堅苦しい挨拶はこれで終わりです、後は皆様、ご一緒に美味しいものを食べて、楽しく過ごしましょう」
みんなクラウスに従い、シャンパングラスを片手に持つ。
そしてどこからか、クラウスに続く乾杯の合図が聞こえてくる。
「新たなブリオット公爵の誕生と」
「アンジェリカご令嬢との婚約を祝して」
「かんぱーい!」
みんな声を揃えて、シャンパングラスを掲げた。
しかし、ユリウス、アマンダ、ミレイユはグラスすら持たずに、乾杯に参加することもなかった。
意気消沈するユリウスとアマンダに、茫然と立ち尽くすミレイユ。
彼女は仲睦まじいクラウスとアンジェリカを、遠巻きに眺めていた。
すると、不意に、誰かと肩がぶつかる。
「イタッ……」
突っ立っていたミレイユは、少しよろけながらも、キッと相手を睨んだ。
「あら、失礼」
すると、通りすがりにぶつかった女性は、余裕の表情で謝罪する。
華やかな扇子で口元を隠した彼女は、ミレイユを一瞥すると、さっさと歩き出した。
クラウスとアンジェリカ、どちらの挨拶に対しても、一番最初に拍手を送った人物。
彼女は会場の前に行くと、そこに立った今日の主役、二人に近づいた。
「初めまして、アンジェリカ」
落ち着いた気品のある声に、アンジェリカが振り向く。
そこで目にした人物に、少し驚いて目を丸くした。
「は、初めまして……」
アンジェリカはとりあえず返事をしたものの、相手が誰だかわからない。
くっきりとした巻き毛の長い黒髪に、幅広い目尻の上がった猫のような赤い瞳、アメジストのような紫のドレス姿の彼女は、他の人にはないオーラを纏っていた。
「クラウスから話は聞いているわ、なかなかの美人じゃない、わたくしには負けるけれど」
「姉さん、アンジェリカをいじめないでください」
クラウスの一言で彼女の正体がわかると、アンジェリカはハッとした。
「お、お姉様……!?」
「そうよ、わたくしがジュリアンヌ・シモンズ・ブリオット、改め、ジュリアンヌ・ベガ・シェラザード。去年結婚して、シェラザード公爵夫人になったわ」
広げた扇子の後ろで、ふふっと艶かしく笑うジュリアンヌ。
彼女がサウロスとマリアンヌの間にできた、ブリオット家の血を引く、一人娘だった。
ようやく初対面できたアンジェリカは、急いで頭を下げた。
「ジュリアンヌ様、ご挨拶が遅れてしまい申し訳ありません!」
「やめてちょうだい、姉に『様』をつけるだなんて、他人行儀なこと、ジュリーでいいわ」
「ジュ……!? そ、そんな、馴れ馴れしいことはっ」
「問題ないわ、あなたはわたくしの可愛い弟の妻になるのだから、すでに家族も同然でしょう」
アンジェリカは驚いて、クラウスとジュリアンヌを交互に見た。
その動作にアンジェリカの思考を読んだジュリアンヌは、あははっと気持ちのいい笑い声を上げた。
「心配しなくてもわたくしたち姉弟は不仲ではないわ、そもそも血の繋がりなんてどうでもいいの、わたくしはクラウスの人となりが気に入っているのよ、これほど骨のある男はなかなかいないもの」
クラウスとジュリアンヌは腹違いで義理の姉弟になる。
アンジェリカはクラウスから、ジュリアンヌのことをあまり聞いていなかったので、二人の関係性がわからず、気を揉んだのだ。
しかし、ジュリアンヌの台詞で、そんな杞憂は吹き飛んだ。
「姉さんはなかなか豪傑でね、女性でありながら後継者にという声もあったほどです。いかがですか、シャラザード家での生活は?」
「それなりよ、同じ公爵位といってもブリオットの方が歴史があるし、好きにさせてもらっているわ。夫とはよく鷹狩りに行くし、馬で駆けるのも爽快よ」
「た、鷹狩りをされるのですか? 馬に乗られて?」
「ええ、狩りによい場所があるの、興味があるなら今度、腕を見せてあげるわ」
「よ、よろしければぜひ……! その際はお弁当を作ってまいりますね!」
「まあ、それは楽しみだわ」
ジュリアンヌがピシッと扇子を閉じると、顔全体がハッキリ見えた。
高い鼻に、艶やかながら凛々しい口元をした、ゴージャスな美女。
どうやらジュリアンヌも母親似のようだ。
クラウスといい、父親の血はあまり感じられない。
「逞しいのはけっこうですが、お転婆が過ぎて離縁されないように」
クラウスの台詞に思わずヒヤッとするアンジェリカだが、言われたジュリアンヌは楽しげに笑っている。
どうやらこんな冗談も許されるくらい、姉弟仲は良好らしい。
母親は違っても通じ合っているような二人に、アンジェリカは少し羨ましくなった。
「ブリオット家に出戻りすれば、アンジェリカもいるし、それはそれで面白そうね」
「やめなさいジュリー、シェラザード卿が悲しむわ」
そう言って会話に入ってきたのは、ジュリアンヌと同じ黒髪と赤い瞳を持つ淑女。
マリアンヌはチャコールブラウンに銀の刺繍が入ったドレスを身につけていた。
「あら、お母様、そちらのドレス、見覚えがありましてよ」
「でしょうね、わたくしが昔仕立てたものだから。ずいぶん久しぶりに袖を通すものでね、今の体型と年齢に合わせ、少しアレンジしたのよ」
「私のドレスは、マリアンヌ様が今日のために仕立ててくださったんですよ」
穏やかに微笑み合うアンジェリカとマリアンヌ。そんな二人を見たジュリアンヌは、母が良い意味で吹っ切れたのだと悟った。
「……そう、どうりでお母様の顔色がよろしいはずだわ」
「アンジェリカが美味しいものを作ってくれるの、そのおかげか身体が軽くてね、ここのところ、とても調子がいいわ」
「それはいいこと、嫌なことは早く忘れて、自分のために生きてくださいませ」
ジュリアンヌは近くにいた父、サウロスを横目で見ながら言った。
そんな娘にサウロスは苦笑いするしかない。
クラウスも特に父を立てようとはしないので、わりとサウロスの立場は弱い。
「マリアンヌ様、本日はご参加いただきありがとうございます、あなたからすれば複雑な部分もあるかと思いますが、円滑に進めていただき、感謝しています」
クラウスはマリアンヌに会釈をして感謝の意を伝えた。
マリアンヌはクラウスを引き取った時、厳しい現実にすぐに根を上げて逃げ出すと思っていた。
しかし、彼は決してめげることなく、一歩ずつ前進していった。
妾の子でありながら、貴族社会に溶け込み、揺るぎない地位を築き上げたクラウス。
その確固たる信念に、マリアンヌは感服すら覚えた。
彼女はいつしか、クラウスを『妾の子』ではなく、一人の人間として見るようになった。
そしてそれは、自身の『息子』として認めることを意味していた。
「あなたは公爵として立派に勤めを果たしているわ、女性の趣味もいいし……これで不平不満を述べては、淑女の名が廃るというもの」
マリアンヌはチラッとアンジェリカに目を配った後、さらに続ける。
「……ところで、あなたたちはいつまでわたくしを『マリアンヌ様』と呼ぶつもりなのかしら……二人とも、もう家族だと思っているのはわたくしだけなのかしらね」
そう言ってマリアンヌは、扇子ですっと口元を隠した。
別の呼び方をしてほしいという、マリアンヌからの遠回しなお願いである。
それを察したアンジェリカとクラウスは、お互い顔を見合わせた。
「別に、呼びたくないならかまわないけれど……」
アンジェリカは心から喜び、クラウスは驚きながらも悪い気はしなかった。
「ありがとうございます、ぜひ、呼ばせてください、お母様」
「……僕も、今後は、そうさせていただきます……お母様」
その言葉に、マリアンヌは扇子の下で微笑んだ。
血の繋がりはなくても、確かな絆が少しずつ育まれていた。
それからしばらく、貴族たちと顔合わせしたり、食事をしながら談笑する時間が過ぎた。
そんな中、アンジェリカはお手洗いに行くため、一旦その場を離れる。
広い会場の扉から廊下に出て、左手の突き当たりに見える手洗い場に向かう。
そしてその奥の出入り口を通過した時、アンジェリカは誰かに背中を突き飛ばされた。
「キャッ――!?」
バランスを崩したアンジェリカは、よろけて前方に倒れてしまった。
豪華な鏡が並ぶ手洗い場の前で、床に蹲ったアンジェリカは、後ろを見上げた。
するとそこに立っていたのは――。
「ミ、ミレイユ……!?」
アンジェリカの背後に立ったミレイユは、大きな目を見開き、彼女を見下ろしていた。
アンジェリカが一人になるタイミングを見計らっていたミレイユは、お手洗いに行く彼女をつけてきた。そして誰もいないのを確認すると、思いきり背中を押したのだ。
「一体どうやって取り入ったのよ……? 社交界デビューすらしていないお姉様が、どんな手を使って彼を引き寄せたの……?」
ジリジリとアンジェリカに迫りながら問い詰めるミレイユ。
その愛らしい顔つきは、アンジェリカへの憎しみに染まっている。
ミレイユは過去を思い出していた。
ミレイユが八歳の時、家で気に入りの庭師がいた。若くてハンサムな少年だった。
しかし、彼の視線はアンジェリカを追っていた。ミレイユは早熟だったため、彼の想いにすぐに気づいた。
しかし当のアンジェリカはなにもわかっていなかった。
ミレイユがアンジェリカを閉じ込めようと、地下室を作ろうと言い出したのは、この頃だった。
「ど、どんな手って、私はなにも」
「誰よりも可愛くて美しい私より、地味で暗いお姉様が選ばれるはずがないわ! なにかよほど汚い手でも使ったのでしょう!」
ミレイユの怒声に、アンジェリカはビクッとして身体を強張らせた。
この一ヶ月間、アンジェリカは実家のことなどほとんど思い出さなかった。
しかし、ミレイユを前にすると、辛い過去が一気に蘇る。孤独で冷たい、牢獄のような地下生活に引き戻される。
「そうして勝ち誇った気になって、腹の中で笑っているのでしょう、なんて意地が悪い女なの!」
ミレイユはアンジェリカの目前で足を止めると、しゃがんで彼女の胸元の布を引っ張り上げる。
そして、片手を大きく振り上げた。
「やめて!」
咄嗟に出たアンジェリカの声に、ミレイユの動きが止まった。
「やめた、方がいいわ……私になにかあったら……ミレイユも、お父様お母様も、ひどい目に遭うかもしれない」
クラウスの覚悟を知っているアンジェリカは、自分を傷つければ、ミレイユたちに罰が下ると考えた。
むしろ彼女たちの身を案じて言ったのだ。
それを聞いたミレイユは、アンジェリカをぶつために上げた手を、ゆっくりと下ろした。
そして顔を伏せると、身体をカタカタと震わせた。
「……なにそれ……自分は守られてるって言いたいわけ? 私には公爵様がついてるって脅し? はぁぁ……? 自惚れるのも大概にしなさいよっ……!」
怒りに満ちたミレイユは、再び声を荒げ、アンジェリカに手を上げた。
――ぶたれる……!
そう悟り、アンジェリカがギュッと目を閉じた時、いくつかの足音と話し声が聞こえてきた。
誰かがお手洗いに来たのだと気づいたミレイユは、掴んでいたアンジェリカの胸元を離した。
途端、床に崩れ落ちるアンジェリカを、ふんぞり返って見下すミレイユ。
「これで終わると思わないで、絶対あんただけ幸せになんてさせないから……!」
エメラルドのような瞳を鋭く尖らせ、アンジェリカに捨て台詞を放ったミレイユは、その場を去った。
遠のくミレイユの足音と入れ替わるように、やって来たのは二人の若い女性だった。
美しいドレスを着た彼女たちは、アンジェリカの姿を見つけると、急いで駆け寄った。
「だ、大丈夫でございますか!? ブリオット公爵夫人……!」
「もしかして、今の――?」
二人は顔を見合わせると、先ほどすれ違ったミレイユが頭によぎった。
彼女たちの声にハッとしたアンジェリカは、蹲っている場合ではないと気づき、その場に立ち上がる。
そして、何事もなかったかのように、にこりと微笑んでみせた。
「いいえ、なんでもありませんわ、ちょっと転んでしまっただけです」
アンジェリカはミレイユを庇ったのではない。クラウスの晴れ舞台である爵位式で、騒ぎを起こしたくなかったのだ。
「ですが……」
「それよりも、あなたはリビドー子爵夫人、ですよね?」
まだ心配気な様子の婦人に、アンジェリカが話しかけた。
クラウスに事前に聞いていた見た目から、アンジェリカはその人だと判断して言った。
アンジェリカと初対面だったリビドー夫人は、個人として認識されていることに驚いた。
「あ、は、はい、そうですが」
「リビドー家の領地ではオレンジの栽培が盛んだと聞いています、今度ジャムを作りたいと思って……オススメのオレンジを教えてくださいませんか?」
次期公爵夫人からのまさかの誘いに、リビドー夫人は大きく開いた目を輝かせた。
「もっ、もちろんでございます!」
アンジェリカは優しく微笑むと、次にもう一人の婦人を見た。
彼女のことも、事前にクラウスから聞いている。
「フィンセント男爵夫人は、花を育てるのがお上手だと聞きました、なかなか花が思うように育たなくて、なにかコツがあれば教えていただきたいわ」
フィンセント夫人も、リビドー夫人と同様、驚きながら歓喜する。
二人の反応は当然だ。上流貴族である公爵家の妻が、下流貴族である子爵や男爵の妻に、自ら交流を持ちかけるなど、滅多にないのだから。
「はっ、はい! よろしければ、ぜひ、今度うちに遊びにいらしてください!」
「まあ、本当? 嬉しいわ」
「わ、わたくしの方にもぜひ! ご趣味のお料理をお教えいただきたいです!」
「ありがとう、一度みんなでお茶会でもしたいわね」
ついさっきまで妹に襲われていたとは思えない、アンジェリカの立ち振る舞いは、実に立派なものだった。
――しっかりしなくては……もう、私の命は、私だけのものではないのだから。
自身を受け入れてくれたブリオット家のため、そして、公爵となったクラウスの婚約者として、惨めな姿は見せられないと、アンジェリカは思った。
今まで孤独に苦しんできたアンジェリカは、初めて誰かのために、強くなろうとしていた。