第三章、ブリオット家の人々
それからアンジェリカは、医者にかかることになった。
長年、地下室という狭く、日の当たらない場所で生活していたため、身体を悪くしていないかと、クラウスが心配したためだ。
アンジェリカは目覚めたベッドのある部屋で、ブリオット家の専属医師に診てもらった。
幸いにも大きな問題はなく、日常生活を送れるということだった。
ただ、痩せすぎているので、しっかり栄養を取ることと、いきなり過度な運動は禁物なので、少しずつ身体を慣らしていくようにと、指示があった。
診察の間は脱衣するため、クラウスは一旦外に出ていたが、戻ってきて医者の話を聞くと胸を撫で下ろした。
そしてベッドに座ると、アンジェリカの両手を取った。
「よかった、アンジェリカ……これからは栄養あるものをたくさん食べて、健やかな生活を送りましょう」
「ええ、ありがとう、クラウス」
アンジェリカが感謝を伝えると、クラウスは嬉しそうに微笑んだ。
「しかし、とりあえずは……食事より先に、着替えが必要ですね」
「そうね……お風呂にも入らせてもらえたら嬉しいわ」
「もちろん、あなた専用の侍女を連れてきますから、ここで待っていてください……あ、そうそう、ここがあなたの部屋ですからね、自由に使ってください」
ここが自分の部屋だと知ったアンジェリカは、改めて室内を見渡した。
オフホワイトのドレッサーとチェストに、丸いテーブルと椅子が置いてある。
絨毯やカーテン、寝具はワインレッドで統一され、華やかかつ上品な雰囲気に満ちた私室になっている。
広さはアンジェリカがいた地下室の倍はありそうだ。
初めて与えられた、自分だけの豪華な場所に、アンジェリカは嬉しくも恐縮した。
「こんないい部屋をいただいていいのかしら?」
「当然でしょう、あなたは僕の婚約者なのですから」
そうか、今は婚約者の状態なのかと、アンジェリカは改めて立場を自覚する。
「あなたが最初に来られた部屋……書斎の隣が僕の部屋で、その隣がここです。僕の部屋の続きになっているので、楽に行き来できますよ」
「そうなのね、わかったわ」
あっさりと頷くアンジェリカに対し、なにもわかっていないなと思うクラウス。
クラウスの部屋と、アンジェリカの部屋は一枚のドアを挟んで繋がっている。
廊下に出なくても、互いの部屋を行き来できるということだ。
なぜそうなっているかというと、いつでも、特に夜に……寝所に行きやすくするためだ。
つまり、夫婦のための特別仕様となった部屋。
しかし、アンジェリカはそのことをまったくわかっていなかった。
――これからしっかりと意識してもらわねば……。
クラウスはそう思いながら、一旦部屋を出て使用人を呼びに行った。
ほどなくして再びドアが開くと、クラウスが
二人の女性を連れて現れた。
一人は長身で恰幅がよく、お団子頭をした年配女性。もう一人は小柄でショートヘアーの、鼻の頭にそばかすのある若い女性だった。
どちらも白いフリルのついたエプロンに、黒いワンピースの、クラシカルなメイド服を着ていた。
年配女性はしっかりとした足取りで、アンジェリカの前まで歩いた。
「初めまして、アンジェリカ様! あたくしがブリオット公爵家の家令をさせていただいております、ヴァネッサ・アルディオと申します、歳は四十八でございます、よろしくお願いいたします!」
「は、はいっ、よろしくお願いいたします!」
アンジェリカは急いでベッドから立ち上がると、溌剌としたヴァネッサにつられ、声を張って返事をした。
反射的に頭を下げるアンジェリカに、ヴァネッサはやや面食らう。
伯爵家の令嬢なので、かなり気位が高い婦人が来るだろう。そう思っていたヴァネッサは、アンジェリカの反応が意外だった。
「まあまあ、使用人に頭を下げられるだなんて、なんと腰の低い若奥様でございましょう! さ、あんたもしっかり挨拶なさい!」
ヴァネッサはそう言って、隣に立った小柄な女性の背中をバンッと叩いた。
「は、はいっ! あたくしはメイドのルカナ・アルディオでございます! この度、若奥様の専用侍女という誠に光栄なお役目をちょうだいいたしました! どうぞよろしくお願いいたしますです!」
「ちょっと、敬語がおかしいよ!」
「すみませんママン!」
「仕事中にママンと呼ぶんじゃないよバカ娘!」
「申し訳ありませんー!!」
元気がよすぎる親子二人に、アンジェリカは少し圧倒されていた。
そんな様子をそばで見ていたクラウスが、一歩前に出て紹介を始める。
「アルディオ家は代々、ブリオット家に仕えているメイド家系なんだ。ヴァネッサは口が堅く仕事は早いし、その娘であるルカナも優秀なメイドで、時期スチュワード候補だ、安心して任せるといい」
スチュワードとは、屋敷の日常業務や、メイド、執事などを管理する上級使用人だ。
上流貴族の屋敷にしかおらず、それ以外のところでは、執事が兼任している。
「なんなりとお申しつけくださいませ、若奥様!」
シャキッと背筋を伸ばして、やる気満々のルカナ。
そんな彼女を、アンジェリカはとても可愛らしく思った。
アンジェリカより頭一つ分背が低く、童顔でまだ子供のように見える。
母のヴァネッサは大柄で目鼻立ちもハッキリしているので、言われなければ親子だとわからない。
「その、若奥様というのはちょっと……なんだか気恥ずかしいから、アンジェリカでいいわ」
「かしこまりました、アンジェリカ様! これからよろしくお願いいたします!」
「すごいわね、スチュワード候補だなんて……とても若く見えるけど、歳はいくつ?」
「もうすぐ二十になります!」
それを聞いたアンジェリカは、パッと表情を明るくした。
「まぁ、私も一緒だわ、髪もブラウンで、私と似ているわね」
「ええっ、そんなっ、アンジェリカ様と同じだなんてっ、ルカナのはきったない焦茶で、アンジェリカ様の神秘的な赤茶色の髪とは似ても似つきません!」
想定外の言葉に慌てふためくルカナだが、アンジェリカは彼女の言葉に驚いていた。
今までアンジェリカの髪を褒めたのは、クラウスだけだった。
歳が近い同性に褒められるのは初めてで、アンジェリカは少し照れくさそうに自身の髪を摘んだ。
「神秘的……そんなの、初めて言われたわ」
じんとした様子のアンジェリカに、目を見開いて茫然とするルカナ。
――なにこのお方、可愛すぎん?
令嬢とは思えぬ素朴な反応に、思わず涎が出そうになったルカナは、覚醒すると右手を振り上げた。
「ルカナこのお方好きです!!」
「コラァ! もうじき公爵夫人になられるお方に、軽々しく好きなんて言うんじゃないよ!」
高らかに宣言する娘の頭に、鉄拳をくらわせる母。
ルカナは「イデッ!」と悲鳴を上げ、若干背が縮んだように見えた。
「ぼ、暴力はおやめになって、私、嬉しいです、こんな可愛らしい方にそんなふうに言っていただけて……これからよろしくお願いします」
ふわりと微笑むアンジェリカに、花が舞って見えるヴァネッサ。
――うん、あたくしもこの方、好き。
さすがにルカナのように表には出さないが、心の中では同じことを思うヴァネッサ。
アンジェリカは見た目は大人っぽく、貴婦人らしい雰囲気なのだが、中身は乙女というギャップがあった。
「では、僕はそろそろ失礼するよ、ルカナ、アンジェリカをよろしくね」
「はい、お任せくださいませ!」
クラウスとヴァネッサが部屋を後にすると、アンジェリカとルカナは二人きりになった。
「大丈夫だった?」
「平気です、これくらい日常茶飯事なので! マ――スチュワードはとても厳しいのです、その代わり、きちんとできた時はめちゃくちゃ褒めてくれます!」
えへへっと、少女のように笑うルカナが、アンジェリカには微笑ましく、そして少し羨ましく見えた。
「そう……好きなのね、お母様のことが」
「でございますねっ、尊敬しております!」
ルカナは溌剌と返事をすると、部屋のドアを開いた。
「ではまずお風呂にいたしましょう、それからお召し物を変えて、お食事という流れで!」
「はい、よろしくお願いします」
「そんな、腰を低くなさらないでください! アンジェリカ様がそんなふうだと、我々従者は地面にめり込まねばなりませんので!」
「地面に……?」
ルカナが言った光景を、思わず想像してしまったアンジェリカは小さく吹き出してしまった。
「そ、そう……それは、困るわね」
「でございましょっ? なのでもっと胸を張ってくださいませ!」
「ふふ……がんばってみるわ」
口元に手をあて楽しそうに笑うアンジェリカと、それを嬉しそうに眺めるルカナ。
身分は違えど、互いに好感を持つ二人だった。
その後、二階にあるバスルームに向かったアンジェリカは、ルカナに髪も身体もピカピカになるまで磨かれた。
誰かに身体を洗われるなんて久しぶりだったアンジェリカは、最初は恥ずかしさもあり戸惑っていたが、次第に慣れていった。
地下室にはシャワールームや洗面所もついていたが、狭くて使い心地が悪かった。
当然、この屋敷ではそんなはずがなく、広々とした綺麗なバスルームに、アンジェリカは嬉しくなった。
ルカナに身体を拭いてもらったアンジェリカは、バスルームの続きになっている衣装部屋に移動すると、ドレスの多さに驚いた。
色やデザインも様々な衣装が、広い部屋一面を、埋め尽くすようにずらりと並んでいる。
伯爵家よりも品揃えが豊富なのは、一目瞭然だった。
アンジェリカは自分で選ばず、ルカナに任せることにした。
こんな大量のドレス、選んでいるうちに日が暮れてしまいそうだ。
アンジェリカはドレッサーの前に座り、ルカナが戻ってくるのを待った。
楕円形の大きな鏡に、アンジェリカの白いバスローブ姿が映る。
昨日、ミレイユにぶたれた頬は赤みが引き、綺麗になっていた。
少しすると、ルカナが両手いっぱいに、ドレスや装飾品を抱え戻ってきた。
アンジェリカが立ち上がると、ルカナは身支度を始める。
衣類の着せ方やコルセットのつけ方、紐の結び方まで、実に手際よく進めてゆく。
着替えが終わると、質の良い化粧水や美容液で肌を整え、ルカナは丁寧に、アンジェリカに化粧を施していった。
そして数分後、アンジェリカから少し離れたルカナは、その全容を確認した。
「うわぁぁ……」
自分で選んでおきながら、アンジェリカの完成形にため息をついてうっとりするルカナ。
もう終わったのかしらと思ったアンジェリカは、前にある楕円形の鏡を見た。
すると、そこに映っている自身の姿を見て驚きの表情をした。
赤い薔薇のような鮮やかなドレス、袖は白いフリルになっており、裾には金の刺繍の花が幾重にも折り重なっている。
アイシャドウは控えめはブラウン系で、チークとルージュは、コーラル系で統一されていた。
アンジェリカの髪や目の色を活かした、気品溢れる女性らしい装いである。
「すっっごくよくお似合いです、これほど高貴な赤を着こなせる婦人はそうはいませんよ!」
ルカナは胸の前で拳を作りながら力説した。
アンジェリカはしばし黙って、鏡の中の自分を見つめていた。
こんなふうにドレスアップするのは、子供の頃以来だ。
大人になって初めて、着飾った自分の姿を見たアンジェリカは、なんだか不思議な気分だった。
髪はアンジェリカのウェーブを使って、自然なカールの状態で下ろしてある。
金の縁に、赤い宝石が埋め込まれた、耳と首元を彩る装飾品。
一級品で飾られたアンジェリカは、キラキラと輝いて見えた。
「そ、そうかしら?」
「そうですともっ、これはクラウス様もさぞお喜びになられますよー!」
急に上等なものに身を包まれたアンジェリカは、少し気後れしていた。
そんな彼女を見たルカナは、アンジェリカの最初の服装を思い出す。
あんな下品なピンクのドレスは、とてもアンジェリカには似合わなかった。質もよくなかったし、アンジェリカが好んで着たとは思えない、だとしたら誰かが無理やり着せたのだろうかと。
ルカナはアンジェリカの様子から、あまり実家でよい扱いを受けていなかったのかもしれないと感じた。
一介の使用人が貴族の事情に首を突っ込むわけにはいかないので、口には出さないが。
支度が終わると、ルカナがドアを開き、アンジェリカは部屋を出た。
すると衣装部屋のすぐそばで、銀髪紳士の後ろ姿を見つける。
アンジェリカにつきっきりだった彼も、お風呂を済ませて、新しい装いに変わっていた。
クラウスは内廊下で立ち止まり、広間の方を見下ろしていた。アンジェリカを待っていたのは明らかである。
その証拠に、クラウスは衣装部屋が開くとそちらを振り返った。
そして、アンジェリカを見た瞬間、切れ長の目を大きく開いた。
「……変かしら?」
ずいぶん驚いた様子のクラウスに、アンジェリカは少し不安そうに尋ねた。
こんな上等な装い、自分には相応しくなかっただろうかと心配になったのだ。
アンジェリカに声をかけられたクラウスは、我に返ると困ったように微笑んだ。
「いや……あまりに美しすぎて、言葉を失くしていました……とてもよくお似合いです、あなたの前では女神も霞むでしょう」
口を開くとアンジェリカを褒め称える言葉しか出てこない。
そんなクラウスに、アンジェリカは頬を染めて困惑した。
「クラウスったら、いつの間にそんな上手な言葉を覚えたの?」
「上手もなにも、僕は思ったことを素直に伝えているだけですよ」
歯が浮くような台詞も、爽やかな笑顔でさらっと言ってのける。
その姿は、貴族……というより王子様のようだ。
「だけど、変じゃないならよかったわ、私はミレイユのように愛らしくないから……」
「なぜあのブス――ンッンンヴヴッ……妹君の名前が?」
うっかり本音が零れたクラウスは、例の如く不自然な咳払いで誤魔化した。が、そばにいたルカナはしっかり聞いていた。
――え、今、ブスって言いましたよね?
耳を疑いながらも受け止めたルカナに対し、アンジェリカは相変わらずわかっていなかった。
こんな美しいクラウスから、そんな汚い言葉が出るわけがないと信じ込んでいた。
「なぜって……なぜ、かしら……? こんな煌びやかな衣装が似合うのは、ミレイユの方だろうと思ったから……」
クラウスは軽いショックを受けた。
アンジェリカは幼い頃から、ずっとミレイユと比べられてきた。
そしてミレイユの方が美しい、愛らしいと、刷り込まれて育ったのだ。
本来ならアンジェリカこそ持て囃されるに相応しい、見目麗しさを持っているというのに。
アンジェリカは無意識のうちに、自身を卑下し、ミレイユに劣っていると思わされている。
こればかりは、すぐにどうにかなるものではない。
どれほどクラウスの愛が深くても、時間をかけて洗脳を解いてゆくしかないだろう。
「勘違いしないでアンジェリカ、あなたは誰よりも愛らしく、美しい……世界一の女性なのだから」
クラウスが面と向かって言うと、アンジェリカは恥ずかしそうに目を伏せる。
アンジェリカが自分を好きになれるよう、クラウスは何度でも彼女自身の魅力を伝えようと決めた。
そんなやり取りを、すぐそばで見ていたルカナが尋ねる。
「お二人とも、なんだか親しいご様子ですね、以前お会いしたことがあるのですか?」
「ああ、ちょっとね……」
ルカナの質問を、クラウスは王子……貴族スマイルでふっと受け流す。
その顔は、先ほどのブス発言を帳消しにするほどカッコイイ。
ルカナは思わずうっとりしながら、これ以上突っ込むべきではないと察した。
「そうですか、ではルカナは朝食の準備に取りかかりますので、一旦失礼いたします」
ルカナはそう言って頭を下げると、廊下を歩き出す。
そんな彼女に、アンジェリカは急いで声をかけた。
「あ……ルカナ、綺麗にしてくれてありがとう、またね」
「とんでもございませんっ!!」
振り返ったルカナはアンジェリカに深々とお辞儀をすると、一階の食堂へと向かった。
「ルカナたちは私たちのことを知らないの?」
クラウスと二人きりになったタイミングで、アンジェリカが問いかけた。
するとクラウスは、小さく頷く。
「ええ、僕が使用人で働いていたことや、あなたを好きで連れてきたことを知っているのは、父と公爵夫人のマリアンヌ、その娘のジュリアンヌと、フリードリッヒだけです。なので、他の者たちは、よくある政略結婚だと思っています」
「そうなの……じゃあ私もあまり親しげにしない方がいいかしら」
「なにを言うんですか、もうじき夫婦になるんです、親しいに越したことはないでしょう」
クラウスは内心焦りながら、アンジェリカの言葉を否定した。
早くもっと近づきたいのに、距離を取られてはたまらないと思った。
「あなたはなにも気にせず、自分のことだけ考えて、のびのびと過ごしてください」
クラウスはそう言うと、アンジェリカの手を取った。
とりあえず、アンジェリカに対するクラウスの距離が近い。
そして、隙さえあれば手を握ってくる。
「ところでその、他のご家族は? 私もご挨拶しないと」
「父は今、外交に出かけているので、一週間ほど戻りません。僕とブリオット夫人も、後で合流する予定です。義理の姉であるジュリアンヌは、別の公爵……シェラザード家に嫁いでいて、もうここにはいません、なので爵位式で顔合わせすることになるでしょう……なんせ急なことでしたから、皆の予定と合わせることが難しかったんですよ」
フランチェスカ家が破綻したことにより、急いでアンジェリカを迎えることになった。
そのため、準備も追いつかず、家族の挨拶も後回しになるのは仕方がなかった。
「そう……当然よね、皆様それぞれお忙しいんだもの、クラウスだってそうでしょう」
「時間は作るものです、僕の中では、あなたが最優先なので」
クラウスはアンジェリカの片手を持ち上げると、手の甲に唇を落とした。
その様の、なんと絵になることか。
もしかしたらクラウスは、童話の中から出てきたのかしらなんて、アンジェリカのメルヘンチックな脳が言った。
「次期公爵様が……そんなことを言っていいのかしら」
「公で言うべきこととそうでないことは、見極めているので心配ありませんよ、僕の評価はあなたに直結しますから……貴族や王の前では上手くやります」
自信に満ちた表情のクラウスに、アンジェリカは言いようのない安心感を覚える。
使用人として働いていた子供の頃も、クラウスは利口で、行動力があった。
周りにバカにされても、嫌がらせを受けても、怯むことも悲しむこともせず、いつも背筋を伸ばして前を見ていた。
今思えばあの瞳は、現在の状況を見据えていたのかもしれない。
アンジェリカはそんなことを考えていた。
そんな二人の前に、ふと、ある人物の気配が訪れる。
アンジェリカとクラウスが立つ廊下の先、直線上に、銀色のドレスを纏った女性がいた。
黒髪を後ろの高い位置で結い、後れ毛を垂らした彼女は、ややふくよかでヴァネッサと同年代に見えた。
こんな豪華な装いをしてる女性は、この屋敷でアンジェリカを覗いて一人しかいない。
「マリアンヌ様、おはようございます」
前から歩いてきたのは、クラウスの父、現公爵サウロスの正式な妻であるマリアンヌだった。
彼女はクラウスの方を見たものの、返事はしない。
マリアンヌと初対面したアンジェリカは、緊張しながら姿勢を正した。
「は、初めまして、マリアンヌ様、ご挨拶が遅れて申し訳ありません、私は――」
「いらないわ、挨拶なんて……」
マリアンヌは冷たく言うと、アンジェリカから顔を背けて、螺旋階段へと進む。
アンジェリカはドレスの裾を摘み上げると、急ぎ足でマリアンヌを追いかけた。
「あ、で、ですが、そういうわけにはまいりませんっ、ここは、あなた様が長年暮らしておられる城ですので、どうかご挨拶のお時間を……」
マリアンヌは螺旋階段を三段ほど下りたところで、ハイヒールを履いた足を止めた。
とりあえず待ってくれたことに一安心したアンジェリカは、階段の上で立ち止まってお辞儀をした。
「アンジェリカ・ドーリー・フランチェスカと申します、この度……」
アンジェリカはマリアンヌに対して、クラウスのことを『ご子息』と言っていいのか迷った。
ブリオット家の後継となったクラウスは、形式上はマリアンヌの息子だが、彼女が産んだわけではないのだから。
「……クラウス様の妻として、迎えられることに……」
ご子息ではなく、クラウスの名を口にしたアンジェリカだが、ここでまた言葉に詰まった。
果たして自分は、マリアンヌに歓迎されているのだろうか、と。
マリアンヌはアンジェリカを見ていなかった。
螺旋階段の先を見ていたため、アンジェリカには背中を向けたままだった。
「わざわざわたくしのご機嫌を取ることはないでしょう、わたくしはここには不要な人間なのですから、必要なのは……わたくしの血が流れていない後継だけ」
「で、ですがあのっ、私、仲良くなりたいのです!」
マリアンヌが階段を下りようとし時、アンジェリカが身を乗り出すようにして訴えた。
この言葉に、マリアンヌはピクリと反応を示し、クラウスは目を丸くしていた。
「あ、も、申し訳ありません、大きな声で……不束者ではありますが、早くブリオットに馴染めるよう努めますので、ど、どうぞよろしくお願いいたします」
アンジェリカは両手を前に揃えると、マリアンヌの後ろ姿に深々と頭を下げた。
マリアンヌは後ろを振り返らず、螺旋階段をゆっくりと下りてゆく。
――一族で爪弾きのわたくしと仲良くなりたいですって? おかしな令嬢が来たものね。
そんなことを考えながら、マリアンヌは一足先に食堂へと向かった。
「驚きました、どうしたんですか急に?」
クラウスは意外な行動を取ったアンジェリカに尋ねた。
するとアンジェリカは、少し寂しげな表情で口を開く。
「私は自分の母とは、その……上手くいかなかったから……マリアンヌ様を、本当のお母様のようにお慕いできればと……ごめんなさい、自分勝手ね」
アンジェリカはもしも自分が嫁ぐことがあれば、夫の母親とも親しくなりたいと思っていた。
クラウスの産みの母はもういないため、マリアンヌしかいない。
幼き頃から家族愛に飢えていたアンジェリカは、温かい家庭に憧れていた。
「そんなことはありませんよ、いい考えだと思います。彼女も、別に僕のことが憎いわけではないと思います。父が不在の間も、食事は毎回一緒に取っていますから」
「そうなの?」
「ええ、嫌なら私室や、時間をずらして取ることもできるのに、それをしないということは、顔も見たくない、とは思われていないかと」
クラウスは顎に手をやり、思案する姿勢を取った。
「ただ、僕は父が外で作った子に違いありませんからね。自身が懇願して成せなかった男児……それを他の女が授かったという事実……男の僕にはわからない苦悩があるのではないかと思い、こればかりは、かける言葉が見つかりません。一年ほど前に義姉が家を出てからは、ますます塞ぎ込むようになられました」
クラウスの言葉は、マリアンヌに対する気遣いさえ感じさせる。
マリアンヌが拒絶しなければ、産みの母が亡くなった時点で、クラウスはブリオット家に迎えられただろう。
そうすれば使用人として辛い扱いも受けずに済んだだろうが……アンジェリカと出会うこともなかった。
だからクラウスはマリアンヌを嫌っていない。むしろ人生最大の出会いをもたらしてくれたことに、感謝しているくらいだ。
「……クラウスは、マリアンヌ様をどう思っているの?」
「別に嫌いではありませんよ、どちらかというと、妻や娘がいて、愛人を作った父の方が嫌です」
「ええっ!?」
クラウスの発言に、思わず声を上げるアンジェリカ。
だが、冷静に考えてみると、クラウスの言うことはもっともでもある。どんな理由があっても、不倫はよろしくない。
「いくら政略結婚とはいえ、やっていいことと悪いことがあるでしょう、不貞だなんて僕には考えられない」
「私はてっきり、クラウスはパパっ子なのかと……お母様を愛して、幼い頃もよく遊んでくれたと言っていたし」
「それで母を苦労させたのも事実ですからね」
腕を組みながら、ハンと鼻で笑ってみせるクラウス。アンジェリカの前では、つい本来の自分が漏れ出してしまう。
「まぁ、かといって憎んでもいませんし、むしろ感謝していますよ、あなたを守れる権力を賜ったわけですから」
とまぁ、結局、そこに落ち着くのだ。
クラウスの原動力はすべてアンジェリカ。
別に公爵になりたいわけでもなかったが、それでも継ぐ気になったのは、アンジェリカを守る力が欲しかったからだ。
クラウスはキョトンとしているアンジェリカに、ニッコリと笑いかけた。
「さあ、我々も朝食にまいりましょう、たくさん食べてくださいよ」
「が、がんばるわ」
アンジェリカはクラウスに手を取られ、エスコートされながら螺旋階段を下りた。
二人が広々とした廊下を歩いていると、前方にメイドが二人立っているのが見える。
メイドはアンジェリカとクラウスに気づくと、頭を下げて扉を開いた。
金色の模様が施された、純白の豪華な扉。この中が食堂になっている。
アンジェリカが入ると、すぐ正面に長方形のテーブルがあり、椅子が等間隔に並んでいる。
真っ白なレースのテーブルクロスの上には、すでに食事が用意されていた。
クラウスの後に続き、アンジェリカも足を進めると、左側に立派な食器棚と、キッチンがあるのがわかる。
そしてその手前に、体格のいい男性が立っていた。
「初めまして、あなた様が次期公爵夫人のアンジェリカ様でおられますか」
彼はアンジェリカを見るなりそう言った。
金色の短髪に、深いブルーの瞳。歳は三十くらいだろうか、強面の男性は、白いコック服を着ていた。
「はい、そうですわ、初めまして、アンジェリカ・ドーリー・フランチェスカでございます。どうぞよろしくお願いいたします」
華やかなドレスの裾を持ち上げ、アンジェリカは美しいお辞儀をする。
それを見た男性は、ややっと驚いた後、急いでアンジェリカよりも深く礼をした。
「これはこれは、なんとご丁寧な貴婦人であらせられるか、私は料理人のガルシア・シュタットブルクと申します」
シェフとは、食材の管理からメニュー作成、下級料理人であるコックたちの取りまとめをしている、キッチンの支配人だ。
それを知ったアンジェリカは、目を輝かせて彼を見た。
「まぁ、ではあなたが、ブリオット家の食卓を任されているのね」
「その通りでございます、朝食のご準備ができておりますので、どうぞお席へ」
ガルシアは誇らしげに頷くと、手のひらでテーブルを指し示した。
クラウスとともに歩き出したアンジェリカは、ふとテーブル席に座った人物が目に入った。
先に来ていたマリアンヌは、長いテーブルの一番端に座っている。両端に一脚ずつある椅子は、ブリオット家の当主とその妻だけに与えられた特別な席だ。
どこに座ればいいのかと、テーブルを見回すアンジェリカ。
そんな彼女をリードするように、クラウスは颯爽と席に移動する。
そしてマリアンヌの左側、テーブルの真ん中にある一脚の椅子を引いた。
「どうぞ、アンジェリカ、あなたの席はここです」
スマートに案内してくれるクラウスに、アンジェリカはホッとして席に着いた。
すると、クラウスはアンジェリカの隣に着席する。
こういう場合は、普通、前に座るものではないかと疑問を持つアンジェリカ。
「クラウス、なんだか近いんじゃないかしら?」
「いいんですよ、もうじき我々が夫妻席に移るのですから、そうすればこんなに近くでは食べられません」
クラウスが正式に公爵家の当主となれば、クラウスはサウロスの、アンジェリカはマリアンヌの席に移動することになる。
そうすると両方の端っこに座るので、テーブルの長さ分だけ距離ができるのだ。だからクラウスは、今のうちにアンジェリカのそばで食事を楽しみたいと思っていた。
アンジェリカはそんなものかと思いながら、テーブルの上の料理に目を移す。
中央のバスケットには、様々な形状のパンが入っていて、小さく切り分けられたものが、各自の皿にのっている。
新鮮なフルーツに、ハムやチーズ、カボチャのスープ。紅茶も用意されていて、いい匂いが部屋中に漂っていた。
アンジェリカはまずは銀のスプーンで、スープを一口飲んだ。
「ん……!」
「美味しいですか?」
「ええ、とっても」
口元に手をあて、好反応を示すアンジェリカに、クラウスも思わず笑顔になる。
「それはようございました、おかわりもございますので、たんとお召し上がりください」
いつの間にか、クラウスの傍らに立っていたフリードリッヒが言った。
「クラウス様がアンジェリカ様のために、いつもより多く作るようにと、シェフたちに伝えていましたからねっ」
続けてそう言ったのは、アンジェリカのそばに立ったルカナ。
気づけば近くにいた二人は、なにかあった時いつでも対応できるよう待機している。
わざわざ自分のために、量や品数を増やしてくれたと思うと、アンジェリカは申し訳ないような気持ちになった。
「わざわざそんな……大変だったんじゃ……」
「あなたは細すぎるので、もう少し肉をつけていただかないと、折れてしまいそうですよ」
「そんな、言いすぎよ……でも、こんなに美味しい料理を毎日食べていたら、あっという間に太ってしまいそうね」
気を使いながらも、ふふっと微笑むアンジェリカに、クラウスは心が温かくなる。
そしてそれは、フリードリッヒやルカナも同じだった。
しかしマリアンヌだけは、この和やかな雰囲気の外側にいた。
彼女はフォークとナイフを置くと、早々に席を立つ。
「マリアンヌ様、お食事はもうよろしいのですか?」
「ええ、もうけっこうよ、なんだか胃がつかえて、これ以上食べる気にならないわ……失礼」
声をかけたフリードリッヒに答えると、マリアンヌは眉間に皺を寄せながら食堂を去っていった。
目も合わせてくれなかったマリアンヌに、アンジェリカは青い顔をする。
「もしかして、私と一緒に食べるのがお嫌だったのかしら……」
「違うと思いますよ、彼女は最近ずっとあんな感じで、あまり食欲がないようです」
「そう……それはそれで心配ね」
クラウスにフォローされた後、アンジェリカはマリアンヌが座っていた場所を見た。
パンは半分も食べていないし、ハムやチーズなどはほとんど残っている。唯一、スープの丸皿だけは空っぽになっていた。
こんなに美味しい料理を食べないなんて、きっと味のせいじゃない。だとしたら、なにか他に理由があるのかしらとアンジェリカは考えた。
「気にすることはありませんよ、精神面が影響しているのかもしれません」
「そう……そうよね」
アンジェリカは一旦マリアンヌのことは置いて、とりあえず目の前の食事に集中することにした。
フォークやナイフの使い方から、食べ方と姿勢まで、アンジェリカはとても美しかった。
伯爵家に産まれた彼女は、幼い頃からマナーの教育を受けている。
子供の頃に覚えたことは、そうそう忘れるものではない。
だからアンジェリカは、今でもごく自然に、正しく洗練された所作ができるのだ。
とても長年、地下生活を送っていたようには見えない、アンジェリカの姿は貴婦人そのものだった。
アンジェリカは前もって用意されていた、自分の食事を綺麗に食べると、バスケットに入ったパンのおかわりもした。
一通り食べ終えたアンジェリカは、ふと周りから注がれている視線に気づいた。
クラウスを始め、その場にいる使用人全員が、ニコニコしながらアンジェリカを見ていた。
アンジェリカは久しぶりの温かで美味しい食事に、つい夢中になってしまった自分が、少し恥ずかしくなった。
「……私だけたくさん食べてしまって、なんだか申し訳ないわ」
「なにを言うんです、食べてくれた方がいいですよ、その方がシェフも作り甲斐があります、ねぇ、ガルシア」
「そりゃあ、もちろんでございます!」
クラウスに名を呼ばれたガルシアは、洗い物を終えて、キッチンから出てきた。
「アンジェリカ様、なにか好き嫌いがございましたら、遠慮なくお伝えください」
「ありがとう、ガルシア、でもなにも好き嫌いなんてないわ、こんな美味しい料理をいただけるだけで幸せだもの」
それを聞いたガルシアは、眩しい光に圧倒されるかのようによろめいた。その瞳は乙女のようにキラキラ輝いている。
「ふわっ、な、なんとよいお方なのでしょうか……このガルシア、今後もアンジェリカ様の舌を唸らせる美食を作ってまいりますぞ!」
「まぁ、頼もしいわ、ありがとう」
ドンッと逞しい胸を打って宣言するガルシアに、感謝の笑顔を向けるアンジェリカ。
その様子を見たクラウスは、やや眉間に皺を寄せた。
アンジェリカが自分以外の男を頼るような発言をしたので、ついヤキモチを妬いてしまったのだ。
そんなクラウスの心の乱れに、フリードリッヒはすぐに気づく。
「クラウス様、お気持ちはわかりますが、そろそろお時間でございます」
フリードリッヒは姿勢を低くすると、クラウスを宥めるように言った。
するとクラウスは、急いで眉間の皺を伸ばすと、いつも通りの表情で席を立つ。
そんな彼を、アンジェリカは不思議そうに見上げた。
「クラウス、どこかに出かけるの?」
「領地の見回りをしてきます、その後は子爵に会食に誘われているので、今日は夜まで戻りません」
「そうなのね、わかったわ、気をつけて」
あっさり了承するアンジェリカに、クラウスは少し寂しくなる。と同時に、自身の未熟さを感じた。
「なにか困ったことがあれば、フリードリッヒに言ってください、女性にしかわからないことはルカナに」
「大丈夫よ、私のことは心配しないで」
強がりではなく、本当に平気そうなアンジェリカに、もう少し自分を意識してほしくなったクラウスは、屈んで彼女にキスをした。
唇ではなく、額に軽く触れるだけのやつだ。
それでも、アンジェリカには効果絶大だった。
急に赤くなって固まるアンジェリカに、クラウスは満足げに笑った。
「……行ってきます、また帰宅したら話しましょう」
「……い、行ってらっしゃいませ」
アンジェリカが見送りの言葉を口にすると、フリードリッヒが後方に下がって道を開ける。
するとクラウスは身体の向きを変え、颯爽と食堂を出ていった。
そんな二人の様子をそばで見ていたルカナとガルシアが、つつつ……と身体を寄せ合う。
「なんだかラブラブですな、政略結婚じゃなかったんですかい?」
「ですよねっ、ルカナもそう思ってたんですよ、まるで恋愛結婚みたいじゃないですかっ?」
互いにしか聞こえない小さな声で、ルカナとガルシアは同じ意見を言っていた。
「政略結婚でも恋愛に発展することはあるでしょう」
コソコソ話をしっかりキャッチしていたフリードリッヒが、すかさずフォローを入れる。
すると二人はフリードリッヒを見たものの、内緒話を続行した。
「しかし昨日来られたばかりで……もしや一目惚れというやつか!? だとしたらそれもよきですな」
「あり得るかもですね、お二人とも眼福の見目をされておりますからっ」
「まあ……なにはともあれ、夫婦円満に越したことはないということですよ」
囁きながらもうるさい二人に、フリードリッヒが淡々と応じた。
一目惚れ、恋愛結婚……どちらもクラウスには当てはまるため、間違っていると否定はしなかった。
アンジェリカはしばし、クラウスに口づけられた額に手をあて、ぼんやりしていた。
しかしあることを思いつくと、立ち上がって後ろを振り向いた。
「フリードリッヒ、クラウスはいつもあんなふうに忙しくしているの?」
フリードリッヒは右腕を胸元にあて、軽くお辞儀をした。
「はい、アンジェリカ様。クラウス様は自身のお立場をよおく理解しておられます。ですから周りに認められるよう、人一倍の努力をされているのですよ」
フリードリッヒの言っていることが、アンジェリカにはよくわかった。
クラウスは愛人の子であり、半分は貴族の血ではない。
それは彼がブリオットを継ぐとなった以上、隠し通せる事実ではなかった。
使用人として働いていたことはあえて言っていないが、他のことはすべて公にしている。
だからクラウスは、領地の管理や、貴族との関わり、外交に至るまで、積極的に努めるようにしている。
アンジェリカは驚いた。
なぜなら、彼女の父はそんなことをしていなかったからだ。
貴族の公務は、勤めではあるが、絶対ではない。
だから、真面目にやろうとすれば、いくらでも仕事はあるが、手を抜こうとすれば、いくらでも楽できる。
薄々感じてはいたが、やはり自分の父は後者だったのだと、アンジェリカは思った。
社交という名の戯れのパーティーや、趣味ばかりに時間を費やしていた、そんな父の下で生まれたアンジェリカにとって、クラウスはとても眩しく感じた。
「そう……すごいわね、クラウスは……」
クラウスはもちろんのこと、使用人たちもすごい、とアンジェリカは思った。
ブリオット家は仕事環境を整えているので、交代で休みも取れるし、使用人としてはかなり待遇がいい。
それでもみんな住み込みで、朝から晩まで働いているのだ。
それに引き換え、自分はどうだろう。みんなのように上手くはできなくても、なにか役に立つ方法はないかと、アンジェリカは考えた。
そしてふと、あることを思いつく。
「そうだわ、私……料理をしちゃダメかしら?」
アンジェリカ的には名案だったのだが、それを聞いた使用人たちは固まっていた。
特にフリードリッヒは内心穏やかではなかった。見た目は余裕ある紳士のままだが。
「……アンジェリカ様、今なんと?」
「えぇと、ですから料理を」
「いけません」
フリードリッヒは即座にアンジェリカの案を却下した。
「そんなことをしてアンジェリカ様にもしものことがあったら、アンジェリカ様を任されている私を始め、料理作りに関わった使用人すべての首が飛ぶかもしれません」
「く、首――!?」
物騒な文言に、青い顔をするアンジェリカ。
そんな様子を見ていたルカナとガルシアが、まあまあと仲介に入る。
「バトラー、いくらなんでもそれは言いすぎでは」
「そうですよぉ、そんな脅しみたいなことを言ったら、アンジェリカ様が怖がってしまいます!」
「言いすぎでもなければ脅しでもありません、私は事実を述べているだけです」
モノクルの奥に光る穏やかな目つきが、鋭く吊り上がり、ルカナとガルシアを見据える。
その迫力に、二人は一瞬蛇に睨まれたカエルのようになってしまった。
見た目は断然、ガルシアの方が強そうなのに、さすが使用人最高位のバトラーである。
しかし、彼もやりたくてやっているわけではない。
クラウスから、アンジェリカに危険なことは絶対させるなと命じられているのだ。
フリードリッヒは他の使用人と違って、クラウスのアンジェリカへの想いの長さも深さも知っている。
『僕には好きな女性がいる。だから僕は、必ず立派な公爵になって彼女を迎えに行くんだ』
ここに来たばかりのクラウスが、フリードリッヒに言ったことだ。
十歳とは思えない意思の強い目を、フリードリッヒは今でも鮮明に覚えている。
だからこそ、料理は賛同できなかった。
「アンジェリカ様はもう少し、クラウス様に愛されている自覚を持たれた方がよろしいかと」
フリードリッヒの言葉は、アンジェリカに重くのしかかった。
愛される自覚……肉親に冷遇されてきたアンジェリカには、そもそも愛というものがわからない。
ならばこのまま、クラウスの代弁者である、フリードリッヒに従うべきか。
一瞬、そんな考えが浮かんだアンジェリカに、ふとクラウスの笑顔がよぎる。
そして思い直す。クラウスは心配性なだけで、私の自由を奪いたいわけではないだろうと。
なにを隠そう、アンジェリカに地下室から出る翼を授けたのは、彼なのだから。
「……私がクラウスに愛されているのだとしたら、それを受け取るだけではなく、なにかお返ししたいの。昔から料理に興味があったけれど、実家ではやらせてもらえなかった。だから、なんの教養もなくて本当に恥ずかしいし、今からでもできることを少しでもしたいわ」
アンジェリカはフリードリッヒを通して、クラウスに語りかけるように言った。
フリードリッヒはアンジェリカの境遇も、クラウスから聞かされている。
だから伯爵令嬢らしからぬ発言と遠慮深さは、生い立ちも関係しているのかと思った。
「バ、バトラーぁぁ……アンジェリカ様がここまで言われてるんです、なんとかなりませんかぁ」
「私もルカナと同意見ですぞ、高貴な身でありながら、なんとご立派なお考えではありませんか!」
ルカナとガルシアは、さらに力を込めて訴えるが、フリードリッヒもそう易々とは譲らない。
「家事は他にもございますので、なにも一番危ない料理を選ぶことはないでしょう、花の水やりでもなさってください」
「それではあっという間に終わってしまうわ」
「退屈なら街に出てお買い物でもいたしましょう、宝石商を呼んでもいいですし。アンジェリカ様が快適に過ごすためなら、金に糸目はつけないとクラウス様から承っておりますので」
「新しいドレスも宝石も不要よ、この屋敷にあるだけで十分だもの、第一それじゃあちっともお返しにならないわ」
フリードリッヒが話をすり替えようとしたが、アンジェリカは引っかからない。
そもそも散財するような知性に欠ける女性なら、クラウスは愛したりしないだろう。
平行線を辿る二人に、ついにルカナとガルシアが、フリードリッヒに飛びついた。
「お願いいたしますっ、バトラーからどうか、クラウス様に交渉をっ」
「私からもお願いいたします、このガルシア、アンジェリカ様にお怪我がないよう、細心の注意を払ってお教えいたしますので!」
「おやおや、なにを騒いでるんだい?」
そこで登場したのは、ルカナの母親……スチュワードのヴァネッサだ。
そろそろ朝食が終わる時間なので、食堂の清掃をしようとやって来た。
ヴァネッサに気づいたフリードリッヒは、僅かに困った顔を彼女に向けた。
「スチュワード……実はアンジェリカ様が、料理をしたいとおっしゃって……」
「あらまあ、なんてこと、奥様と同じようなことを言われたのね!」
ヴァネッサはどこか嬉しそうな声を上げて、アンジェリカたちに近づいた。
止める気配のないヴァネッサに、フリードリッヒは嫌な予感がした。
「奥様……って、マリアンヌ様のことですよね?」
「ええ、彼女はここに嫁いできた時、家事をしたいって言い出したのよ。マリアンヌ様は伯爵家の令嬢でしたが、実家では自由にさせてもらえなかったので、結婚したら自分でなにかしたいと考えておいでだったの」
生まれた時からここに住んでいるヴァネッサは、フリードリッヒよりも使用人歴が長い。
フリードリッヒがこの屋敷の執事になったのは、二十五年前なので、現在四十八歳のマリアンヌが来た当時のことは知らなかった。
「マリアンヌ様も……それで、どうなさったの?」
「彼女の場合は旦那様が特に禁止をされなかったので、好きにしていました。使用人からいろんな家事を学んで、裁縫が得意だとわかりましてね、それからはたくさんの衣類を作っておいでだった。衣装部屋にあるドレスも、彼女が仕立てたものがたくさんあるんですよ」
アンジェリカは衣装部屋に並んだドレスを思い出していた。
あんなに素敵な洋服を作ることができるなんて……!
アンジェリカは感嘆し、そして共感していた。
伯爵である実家では自由にさせてもらえなかったことや、自分もなにかやりたいと思うところ。
アンジェリカとマリアンヌには、共通点が多かった。
「そうだったの……ドレスを仕立てるなんてすごいわ、よほどお上手なのね」
「ご興味がおありでしたら、マリアンヌ様が作られたドレスをご紹介いたしますよ!」
「そうね、ぜひ見てみたいわ」
ルカナの提案に、アンジェリカは喜んで頷いた。
「……だけど、それも昔の話ね、彼女が裁縫をしているところを、もうずいぶん見ていませんから」
ヴァネッサは頬に手をあて、ため息混じりに言った。
その暗い表情が、マリアンヌの過去を物語っている。
「……やめて、しまわれたの?」
「ええ……お世継ぎの問題が大きくなるにつれて、彼女はどんどんと気力を失ってゆきましたから。なかなか子に恵まれず、ようやくできたのが女児だったため、一族からも相当冷たくされたようです。若かりし頃の彼女は精神を病み、旦那様に強くあたるようになりました。旦那様が外に癒しを求めても、仕方がないと思ってしまえるほどに……」
当時を振り返りながら話すヴァネッサは、まるで旧友を思うかのようだった。
「ヴァネッサはマリアンヌ様について、ずいぶん詳しいのね」
「あたくしはマリアンヌ様の侍女でございましたので、彼女が十八で嫁いできた時から、スチュワードになるまで、ずっとそばでお仕えしておりました。たまたま歳が同じだったこともあり、友人のように接してくださったのですよ」
笑って答えるヴァネッサに、アンジェリカはなるほどと納得した。
嫁ぎ先で初めてついた同い年の侍女。
まるでアンジェリカとルカナのようだ。
ルカナに親近感を覚えたアンジェリカは、ヴァネッサと親しくなったマリアンヌの気持ちがよくわかった。
アンジェリカの相手は昔馴染みのクラウスだったが、マリアンヌはよく知らない相手との結婚だったため、さらに不安が大きかっただろう。
そんな時、いつもそばにいてくれる同い年の同性がいれば、心細さも紛れるというものだ。
ヴァネッサは屋敷に来たばかりの、若かりしマリアンヌを思い出していた。
精力的に裁縫をしていた、エネルギッシュな美しさに溢れていた彼女を。
だからヴァネッサは、アンジェリカの言葉が嬉しく、かつてのマリアンヌと重ねさえした。
「そんな彼女が、あのように塞ぎ込んだまま年老いてゆくのは、少し寂しさを感じます……」
ヴァネッサは呟くように言うと、フリードリッヒに向き直った。
「アンジェリカ様がお料理をされたら、奥様にとってもよい刺激になるかもしれません、バトラー、いかがでしょうか、あたくしもできる限りサポートいたしますので」
ニッコリと微笑みながら進言するヴァネッサに、フリードリッヒは頭痛のする思いがした。
フリードリッヒの方が位は高いが、一流のスチュワードであるヴァネッサを無下にはできない。
メイドを上手く取り仕切ってくれなければ、屋敷が回らなくなってしまうからだ。
シェフであるガルシアにも同じようなことが言えるが、屋敷勤めの長いヴァネッサの方が、使用人と親しく言葉に力がある。
なにより母でもある女性の管理者は、貫禄がすごかった。
――次期当主様……力及ばず申し訳ありません。
心の中でクラウスに謝罪しながら、フリードリッヒは深いため息をついた。
「……わかりました」
「えっ!?」
「私だけで判断できることではありませんので、クラウス様に聞いてみることにしましょう」
自分だけで事を収めることができなかったため、フリードリッヒは一旦アンジェリカの希望を引き取ることにした。
が、ここでまたヴァネッサが口を挟む。
「いや、坊ちゃんに聞く必要はありませんよ、ここは一つ、あたくしにお任せくださいな、こういう時は女同士でないと……アンジェリカ様、ちょっと耳をお貸しください」
ヴァネッサに誘われるがまま、耳を貸すアンジェリカ。
ヴァネッサはふくよかな身体を寄せ、少し背を屈めてアンジェリカにヒソヒソ話をする。
その内容に、アンジェリカは頷きながら、困ったように頬を染めた。
「ちょ、ちょっと、マ……スチュワード、ずるいですよっ、ルカナも聞きたいです!」
「仕方ないねぇ、だからあれをこうして……」
「ふんふん、な、なるほどぉぉ……!」
ルカナも参加し、寄せ集まった女三人の秘密の会議が行われる。
それを遠巻きに眺めるフリードリッヒとガルシア。
女子の内緒話に入れない男子は、すっかり蚊帳の外である。
「気になりすぎるぞ、私にも教えてくれ!」
「うるさいね、男は黙っときな」
ヴァネッサのドスの効いた声に、震え上がるガルシア。傭兵のような外見からは想像できない、繊細な心の持ち主である。
やがて解放されたアンジェリカは、やはりほんのり赤い顔をしている。
「一体なにを言ったんです、余計なことを吹き込むのは」
「余計かどうかは坊ちゃんがお決めになること、後は若い二人に任せましょう、年寄りが首を突っ込むのは野暮というものですからね」
余裕たっぷりに笑ってみせるヴァネッサに、やれやれといった表情のフリードリッヒ。
しかし、改めてアンジェリカを見てみると、悪くない気もしてきた。
頬を染めてもじもじする姿は、まるで恋する乙女のようだ。それがクラウスに対する反応なら、アンジェリカも彼を意識しているのがわかる。
クラウスの恋を応援しているフリードリッヒは、アンジェリカの反応をよい兆しと見て、止めるのをやめた。
そもそもクラウスの指示は、アンジェリカの幸せを願ってのことだ。
ならば、彼女の意思を尊重することも大切だろう、という結論に至った。
「フリードリッヒ、いろいろ考えてくれてありがとう、クラウスには私から話してみるわ」
アンジェリカはちゃんと、フリードリッヒの言動が気遣いから来るものだとわかっている。
そこまで理解して、感謝の意まで述べられては、フリードリッヒもお手上げといったところだ。
昔、フリードリッヒは、クラウスに好きな女性がどんな人か尋ねたことがあった。
『優しくて賢い、心も見目も美しいお方だ』
そう言いきった、幼き頃のクラウスを思い出す。
ああ、その通りでございますねと、フリードリッヒは胸の内で呟き、クスッと笑みを漏らした。




