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第一章、囚われの令嬢

「うぅん……」

 狭いベッドの上で身を捩り、徐々に瞼を持ち上げる。

 アンジェリカの瞳に映るのは、あの頃と変わらない、薄暗く煤けた地下室。

 ――懐かしい夢を見たわ……。

 アンジェリカはそう思いながら、上体を起こして瞼を擦った。

 あれからどれほどの時が流れたのだろう。

 誕生日を祝われることもなく、カレンダーもないこの部屋では、時の流れを把握することは難しい。

 クラウスがいた頃は、彼が今日の日付を毎日教えてくれた。

 しかし、そのクラウスはもう、ここにはいない。

 ――元気にしているかしら、クラウス……。

 ずいぶん前に去ってしまった使用人に思いを馳せながら、アンジェリカは無機質な壁を見た。

 そこには万年筆で書かれた、短い線のような印が並んでいる。

 途中からインクではなく傷に変わっているのは、万年筆のインクを取り替えてくれる者がいなかったからだ。

 クラウスがいなくなってからというもの、アンジェリカの暮らしはさらにひどいものになった。

 クラウスが去ってから、一日二日と、しばらくは日にちを数えていたが、それもいつしか途絶えた。

 ささやかな喜びさえ奪われたアンジェリカは、ただ心臓が動いているだけの、生きた屍のようになっていた。

 だから気づかなかったのだ、まさかこの地下生活が、十年になろうとは――。

 今日もなにもできることがない。アンジェリカはベッドに座り、壁にもたれてぼんやりとする。

 時計がなく、外の様子も見えないため、今何時なのかもわからない。

 しばらく食べ物も口にしていない気がする。

 まずは主の家族が食べ、その残りを使用人たちが食べる、さらに残ったものが、アンジェリカの食事だ。

 今までは少なくても分け前があり、食事が運ばれてくる時間で、朝晩の区別がついていた。

 ついにそれすらなくなったのかと、アンジェリカはどこか遠くを眺めながら思う。

 そんな彼女に、ドアをコンコンとノックする音が届いた。

「……はい」

 アンジェリカの返事とほぼ同時にドアが開くと、黒いスーツ姿の執事が顔を出した。

「ご家族がお呼びです」

 驚いたアンジェリカは、穏やかな目を徐々に見開いた。

「皆様が大広間でお待ちです、お越しください」

 上の階に上がるなんて、一体いつぶりだろう。しかも、家族の方から誘われてなんて。

 アンジェリカは戸惑いながらも、ベッドから降りてヒールの靴を履く。

 その時、自分がネグリジェ姿だったことに気がついた。

「あの……服を着替えさせてもらえない? 久しぶりに家族に会うのだから」

「……皆様がお待ちです」

 二十代くらいの執事は、ギロリとアンジェリカを睨んで言った。

 どうやら着替える猶予はないらしい。

 アンジェリカはため息をつくと、仕方なくそのまま部屋を出ることにした。

 高いヒールで階段を上ると、アンジェリカは足を捻りそうになった。

 長い間、外出もしていなければ、ろくに歩行もしていない。

 そのせいで、足が鉛のように重く、思うように動かなかった。

 それでもアンジェリカは『家族』と言った。自分を閉じ込めた者たちを。

 長い階段が終わると、執事はアンジェリカを連れ、大広間に向かった。

 パーティーなどに使われる、広く豪華な空間には、立派な絨毯と革張りのソファーが置いてある。

 その前に立った三人は、足音に気づくと、一同に振り向いた。

 執事が横にはけると、アンジェリカが三人と対面する形になる。

 本来家族であるはずの四人だが、こうして揃って顔を合わせるのは、子供の頃以来だった。

「……お久しぶりね、アンジェリカお姉様」

 最初に話しかけたのは、手前に立っていたミレイユ・ドーリー。フランチェスカ伯爵家の次女であり、アンジェリカの二つ年下の妹である。

 流れるような黄金の髪と、エメラルドのような瞳を持つ美女は、ビリジアンのドレスを着ている。

 彼女はアンジェリカを眺めると、少ししてプッと吹き出した。

「こんなお顔をしていらしたかしら? ずいぶんお会いしていなかったから、忘れてしまいましたわ」

「相変わらず悪いところだけ取ったかのような見目をして……」

 クスクス笑うミレイユの後ろで怪訝な顔をするのは、アマンダ・ドーリー。フランチェスカ伯爵夫人である。

 金色の長い髪を後ろに纏めた、茶色い瞳の婦人は、イエローゴールドのドレスを着ている。

「大したものをやっていないのに、背が伸びて忌々しい奴め」

 そう言ったのは、アマンダの後ろ、一番奥に立っていた、ユリウス・ドーリー・フランチェスカ伯爵だ。

 白っぽい貴族服に身を包んだ彼は、赤茶色の短い髪に、エメラルドのような瞳をしている。

 アンジェリカの髪は父親、瞳は母親似。対するミレイユの髪は母親、瞳は父親似だった。

 アマンダは自身の金髪を気に入っているが、茶色の瞳を嫌っている。そしてユリウスは自身のエメラルドのような瞳を気に入っているが、赤茶色の髪は嫌っている。

 夫妻は自身の気に入った部分を受け継いだミレイユを、天使のように美しいと言い、溺愛していた。

 そして自身の嫌いな部分を受け継いだアンジェリカを、醜いと疎み、遠ざけていたのだ。

 アンジェリカは三人の反応を、黙って見ていることしかできなかった。

 本当は挨拶しようと思っていたが、とても自由な発言を許される雰囲気ではなかったからだ。

 上の階に誘ってくれたのだから、もしかしたら今までのことを謝って、家族仲良く暮らそうとか、そういう展開もあるのではないかと、アンジェリカは淡い期待を抱いていた。

 しかし、いざ会ってみると、そんな好意的な雰囲気は一切感じられなかった。

 苦々しい顔つきのアマンダとユリウスに、妙ににこやかなミレイユ。

 和解でないのなら、一体なんのために呼ばれたのだろう。

 アンジェリカは困惑して、身体を固くしていた。

 グレーのネグリジェに、金色のハイヒール姿という、珍妙な格好のアンジェリカ。

 しかし、そこに触れる者は誰もいない。

 アンジェリカの装いに興味がないというのもあるが、今はそんなことよりも大事なことがある。

 アンジェリカが『女』であるということ、それだけでよかったのだ。

「よかったですわね、アンジェリカお姉様」

「……?」

「地下室とはおさらば、これからは地上で暮らすんですわよ」

 ミレイユはニッコリ微笑むと、首を傾げるアンジェリカに言った。

 アンジェリカは少しキョトンしていたが、次第に目の前が明るくなるのを感じた。

 地下室とおさらば。

 これからは地上で暮らす。

 ミレイユの言葉を思い返したアンジェリカは、徐々に破顔し、瞳に光を取り戻しかけた。

 やっぱり、和解のために呼ばれたんだ。

 これからはみんな一緒に、仲良く暮らせる。

 アンジェリカは本当にそんな明日を夢見たのだ。

 次のミレイユの言葉を聞くまでは。

「実は、家が破綻したの」

 アンジェリカの希望にふっと暗い影が落ちた。

「ねぇ、お父様?」

「ああ、いつの間にか支出が収入を上回っていたのだ、これ以上農民から税を取っても、大した足しにはならんし、どうしようもない」

「なんてこと、私たちはただ静かに暮らしているだけですのに、収入が少なすぎたのですわ」

「その通りだミレイユ、我々はただ、貴族に相応しい生活をしていただけだというのに」

 困惑するアンジェリカをよそに、どんどん話を進めていくミレイユとユリウス。

 貴族の財源は、王から与えられた土地で収穫されたもの、農民からの税に、絹や綿などの素材品。加えて、位に添った金貨も給付される。

 平民とは天と地ほどの違いがあり、決して収入が低いわけではない。

 それでも破綻したのは、金遣いが荒いということだ。

 主のユリウスはプライドが高く見栄っ張りで、ろくに領地の経営もせず社交三昧。

 アマンダとミレイユは毎日のように宝石商を呼んだり、街に買い物に出たり、高価なドレスや宝飾品を買い漁っていた。

 特にミレイユは一度着た服は二度と着ないと言い、新品同様のドレスを捨てる。

 だからアンジェリカのところに回ってきた衣類は、ミレイユの廃棄品とはいえ、とても綺麗な状態だった。

「ねぇ、お姉様も、家が破綻だなんて、心穏やかではないでしょう?」

 突然話を振られたアンジェリカは、ビクッと顔を上げ、目を泳がせる。

「……あ……そ、そう、ね……」

 展開が読めないアンジェリカは、言いようのない不安を感じた。

 そしてその嫌な予感は、現実のものとなる。

「でも大丈夫ですわ、馴染みの宝石商から、いい話を聞いたんですの」

「いい、話……?」

「ええ……娼館で働けばいいって」

 アンジェリカはなにを言われたか、わからなかった。

 言葉は聞き取れたが、意味を知らない。

「……ショウ、カン……?」

「あら嫌だ、お姉様ったらご存知ないの? ずっと地下室に住んでいたから、世間知らずなんですのね」

 ミレイユはあきれた顔で言った後、目を三日月型に細め、赤い唇の口角を上げた。

「ならば娼婦と言えばおわかりかしら、身体を売る……とまで、言わせないでいただきたかったわ」

 アンジェリカの頭が白くなる。

 娼婦と言われてわかった。

 以前、アンジェリカが読んだ本に、娼婦が出てきたことがあったからだ。

 そして察する。理解するより先に本能で。

 なぜ今、このタイミングで、自分がここに連れてこられたのか。

「アマンダは既婚の上、年配だ。かといってミレイユを差し出すわけにはいかん。ミレイユほどの美しさがあれば、公爵など上の爵位家から結婚の申し込みが来るかもしれん。となれば……行けるのはお前しかいないのだよ、アンジェリカ」

 ユリウスの言葉に、アンジェリカの僅かな希望は、瞬く間にして消え失せた。

 実の父が娘に身売りをしろと言っている。それもいとも容易く、冷淡に。

 アンジェリカは目の前で起きていることが信じられなかった。

 いや、信じたくなかった。

 まだ男性と口付けしたこともないのに、娼館に行くなんて……。

 アンジェリカは俯いて、ネグリジェの布を両手で握りしめた。

「……な、にか、他の、方法、は……」

 アンジェリカは消え入りそうな声を絞り出した。

 しかし、彼女の訴えが届くはずもなく、機嫌を損ねたユリウスは、こめかみに青筋を立てた。

「なんだ、まさかお前、この私に他の貴族の連中に、頭を下げて金を借りてこいとでも言う気か!?」

「……い、いえ、いえ、そんな、そんな……」

 アンジェリカは真っ青な顔で、ブンブン首を横に振った。

「お姉様が娼館に行ってくだされば、借金は返せるわ、伯爵の娘というだけで相当な値打ちがあるそうよ、見た目がどれほどパッとしなくても……」

 震えるアンジェリカに、ゆっくりと近づくミレイユ。その顔は実に愉快そうだった。

「もちろん受けてくださいますわよね、お姉様? もし無理だと言うのなら……今すぐ豚の餌にでもして差し上げましょうか?」

 ――プツン。

 まるで火が消えるように、アンジェリカの中でなにかが終わった。

 最初からこの人たちは、私の話を聞くつもりなんてない。

 だからなにを言っても無駄なんだと、すべてをあきらめた。

「…………わかり……ました…………」

「まぁ、ありがとう、お姉様っ、さすがだわ、いざという時は頼りになりますわね」

 悪魔のような表情から一転、天使のような笑顔になったミレイユは、アンジェリカの手を握ってわざとらしく喜んでみせた。

「厄介者でも少し役立つ時が来たんだ、もう少し嬉しそうな顔をしたらどうなんだ」

「まったくだわ、あなたの辛気臭い顔を見ていると、こっちまで暗くなってくるわよ」

 苦々しい顔でアンジェリカを叱咤するユリウスとアマンダ。

 アンジェリカはもう、顔を上げることはなかった。

 三人は言いたいことだけ言うと、アンジェリカを置いてさっさと去っていく。

 通りすがりの使用人さえ、アンジェリカを気遣うことはしない。

 大広間にポツンと残されたアンジェリカは、やがてふらふらと歩き始めた。

 地上に出ることを許されても、アンジェリカの居場所はない。

 部屋もないため、結局、地下室に戻るしかないのだ。

 アンジェリカが地下室に住むようになったきっかけは、ミレイユの一言だった。

『そんなにお一人がお好きなら、お姉様用のお部屋を地下室にでも作って差し上げたらいかがかしら』

 当時八歳だったミレイユの、無邪気で残酷な提案だった。

 それを名案だと頷いた両親が、本当に地下室を作り、アンジェリカ専用の部屋とした。

 アンジェリカはなにも、一人でいるのが好きなわけではない。

 両親に疎まれ、妹にバカにされ、客人の前でも笑い者にされる。

 そんな扱いを受ければ、誰だって人前から足が遠のくだろう。

 それをまるで、アンジェリカが好きで一人になったかのように言っている。

 確かに、地下室には鍵がかかっているわけでもなければ、アンジェリカが枷に繋がれているわけでもない。

 しかし、みんなの前に居場所がなかったアンジェリカは、次第に地下室へ向かうようになる。

 そうして気づけば、地下室に籠るようになった。

 心ない者たちからの、見えない手に押し込められ、アンジェリカは軟禁生活を余儀なくされたのだ。

 来た道を戻ったアンジェリカは、地下室のベッド前で崩れ落ちた。

 彼女の瞳から溢れた涙が、ポタリ、ポタリと、冷たい床を濡らした。

 いつか、私にも王子様が――。

 そんな不確かなものに縋っていたアンジェリカは、もはや夢を見ることすら、許されなくなった。

「クラウス……私には、王子様は、いなかったみたい――」

 アンジェリカは懐かしい従者の名を呟くと、両手で顔を覆い、震えながら咽び泣いた。


 それから二週間ほど経ったある日、再びアンジェリカは執事に呼ばれ、上の階に上がった。

 案内されたのは三階建ての最上階、角にあたる広く煌びやかな部屋。

 しかし今のアンジェリカの目には、どんな豪華な飾りも色を失くして見えた。

 ここはミレイユの部屋。血を分けた姉妹だというのに、信じられないほどの格差だった。

 部屋に入るなりメイドに着替えさせられたアンジェリカは、次にドレッサーの椅子に座らされた。

 そして化粧を施し始めたのは、専用の使用人ではなく、この部屋の主だった。

 アンジェリカはただ黙って、ミレイユに好きにされている。

 しばらくして手を止めたミレイユは、丸めていた背筋を伸ばすと、少し離れてアンジェリカの全容を見た。

「あら、とても素敵になりましたわよ、お姉様……」

 途中で言葉を切ったミレイユは、ぷっ、くくっと、堪えられないといった様子で笑い始めた。

「よくお似合いですわ、いかにも下品な娼婦といった感じで」

 アンジェリカがゆっくりと横を見ると、ドレッサーの鏡に映った姿が明らかになる。

 濃いピンクのドレスに、真っ赤な口紅とチーク、紫のアイシャドウ。口紅は唇からはみ出しており、チークもアイシャドウも妙に濃い。ミレイユがわざと無茶苦茶な化粧をしたのだ、アンジェリカを笑い者にするために。

 そして実際、この部屋にいたメイドは、みんなクスクスと笑っていた。

 無表情のアンジェリカだけが、切り離された世界にいるようだった。

「これで準備は万全だわ、がんばってくださいませね、お姉様……殿方の機嫌を取って、たくさん腰を振るのですわよ、あぁ、穢らわしい、私にはとってもできませんわぁ」

 アンジェリカの瞳が揺れ、ドレスに置いた両手が震える。

 その反応に気をよくしたミレイユは、さらに追撃を加える。

「ああ、そうだわ、お姉様には言っておかないと、実は私……アズール男爵家の当主と結婚が決まったんですの」

 アンジェリカの目が、少しずつ大きく開かれてゆく。

「以前お会いした時から私のことが忘れられなかったそうで、彼がどうしてもというものだから……男爵は伯爵よりも下の爵位になるけれど、娼館に嫁ぐよりもずっといいものね」

 ふふふ、と勝ち誇った笑みを浮かべるミレイユを、アンジェリカは座ったまま見上げていた。

 確かに、ミレイユは見目麗しい。生まれた時から天使のようで、そんな妹を、アンジェリカも自慢に思っていた時期があった。

 大人になり、正面から妹を見たアンジェリカは、改めて彼女の美貌を思い知っていた。

 だから仕方ないと思った。

 自分に現れなかった王子様が、妹には現れても。

「……お……おめでとう、ミレイユ」

 アンジェリカは自身の感情を押し殺し、精一杯の笑顔を作って声を絞り出した。

 妹の幸せを祝うのは、姉として当然のことだと思ったからだ。

 しかし、ミレイユは喜ばなかった。

 それどころか、先ほどまでの笑みを消し、手を上げたのだ。

 ――バシッ!

 瞬間、アンジェリカは身体のバランスを崩し、椅子から床に落ちた。

 なにが起きたかわからなかったアンジェリカだったが、左頬の鈍い痛みに、ミレイユにぶたれたのだと気づいた。

「なにがおめでとうよ、あんたのそういういい子ぶったところが、私は昔から大っ嫌いなのよ! いいこと、娼館に行っても私たちのことは一切話さないで、妹がいるだなんて、間違っても言わないでよ!」

 ミレイユの怒声は廊下にも響き渡った。

 それにつられるようにドアが開くと、ユリウスとアマンダが中に入ってきた。

 ちょうどそばまで来ていて、会話の内容が聞こえたようだ。

「そうだな、娼婦の身内がいるなどと知れたら、社交界から追放されてしまうかもしれん」

「あなたがうちの借金を払い終えたら、いずれ縁切りいたしましょうね、それがフランチェスカ家のためなのだから」

 さらに追い討ちをかけられたアンジェリカは、床に蹲ったまま、ぶたれた左頬に手をあて涙ぐむ。

「軽くぶっただけで大袈裟なこと、そんなもの冷やせばすぐに治るわ」

「化粧が崩れたようね、早く整えてやりなさい、迎えの馬車が来る前にね」

「そうだな、こんな地味な顔、厚化粧でもしなければ売り物にならん」

 アマンダに指示されたメイドは、頭を下げて行動に移る。

 メイドに無理やり立たされたアンジェリカは、再び椅子に座らされ、すべての化粧を落とされた。

 そして一人のメイドが、頬を冷やす氷を持ってこようと、ドアに向かった時だった。

 カッカッカッ……と、忙しなく近づいてくる足音が聞こえる。

 それがミレイユの部屋に着くなり、勢いよくドアが開かれた。

「あ、ああ、あのっ……ユ、ユリウス、様……そのっ……!」

 廊下から姿を現した執事は、ユリウスの顔を見ると、ひどく狼狽した様子で声を荒げた。

「なんだ、騒がしい」

「それが、とっ、とんでもない事態でございましてっ」

「一体なんだと言うの」

 ユリウスとアマンダが怪訝な顔をする中、執事は必死に息を整えた。

「……ブリオット公爵家の、使用人の方がお見えでございまして」

 その言葉に、アンジェリカ以外の皆が反応を示す。

 当然だ、公爵というのは、貴族階級のトップに君臨する爵位なのだから。

「なに? ブリオット?」

「公爵家の使用人が、なぜうちに?」

「それが…………ブリオットの次期公爵に、フランチェスカ伯爵の、ご令嬢をいただきたいと」

 執事の台詞は、フランチェスカ家に旋風を巻き起こした。

 ユリウスもアマンダもミレイユも、使用人たちも皆、一瞬息を止めた。

 やがて時が動き出すように、室内に歓喜が溢れ始める。

「すごいじゃないか、ブリオット公爵家といえば、名門の名門だ!」

「さすがミレイユ、私たちの可愛い娘!」

「どうしましょう、私ったら、アズール男爵からも求婚されていますのに」

「そんなもんはなんとでもしてやる! 男爵なんぞ公爵とは比べ物にならん!」

「そうよミレイユ、まだ婚姻していないのだからどうにでもなるわ、あなたは安心して、公爵家に嫁ぎなさい」

「はい、ありがとうございます、お父様、お母様」

 褒め称える両親に、夢見心地のミレイユ。

 しかし、ミレイユが相手なら、ここまで執事は狼狽えないだろう。

「あの、それが、違うのです!」

「なんだ、せっかくの祝いの場に、水を差す気ならクビにするぞ」

 そう言ってユリウスが執事を睨んだ時、なにやら廊下が騒がしいことに気づく。

「あのっ、困りますっ、勝手にうろうろされては!」

「お待ちください!」

 執事やらメイドやら、いろんな使用人たちの戸惑う声が飛び交う。

 やがて革靴の音が鳴り止むと、ミレイユの部屋の前にある人物が現れた。

 長い黒髪をローテールにし、左目にモノクル――片眼鏡をかけた長身の男性。

 彼は襟にフリルがついた白いブラウスに、黒の上着とズボンを身につけていた。

 フランチェスカ家より上等な仕立ての執事服に、公爵家の裕福さを感じたミレイユは、目を輝かせて声がかかるのを待った。

 対する彼は、開け放されたドアの前に立ったまま、広い室内を見渡している。

 そして左側――ドレッサーのそばにある椅子に座った人物に目を留めた。

 彼は部屋に踏み込むと、一直線にアンジェリカに向かう。

 ドアに背を向けて座っていたアンジェリカは、気配が近づいてくるのを感じると、後ろを振り返った。

 すぐそばで視線が合った執事は、アンジェリカの前で足を止めて跪く。

 その様子にアンジェリカはギョッとし、他の者たちは首を傾げた。

「緩やかなウェーブの赤茶色の髪、トパーズのようなブラウンの瞳、優しげな顔つき……あなたが、アンジェリカ様でございますね?」

 低い位置から見上げてくる彼に、アンジェリカは戸惑い瞬きを繰り返す。

「……はい……そうですが……」

「お会いできて光栄です、さあ、参りましょう」

 そう言って手を差し伸べる彼に、アンジェリカは頭に疑問符を浮かべ首を捻る。

 そんなやり取りを少し離れた場所で見ていたミレイユは、待つことをやめて自ら進み出た。

「一体、どういうことですの? ブリオットの次期公爵は、私と結婚なさるのでしょう? お姉様を連れていく必要なんて――」

 ミレイユの台詞に、アンジェリカの前に跪いていた彼は、立ち上がって振り向いた。

 モノクルの縁と同じ、金色の瞳がミレイユを射抜く。

「なにか勘違いされているようですが――ブリオット公爵夫人になられるのは、姉のアンジェリカ様の方ですよ、妹のあなたではありません」

 彼の放った言葉により、祝福ムードは一変した。

 どよめく使用人たちに、青い顔を見合わせるユリウスとアマンダ。

 しかし一番ショックを受けているのはミレイユだ。あまりの衝撃に、茫然と立ち尽くしている。

 そして指名された当人であるアンジェリカは、頭がついていかず、目を見開いたまま固まっていた。

「なにかの間違いでは? 姉のアンジェリカは引きこもりがちで、社交界デビューすらしていない、見そめるような機会もなかったかと」

「いいえ、間違いありません、ブリオット次期公爵のおっしゃることは絶対です」

 金色の瞳の執事は、ユリウスの進言をキッパリと退けた。

 ブリオット次期公爵が、アンジェリカを欲しがっている。理由はわからないが、それが事実であるのは確かなようだ。

 その現実を受け止めたユリウスは、それならそれで利用しない手はないと考え始めた。

「そ、それならいいんだが……よかったな、お前が公爵夫人などと、夢のような話ではないか、お受けしなさい」

「そうね、気が変わられないうちに話を進めましょう、公爵家と縁ができるだなんて、私も鼻が高いわ」

 あっけに取られたアンジェリカに、ユリウスとアマンダは仕方なく声をかけた。

 しかし、アンジェリカはまだ返事をすることができない。

 一度にいろんなことが起きて、上手く口が開かなかった。

「ところでアンジェリカ様……その頬はいかがされたのですか? 白い肌が赤くなっております」

 執事の指摘に、ミレイユを始め、事情を知る者すべてがビクッとした。

 アンジェリカもみんなの反応に気づいたが、事を荒立てたくないと思い、誤魔化すことにした。

「あ……これは……ちょっと転んで、ぶつけたんです」

「さようでございますか、私はてっきり、この中の誰かに、ぶたれでもしたのかと……」

 彼はそう言いながら、ミレイユ、ユリウス、アマンダと順に、視線を滑らせた。

 青い顔で俯くユリウスとアマンダに、未だ棒立ちしたままのミレイユ。

 執事はモノクルの位置を指先で整えると、小さく微笑んだ。

「まあ、よいでしょう、このような暮らしもここまで……今後アンジェリカ様に危害が及ぶようなことがあれば、ブリオット次期公爵が黙ってはいませんので」

 優しい口調で脅した後、執事は姿勢を低くし、再びアンジェリカに右手を差し出した。

「さあ、参りましょう、アンジェリカ様……次期当主様がお待ちかねです」

 公爵家か娼館、どちらに行くべきか。そんなこと、考えるまでもないだろう。

 アンジェリカは困惑しながらも、右手をゆっくりと持ち上げ、差し出された手を取った。

 そして立ち上がると、執事にエスコートされ、出口に向かう。

「待たれよ、娘を嫁がせるのなら、我々も家族として挨拶をせねば」

 焦って声をかけたユリウスに、執事は一旦立ち止まると、顔だけを向けた。

「式の手配はこちらで行いますし、嫁入り道具もご用意させていただきますので、フランチェスカ伯爵にしていただくことは一切ございません。なにかありましたらこちらから連絡させていただきますので、どうぞ当家のことはお気になさらず……では」

 執事は淡々と述べると、アンジェリカとともに部屋を出ていった。


 二人が立ち去った後、しんと静まり返る室内。

 使用人たちは気まずそうな顔をして、そそくさと部屋を後にする。

 そうして、ミレイユの部屋には、家族だけが残された。

「……なんなのよ、あれは……」

 ポツリ、ミレイユの口から微かな声が漏れた。

 彼女のそばに立ったユリウスは、腕を組んで渋い顔をする。

「なぜアンジェリカなのか、さっぱりわからん」

「そういえば昔、ブリオット公爵の紹介で、使用人を雇ったことがあったわね、友人の子供だとか……」

 ふと思い出したアマンダが言った。

 その友人の子供――と言われていた人物が、彼だとも知らずに。

「そんなこともあったな、くだらん慈善事業だと思ったが、あれほど金貨を積まれれば断る必要はあるまい」

「あなたが一番に手を上げたものだから、しばらくうちで面倒を見ていたわね、数年で迎えが来て出ていったけれど」

「……うるさいわね、そんな話どうでもいいでしょ!」

 過去の使用人の話をする両親に、カッとなったミレイユが大きな声を上げた。

 ひどく苛立った娘に、ユリウスとアマンダは顔を合わせて苦笑いをする。

「確か、ブリオット家の次期当主は、現公爵……サウロスの妾の子だと聞いたわ」

「身分の低い人間に情をかけるくらいなのだ、ブリオット公爵は相当な変わり者なのだろう、だから息子もおかしいのだ、アンジェリカを妻にするなど……」

 二人はプライドの高い次女を宥めるように言った。

 しかし、ミレイユの怒りがそんなことで収まるはずがない。

 エメラルド色の目を鋭くした彼女は、必死に頭を回転させて考える。

 どうにかして、姉を出し抜ける方法はないかと。

「……お父様、うんと豪華なドレスを用意して、お金はアズールに工面してもらうから」

 冴えない姉が公爵夫人で、美しい自分が男爵夫人なんて……そんなことは、あり得ない。

 ミレイユにとって、アンジェリカよりも格下になるのは、耐え難い屈辱だった。

「なにも公爵はブリオットだけではないもの、お姉様が式を挙げるより先に、私の方が幸せになってみせるわ……!」

 私より幸せになるなんて、絶対に許さないから――!

 ミレイユはアンジェリカへの憎しみに燃えていた。

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