プロローグ
暖かな陽射しに恵まれた四月のナタリア王国、王族と貴族が存在するその国のとある一角――。
立派な門構えと、青々と広がる芝生の先には、モスグリーンの三角屋根をした、三階建ての白い館があった。
豪華な料理を前に、ダンスをしたり会話を弾ませたりと、優雅にパーティーを楽しむ紳士と婦人たち。
しかしそんな煌びやかな世界は、地下室に住む彼女には無縁だった。
粗末なベッドに、破れたソファー、傷ついたテーブル。使い古しの絨毯のそばには、この部屋唯一の明かりである、ランタンが置いてある。
緩やかなウェーブの赤茶色のロングヘアーに、トパーズのようなオレンジがかったブラウンの瞳。
妹がいらなくなったドレスを身につけ、欠けたハイヒールを履いた、一人の少女。
フランチェスカ伯爵家の長女、アンジェリカ・ドーリーである。
彼女はソファーに腰掛けながら、左手に本を、右手に陶器のティーカップを持っている。
アンジェリカは本を読み終えると、残りの紅茶を飲み干し、前のテーブルにあるソーサーに置いた。
そしてパタンと分厚い本を閉じると、ふぅ、と満足げな息を漏らした。
苦難を乗り越えた末、姫と王子が結ばれる、そんな王道のラブストーリーだった。
いつか私にも王子様が……。
物語の姫を自分に置き換えて、夢に縋るアンジェリカの元に、コツコツと小さな足音が近づいてくる。
するとアンジェリカは、期待に胸を膨らませながら、ダークグレーのドアを眺めて待機した。
足音だけで誰だかわかる。いや、そもそもアンジェリカの部屋に来るのは、一人しかいないのだから。
やがてドアがコンコンとノックされると、まだ幼さの残る声が聞こえる。
「アンジェリカお嬢様、クラウスでございます」
「どうぞ、入って」
アンジェリカが返事をすると、すぐにドアが開く。そして中に入ってきたのは、妖精のような容貌をした少年だった。
アクアマリンのような瞳に、さらりとした白銀色の髪、抜けるような肌をした彼は、両手いっぱいに本を抱えている。
彼の名前はクラウス・バートン。フランチェスカ伯爵家に仕える使用人であり、アンジェリカ専属の執事のようになっている。
彼は子供でありながら、きちんと黒いタキシードのような使用人服を着ていた。
アンジェリカはクラウスを見ると、すぐに笑顔になる。
「ありがとう、クラウス、今日もたくさん本を持ってきてくれて」
「とんでもございません、ご趣味に合えばよろしいのですが」
「大丈夫よ、クラウスが選んだ本はいつも面白いもの」
クラウスがテーブルの上に置いた本を、早速手に取るアンジェリカ。
次はどれを読もうかと、表紙を取っ替え引っ替え見比べている。
その間にクラウスはランタンの明かりを確認する。
昼間でも外の明るさが届かない地下室では、このランタンの光が重要だ。
だからクラウスは時折様子を見に来て、油が切れかけていると、急いで交換する。
アンジェリカより幾分か小柄なクラウスは、彼女より二つ年下の八歳だ。
しかし八歳とは思えないほど、よく気がつき、仕事のできる少年だった。
ランタンの油が十分なことを確認すると、クラウスはベッドに置かれた本を回収する。
アンジェリカが読み終えた本をベッドに置くので、それを片付けてはまた、新しい本を持ってくるの繰り返しだ。
アンジェリカは日中、上の階に行くことはなく、夜になると書庫の鍵は閉められてしまう。
そのため、クラウスがアンジェリカに代わって、本を運んでいるのだ。
クラウスの本の見たてがよく、アンジェリカはいつも、この時を楽しみにしていた。
「よい本はございましたか?」
「ええ、その……赤い本が一番気に入ったわ」
アンジェリカに言われ、クラウスが手にした赤い本を見ると、題名や表紙からして、恋物語だとわかった。
「アンジェリカお嬢様は、やはり恋愛の物語がお好きなのですね」
「そうね……私もいつかは、王子様が、なんて……少し夢を見られるから」
長いまつ毛を伏せて言うアンジェリカを、クラウスはしばらく黙って見つめ、そして口を開いた。
「……夢ではありません、アンジェリカお嬢様なら、いつか必ず、王子様が迎えに来てくださいます」
アンジェリカは、クラウスの真っ直ぐな瞳と言葉に、少し悲しげな笑みを浮かべた。
「ありがとう、クラウス……ねえ、私をアンって呼んでくださらない?」
「え、しかし……」
「もっと小さな頃は、父も母もアンと呼んでくれたの……だけどもう誰も呼んでくれなくて、寂しいのよ」
クラウスは困惑した後、少し照れたように目を逸らした。
「……で、では、アンお嬢様で」
「ふふ、それでもいいわ、ありがとう」
「……お礼を言うのは、僕の方です」
「え? なにか言った?」
「……いいえ、なにも」
クラウスは三冊の本を片手に、そしてもう片方の手で、ソーサーごとティーカップを持った。
「もう一杯、お淹れいたしましょうか?」
「今日はもういいわ、あまり私に持ってくると、クラウスが叱られてしまうでしょう」
「かまいません、注いでまいります」
使用人たちは、この家の主から、アンジェリカには上等なものをやるなと言われている。
それを破ってまで尽くしてくれるのは、クラウス一人だけだった。
こんなふうに真っ直ぐに、アンジェリカを瞳に映してくれるのも――。
「クラウスは瞳が本当に綺麗ね、まるでアクアマリンのようだわ。髪も銀の糸のようで、本当に美しい」
「……そんなことをおっしゃるのは、アンお嬢様くらいです」
二人は顔を合わせ、ふふっと小さく微笑み合う。
地下室でひっそりと生きるアンジェリカにとって、クラウスは唯一の拠り所であった。