8. 地獄の口が開く
ティーリオは三日に一度ほど、お茶の後夕食まで私と過ごしたが、あの夜以来泊まることはしていない。今日は夜警の当番だと言って、お茶だけで帰っていった。
我ながら、半端なことをしていると思う。
きっぱりはっきりお断りして、指輪を返して縁を切るべきなのに、ティーリオを前にすると、どうしてもそうできない。かといって、ティーリオの好意を素直に受け取ることもできない。
とはいえ私といることで、ティーリオを破滅へと道連れにしてしまう恐れがあった。
『太陽と月の王国物語』をプレイして、一番最初に攻略可能になるのが、ティーリオとラウリオ、双子の王子たちだ。
ラウリオのルートを進むと、ティーリオはシェールビアに唆され、王位を手に入れるため、シェールビアが解き放った魔王の力で弟とヒロインを殺そうとして、返り討ちに遭ってしまう。その他のルートを進んだ場合でも、ティーリオがシェールビアを通して魔王に操られ、殺される確率は非常に高い。
そもそもシェールビアが魔王を解放しなければいいのだし、私とティーリオが二人ともオレアンドの魔石から遠ざかっておけばとりあえずは安心だと思うのだが、何せ私のいるこのルートは前提条件がゲームと違いすぎる。
ひっそりこっそり隠居して、田舎でスローライフを満喫して生きていくつもりだったのだが、ティーリオに見つかってしまった時点で、シナリオが動き出してしまっているようにも見える。
当初の雑な計画のように、寿命が尽きるまで物語から逃げきることはできないだろう。
考えれば考えるほど、さっさとティーリオに冷たくして別れる以外に改善策は思いつかないけれど、今夜は一人だから今すぐできることもない。パンとチーズとワインで適当に食事を済ませることにしてさっさと寝てしまおう、とパントリーを漁っている時だった。
ドンドンドンドン、と乱暴な勢いで玄関のドアが叩かれた。
「ビア、俺だ!」
今夜は城砦の夜警だと言っていたティーリオだった。
慌ててドアを開けると彼はヘルメットをつけない甲冑姿で、ひどく動揺しているようだった。
「今すぐ避難する」
有無を言わせぬ調子で入ってくると、居間とキッチンの火に灰を被せ、ランプを消した。
「火はここだけだな」
頷くと、ティーリオは私を抱え上げて玄関ポーチに繋いでいた黒馬に乗せ、自分もその背に跨った。
「ちょっと、ティ」
「掴まっていてくれ。舌を噛むなよ」
掴まるってどこに、と聞く暇もない。
私を片腕で抱えた格好で、ティーリオは馬を飛ばした。ときめきたいシチュエーションなのに、全くその余裕がない。掴まる場所といえばティーリオの腰しかなく、甲冑越しで掴むところもない。結局ぎゅっと目を閉じて、両腕でしがみついているしかなかった。
お尻は跳ねるし甲冑はがんがんぶつかるし、このスピードでこの高さから落ちたら多分死ぬ。いや、今死んだ方が世界のためかもしれないとすら思った頃に、馬はスピードを落とした。
馬が風を切る音の代わりに、警鐘がガンガンと鳴り響く音、馬の蹄の音や武具の立てる音、大声で指示を飛ばす声などが、一気に耳に飛び込んできた。
「フロックス!」
ティーリオが誰かを呼んだ。
「俺の妻だ、奥へ連れて行ってくれ。ビア、すまない、説明している暇がない」
俺の妻、と呼ばれたことに気を取られている間に馬から助け降ろされ、よろつく足でなんとか立った。フロックスと呼ばれたのは従騎士だろうか、赤毛に緑の目をした、まだあどけない顔をした少年だった。
「すまない。頼んだ」
ティーリオはそのまま、私の顔も見ずに馬を駆って行ってしまう。
「奥様、こちらへ」
石造りの高い城壁、鳴り響く警鐘、赤く燃える松明に輝く騎士たちの武具。
目眩がした。私はゲーム画面で、この景色を見たことがある。
ここは第五騎士団が常駐するクラル城砦。
頭の中で記憶のパズルが、『太陽と月の王国物語』のシナリオが、音を立ててつながってゆく。
なぜこんなことを忘れていたのだろう。
「フロックス、聞いてもいい?」
「急いで歩きながらお願いします」
こちらへ、とフロックスが鉄扉を開けた。
「地獄の口が開いたのね」
「応援が到着予定です。ティーリオ様もいらっしゃいますから、それまでの辛抱ですよ」
大丈夫です、とフロックスは言った。
魔獣たちは地割れから姿を現すことが知られている。そうした地割れは地獄の口と呼ばれていて、数日から数週間、複数回の地鳴りを予兆に、突然口を開く。
「口が開いたのはロカイ側の砂漠で、ここまでは少し距離があります。第五騎士団なら、ここへ魔獣たちをたどり着かせることはないでしょう」
幼い顔立ちに似合わぬ落ち着いた様子で、フロックスは階段を降り、また昇って、城砦を奥へと進んでいく。小走りにならなければ、追いつけないほどの早足だ。
石造りの回廊を渡っていた時、耳をつんざくような音が聞こえた。
頭が割れる様に痛い。
目の前がぐらぐら揺れて暗くなって、気付いたらフロックスに助け起こされていた。
「奥様!」
大丈夫、と言ったものの、全く大丈夫ではなかった。さっきの音は邪竜の声に違いない。
私はゲームのオープニングの、ナレーションを思い出していた。
ーーラヴァンドル王国東部の国境で、大規模な『地獄の口』が開いた。ゴブリン、トロル、ワーウルフ、巨大な毒虫たち、それから忌むべき邪竜たち。
思いつく限りの悪鬼、悪獣たちが姿を現し、クラル城砦は三日で陥落した。
ラミア川で侵攻を食い止めたものの、ラヴァンドル王国は国土の三分の一を打ち捨てねばならず、魔王の復活が近いのではないか、という噂が流れ始めた。ーー
クラル城砦という名はゲームを通して、このオープニングの一度しか登場しない。二周目以降はオープニングムービーをスキップしてしまうから、印象が薄かったのだ。
なぜ私は、王都から東へ逃げたのだろう。
アスタが提案しなくても、行き先は東だった。オレアンド公爵領は西にもあったのに。
そうだ。アスタたち、サルヴァ村の人たちはどうしているだろう。きっと騎士団が安全な場所へ誘導しているだろうが、人間は避難できるとしても、家畜たち、特に怖がりの羊たちはどうするのだろう。
あの美しい牧歌的な景色が、ここで一生のんびり暮らせたらいいのにと思ったあの村が描かれることもなく、オープニングムービーのあの一瞬で、ナレーションの一言だけで消えてなくなってしまっていたなんて。
シェールビアのことを何も知らない特権階級だと腹立たしく思うこともあったけれど、私だって何も知らなかったのだ。
いや、知っていたのに忘れていたし、深く考えもしなかったなんて、最悪だ。
「まずい」
フロックスが呟くのが聞こえて、痛む目を開けた。さっきの邪竜の声のせいで、頭も目も心臓も痛い。
フロックスの背中越しに、こちらへ向かって悠々と飛んでくる邪竜のシルエットが見えた。六枚の翼とぬらぬらした長い首、それから鋭い鉤爪が、赤々と焚かれた松明の明かりにぎらぎらしている。
「奥様、そのまま伏せていて下さい」
フロックスは背負っていた弓を構え、矢をつがえた。先程も聞こえた邪竜の声が至近距離で響いて、また意識が遠のく。
ズバン!と大きな音がしたあと、フロックスが私に覆い被さるように飛び込んで伏せた。
ギャァァァ、と聞こえた邪竜の声は悲鳴だったように思う。禍々しい鉤爪と太い尾が、回廊の屋根を叩き割った。
「フロックス、あとは任せて!」
背後から聞き覚えのある声が聞こえて、私は本格的に意識を失った。