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7. 新しい日常

 サルヴァ村に電気はない。ガスも水道もシャワーも、もちろんスマホもインターネットもない。


 朝起きて、着替えてキッチンの調理オーブンの火を熾し、井戸の水で顔を洗い、窓を開けて床を掃除して、朝食を食べた頃にアスタがやってくる。


 生きるための全てを、私はアスタに習わなければならなかった。


 あの日の昼過ぎ、宣言通りにやってきたアスタは私がパンケーキを焼いたことを知って、面白いくらいに驚いてくれた。


 料理は好きだけれど、調理ストーブの正しい使い方も火の熾し方も、ここのキッチンの使い方もよくわからないと言ったら、何もかもお教えしますと請け合って、毎日本当に何もかもを教えてくれるために私の家へ来てくれている。


 元の世界で曲がりなりにも一人暮らしをしていたけれど、全く比にはならなかった。


 だって洗濯機も冷蔵庫もないし、お湯ひとつ沸かすにもスイッチを捻れば火が付くというわけにはいかないのだ。


 文字通り、生きていくだけで精一杯。

 生活するだけで一日が終わった。


 今日は村の洗濯場へ連れていってもらって、石鹸とたらいと洗濯板で、汚れものに立ち向かう方法を教わった。


 洗濯機ももちろんだが、脱水機能のありがたみをひしひしと思い知ったし、綿のドレスはシワになると面倒だから、絞らずに干すといいと教えてくれたのはありがたいが、濡れた洗濯物はもう、それはそれは重かった。


「それにしてもビア様がこんなに、ご自分でなんでもなさるおつもりだとは思いませんでしたよ」


 干し終えてポーチの階段に私と並んで座り、風に吹かれる洗濯物を眺めながら、アスタは笑った。


「いつまでも何もかも、アスタにしてもらうわけにはいかないでしょう?」

「その覚悟でしたよ」


 アスタは大きな茶色の目を、にやりと悪戯っぽく細めてみせた。


「だって、お嬢様にできるはずないじゃないですか」

「そう言われると、できないとは言いたくないわね」


 今からでもやってもらおうと思ったのに、と私が言うと、アスタは楽しそうに大笑いした。シェールビアと私の数少ない共通点の一つは、この負けず嫌いな性格かもしれない。


「そうだ、ビア様にお手紙が届いてたんでした」


 アスタはバスケットから、赤い封蝋に公爵家の紋章の押された手紙を取り出した。ありがとう、と受け取って早速開く。


 父は徹頭徹尾、私の心配しかしていなかった。


 アスタに任せているから心配ないのはわかっているが、シェールビアのような世間知らずの令嬢が貴族社会の外で生きていけるかどうか心配でならない、できれば返事が欲しい、もしアスタが手配できるなら、無事でいるなら返事をくれというようなことが、つらつらと便箋三枚にわたって書いてある。


 特に何の情報もないが、王室から父にお咎めもなかったのなら良かった。


「父は相変わらずね。こうやって甘やかすから私がつけ上がったんだわ」


「実はお金が一緒に送られてきたんですけれど、持っている方が危険なくらいの額だったので送り返しておきました。出発の時点でビア様が要求された分で、しばらくは充分ですし」


「ポッケないないしても怒らないわよ」


 冗談のつもりだったが、軽く睨まれてしまった。


「してませんよ」

「そうね、だから父も私も、あなたに任せっきりなんだわ」


 私が言うとアスタは照れたのか、ぷいと横を向いてしまった。


「本当に、あなたには助けられてばかり」


 アスタはもっと私を問い詰めても仕方がない立場なのに、ほとんど何も聞かずに私に尽くしてくれていた。アスタの家族もだし、もっと言えば、サルヴァ村の人たちだってそうだ。


 王都の貴族の屋敷へ女中奉公に出ていたアスタが突然戻り、何もできない若い女を一人連れてきて村に住まわせようというのだから、もっと悪意の滲んだ好奇心を向けられても仕方がないように思うのに。


 その時、馬の蹄の音が聞こえてきた。


「あ、ティール様ですね」


 アスタが立ち上がった。


 道向こうから、黒馬が緩やかな調子で駆けてくる。その背に跨ったティーリオはその辺の村民と大差ない軽装だというのに、美しさと気高さが隠しきれていない。あんなに美しいモブがいてたまるかと、離れていさえすれば私の脳内は推しを崇拝するオタクモードでいられてとても平和だ。


 ティーリオは馬を引いて、コテージへの小道を歩いてきた。


「ビア」

「ティール様、今日はお早いですね」

「非番だったのでな」


 ティーリオはそう言うと、アスタへ会釈をして家の傍の木に馬を繋いだ。王都に戻る気配がないと思ったら、今は第五騎士団にいるらしい。


「じゃ、お茶にしましょう。ティール様もどうぞ」


 アスタに促されて、私は立ち上がった。




 ティーリオは毎日、うちへやってきた。アスタはティーリオがやってくるのを、お茶の時間の目安にしているようですらある。初めのうちは間がもてずに死ぬほど疲れたが、最近はキッチンのテーブルで、この三人でよくわからないお茶の時間を過ごすのにも慣れてしまった。


「ティール様は王都にはお戻りにならないのですか?」


 一番聞きたかったことを、アスタが聞いてくれた。アスタの適応能力はどうなっているのだろう。主人であるシェールビアの豹変から始まり、今度は第一王子が庶民のようなことをしているのに、平然と同席してお茶を飲んでいる。


「ビアが一緒なら、戻る」

「ふふ、では、サルヴァ村はしばらく安泰ですね」

「そうだな」


 私はアスタが持ってきてくれた素朴な焼き菓子を頬張ったところで、何かを聞き返そうにもまだ飲み込めない。スパイス入りの、全粒粉のどっしりした生地にバターがよくきいていて、レーズンがたっぷり入っている。明日にでもレシピを聞こう。


「……私、王都には帰らないつもりですけれど」


 ようやくケーキを飲み込んで、私はやっとそう言った。


「そうだろうな」


 ティーリオは頷いて、昨日私がアスタと焼いたクッキーを齧った。アスタもですよね、と笑っている。


「………………………?」


 やっぱりこのやりとり、何か変だ。私は眉間を揉んだ。


「お前が帰りたくないなら、それでいい」


 見かねてか、ティーリオが言った。


「いえ、私は婚姻の解消を宣言したのですが」

「俺が嫌いか」

「いえ、そういうわけでは」


 ならいい、とティーリオはカップをぬっと出して、お茶のおかわりを要求してきた。アスタはそっと気配を消しているが、満足そうなのがひしひしと伝わってくる。仕方なく差し出されたカップを受け取って、ポットからお茶のおかわりを注いだ。


「第一王子が王都にいなくて良いのですか」

「お前を追って来なくても、近年は第五騎士団に入り浸りだからな」


「サルヴァ村の人たちも、ティール様がいらっしゃるなら安心だって喜んでますよ。ずっといらっしゃればいいのにって」


 アスタが嬉しそうに口を挟んだ。


「ありがたいことだが、俺がいるだけではその場凌ぎでしかないからな。ロカイとの交渉がもう少し進めば良いのだが」


 こういう時、シェールビアが貴族社会の外のことを全く知らなかったのだろうということを、ひしひしと思い知らされた。何のことだかさっぱりわからない。


「では、私は先に失礼いたしますね。夕方の家畜の世話の時間なので。ビア様、また明日」


 アスタはいつでもお茶を一杯飲むと、さっさと先に帰ってしまう。取り残された私はティーリオにどう接していいのか、まだ距離感がつかめない。


「ビア」


 ティーリオは決まって、私を居間のソファの方へ誘った。並んで座りはするが触れることはないし、口数の少ない彼と話すことも、それほどなかった。


「あれから、考えたのだが」


 ティーリオが珍しく、口を開いた。


「俺は、お前と共にありたい。以前のシェールビアではなく、今の、サルヴァ村で暮らすお前と」


「嬉しいですけれど、ティール様がそう思うのは、シェールビアの美貌あってのことでしょう」


 だからダメです、と言った。


「それでもお前は俺を、嫌いだとは言わないのだな」


 嫌いだと言ってしまえれば、あるいは好きだと言ってしまえれば、私たちは楽になれるのだろう。


「しばらく、第五騎士団にいることにした。王都には父も弟もいるから問題ない。だから、俺がお前の傍にいることを、許してほしい」


 嬉しいと思ってしまうことを許してほしい、と思ったけれど、口には出さなかった。


 それでも頷くと、ティーリオは満足そうに微笑んだ。その後はいつものように黙ったまま、ただ二人並んで、暖炉の火がはぜるのを眺めて過ごした。

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