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6. パンケーキ

 昨夜、カーテンを閉め忘れた。


 明るくて目が覚めたが、まだ夜が明けてすぐだろう。寝室の窓は東向きだったらしい。


 昨夜は結局、私は寝室のベッドで眠り、ティーリオは暖炉の前で、毛布一枚で眠った。


 結婚式を挙げ、薬指に互いへの愛と信頼の誓約を結んでいたし、ティーリオは私が彼を嫌っていないと確認までしたのに、それ以上何も求めては来なかった。


 私は私で、最愛の推しが夫となったこと、彼が私、つまりシェールビアを愛しているらしいことを、手放しには喜べなかった。


 『太陽と月の王国物語』には幾通りものエンディングが存在する。


 その中で、誰もが幸せになって世界を最善に導くルートは全て、ヒロインが四人の攻略対象のどのキャラクターとも結ばれないパターンだ。


 これも賛否両論で、隠れクソゲーと言われる所以のひとつでもある。


 つまり、ヒロインが誰かと結ばれると他の攻略対象の誰かが不幸せになったり、死んでしまったりする。ヒロインは限りなく善良なので、愛する人と結ばれ世界を救うことに成功しても、ハッピーエンドを心から喜んで迎えられない。


 だからエンドロールの最後、真っ暗な画面にヒロインの疑問が投げかけられる。


『本当に、これで良かったの?』


 ピチャン、と水の跳ねる音。


 画面に広がる波紋。


 暗転して画面はタイトルロールに戻り、プレイヤーは次のルートを探ることになる。


 私はヒロインほど善良な人間ではないし、自分が死にたくないのは当たり前だが、世界に滅んで欲しくもない。


 それに、もちろん一番大好きなティーリオには誰よりも幸せになってほしいが、他のキャラクターだってみんな好きだから、誰も不幸せになってほしくない。


 プレイするうちに、どのキャラクターにも多かれ少なかれ惹かれて、みんな可愛く思えるようになってしまったからだ。乙女ゲームとは、そういうものらしい。


 だから余計に、ティーリオがシェールビアを愛しているこのルートをどう進めるのが最善なのか、私には全くわからない。


 そもそも、『太陽と月の王国物語』だって、各種攻略サイトの手を借りなければ進めることさえできなかったのに、今回は攻略サイトもなしだ。


 考えて答えが出るものでもないので、諦めてカーテンを閉めてもう一度寝直そうと起き上がると、窓の外に動くものがあった。


 ティーリオが剣の稽古をしていた。


 演武のようなものだろうか、目に見えぬ敵と共に舞っているようでさえある。


 きらりきらりと剣が朝日を受けてきらめいていて、あれこれ悩んでいるのが馬鹿馬鹿しくなるくらい、窓の外の男は美しかった。


 ティーリオは盾職(タンク)にしては細身のキャラクターだと思っていたが、こうして生身の人間として見ると、バランス良く筋肉のついた身体は大きく、しなやかで隙がない。


 静寂に慣れた耳には、離れたガラス越しにも、切っ先が風を斬って唸る音が聞こえた。


 美しい、大きな獣のようだ。


 視線を感じたのだろう、ティーリオが剣を下ろし、こちらへ向かってきたので、私は窓を開けて、窓越しにおはようございます、と声をかけた。


「随分早いですね」

「日課でな」


 朝、剣を握らないと落ち着かない、とティーリオは言った。


「まだ早いが、起こしてしまったか」

「いいえ、カーテンを閉め忘れてしまって。私を起こしたのはお日様ですわ」


 そうか、とティーリオはほっとしたらしい。


「もう少し稽古をなさるでしょう、私こそお邪魔をしましたわね」


 いや、と首を振ったティーリオは、何か言葉を続けようとしてやめ、では後で、と足早に窓辺から離れていった。


 その後ろ姿の、耳が赤かった。一体何を言おうとしたのか、聞きたかったような、聞かなくてよかったような気がした。






 寝巻きから木綿のドレスに着替えた。


 一人で着替えるのにも、旅の間にアスタに特訓してもらったおかげで随分慣れた。


 それに貴族令嬢のドレスにはコルセットを締めるが、庶民の普段着ではコルセットを使わない。下着を着て、すとんとした木綿のドレスの上に革の胴衣(ボディス)をさほど締め付けずに着るだけなので、簡単で快適だ。


 キッチンに入ると調理ストーブの上にケトルが載っていて、湯が沸いていた。ティーリオが起きてすぐに、種火を熾しておいてくれたのだろう。


 パントリーを覗くと、しっかり食料が並んでいる。


 ベーコン、チーズ、ピクルス等の保存食、乾燥させたハーブやスパイスの他、布袋に入れて吊り下げられていたのは玉ねぎやじゃがいもだった。


 さすがに生鮮食品はあまりないが、アスタはいつの間にここを整えてくれたのだろう。私は棚に並んだ瓶や袋を端から物色した。はちみつ、バター、小麦粉、白砂糖。ふくらし粉も見つけた。


 裏口から外へ出ると、戸口にバスケットがあった。中にはミルクの瓶が二つ、卵が六つ。宅配サービスのはずはないから、アスタか、アスタの兄が届けてくれたに違いない。


 井戸のポンプからその辺に転がっていたバケツに水を汲み、顔を洗った。シェールビアなら嫌がりそうだが、私は別に平気だ。


 髪をまとめ、キッチンの椅子に掛けられていたアスタのエプロンを付けて、陶器のボウルに小麦粉をカップで量った。


 料理なんていつぶりだろう。職場と家の間を往復するうちに、家事をやる気力も食べる元気もなくなっていたから、こうしてキッチンに立つのは前世を含めても随分久しぶりだった。


 シェールビアが料理をしたとも思えない。そう考えてふと気付いたが、シェールビアの記憶の全てが私に引き継がれているわけではないようだった。


 昔の記憶は簡単に思い出せるが、ここ数年の記憶はぽつぽつとしか思い出せず、食べ物や本、音楽などの好みの記憶もない。


 だから私には、ゲーム上では悪役令嬢として描かれたシェールビアが本当は一体どんな女の子だったのか、実際のところよくわからない。


 粉類を合わせて泡立て器で混ぜ、卵を割り入れて牛乳をカップに軽く一杯。


 滑らかに混ざったらフライパンに植物油を薄く引き、調理ストーブの蓋を開けて、直火で軽く煙が出るまでしっかり温める。


 ストーブの蓋を閉め、一度絞った布巾の上に乗せてフライパンの温度を均等に下げてから、加熱の穏やかなストーブの上面にのせて、生地を流して焼く。


 正しい使い方かどうかはわからないが、ガスコンロでなくとも、意外となんとかなりそうだ。


 ぽつぽつと泡が持ち上がり、ぷつりと弾けて穴が開くまで、しばらく待つ。


 香ばしい匂いが漂いはじめ、頃合いを見てターナーで上下を返した。


 裏口のドアからティーリオが戻ってきた。顔を洗って来たのだろう、首にタオルを掛けていて髪が少し濡れている。


「いい時に戻って来られましたわね。良かったら、先に食べて下さい」


 焼けた一枚目のパンケーキを白い皿に乗せて、テーブルに置いた。


 ティーリオは私とパンケーキを、交互に眺めた。シェールビアがパンケーキを焼けるなんて思ってもみなかったに違いない。聞かれたら、花嫁修行で習ったとでも誤魔化そう。


 バターと蜂蜜をテーブルの上に出しておいたから、あとは好きなようにするだろう。私は空になったフライパンに油を引き、二枚目の生地を流し込んでからポットに茶葉を入れ、ケトルに沸いた湯を注いだ。


 一枚目よりも、二枚目の方が早く焼ける。私は二枚目のパンケーキをひっくり返して、ついでにベーコンでも焼いてあげようかと、ティーリオの方を振り返った。


 ティーリオは、バターと蜂蜜をたっぷりかけたパンケーキを大きく切って、一口食べたところだった。王子様にしては、一口のサイズが豪快だ。


 朝から剣の稽古をしていたし、若い男の子だし、二枚か三枚食べるかもしれないなと思っていたら、ティーリオの紫の目がみるみるうちに潤んで、ぽろりと大粒の涙を零した。


「殿下?!」


 粉類も何もかも、念の為舐めてから使ったが、何かとんでもない間違いをしたのだろうか。


「まずかったらぺってしてください、何か間違えたのかしら、お水持ってきますね」


「違う」


 ティーリオが口の中のものを飲み込んで、うまい、と言ったので、私は少しほっとした。しかし、パンケーキが泣くほどおいしいってことある?


 二枚目のパンケーキをとりあえず別の皿にのせた。パンケーキは綺麗なきつね色で、つやつやしている。我ながら上出来だ。まずくないなら、まあ良かった。


 けれどティーリオは次の瞬間、こう言ったのだ。


「……お前は、誰だ」


 私はすんでのところで、フライパンを投げなかった。


 心臓がとんでもない早鐘を打ち、頭はフル回転で空回っている。


 私は自慢ではないが、嘘をつくのも誤魔化すのも下手くそだ。とりあえずまたフライパンを投げたくなる前に、鍋敷きの上に置いた。


「……シェールビア・オレアンダです、と言っても、信じて貰えそうにありませんね」


 私はため息をついて、すっかり見慣れてしまった、白く長いシェールビアの指先を眺めた。


 どう説明すればいいんだろう。

 どうせ近いうちにこの瞬間が来るだろうと思っていたのに、なんとなく、考えるのを先延ばしにしてしまっていたのだ。


「シェールビアにパンケーキは焼けない」


 ティーリオはぽつりと言い、こう続けた。


「親同士の決めた結婚で、シェールビアは俺を嫌っていた。婚約してから長い間、まともに会話できたこともなかったが、三ヶ月前のことだ。延期に延期を重ねた結婚式の日取りが急に決まり、俺が久しぶりに、公爵家を訪ねた」


 ティーリオはポットの中で濃くなりすぎたお茶をカップに注ぎわけ、ミルクはあるか、と聞いた。私がパントリーからミルク瓶を持ってきて、それぞれのお茶のカップに注ぐと、ティーリオはカップの中で渦を巻く乳白色を眺めながら、呟いた。


「シェールビアはミルクを入れなかった。やっぱりお前は、あのシェールビアではないのだな」


 その声は落胆しているようにも、安堵しているようにも聞こえた。


「訪問したのが、ちょうどお茶の時間だった。どうしてだったか、茶菓子の話から、朝食のパンケーキの話になった。話の流れは忘れたが、俺の相槌がまずかったのだろう。シェールビアは怒りだした。パンケーキくらい自分でも焼けると言って、次の日同じ時間に来いと言ったんだ」


 ティーリオが、ふ、と笑った。

 胸の奥がずきりと痛んだのが、不思議だった。


「次の日シェールビアはいつもよりも不機嫌そうにティールームに座っていたが、俺の顔を見るなり立ち上がって負けを認めた。一晩中、気の毒なオレアンド家の料理長を付き合わせて、パンケーキを焼いたらしい。膨らまないもの、ひどく焦げたもの、生焼けのもの、思いつく限り、ありとあらゆる失敗作が大皿の上で山をなしていた。俺が食べようとしたら、本気で嫌がって怒るから、三枚ほど食べてやったが、それはそれはまずかった」


「殿下、それはちょっと、かなり意地悪なのでは」


 うん、そうだ、とティーリオはとうとう、愉快そうに笑った。初めて見た彼の笑顔は、私のものではない。


「俺はその時初めて、シェールビアを愛せるだろうと思った」


 私は頷いた。泣いてしまいたかった。


 私は、彼が愛そうとしたシェールビアではない。


「その後結婚式まで、会わなかった」


 ティーリオは一度、そこで言葉を止めた。


「誓いのキスの時、お前は、……俺の知るシェールビアからは想像もできなかったような顔で、幸せそうに笑った」


 あれはお前だな、と問われると、私は頷くことしかできなかった。


 もう、ティーリオがどんな表情をしているのかも、見られなかった。


 今すぐに逃げ出したかった。


「……嬉しかったんだ」


 私は耳を疑って、顔を上げた。ティーリオはふいと視線を逸らした。


 その耳が、頬が、赤い。


「嫌われていると思っていた。なのに、お前があんな風に笑うから、俺は」


「シェールビアは」


 シェールビアの口から彼女の名が聞こえるのは妙だっただろう。私が彼女ではないと認めることにもなる。


 けれど私はティーリオを、混乱から救い出したかった。


「……シェールビアは間違いなく、貴方に好意を寄せていました。彼女の記憶や感情の一部を、私は持っているので」


 どこから話すべきだろう。


「私はシェールビアではありませんが、この体は、間違いなくシェールビア・オレアンダのものです。どうしてこうなったのかは、私も知りたいのですけれど」


 そうか、とティーリオは短く言った。疑って然るべきなのに、どうしてだろう。


「いつからだ」

「結婚式の日、神殿の扉が開く瞬間から。初めは夢だと思っていました」

「どうして逃げ出した」


 このままでは世界を滅ぼすことになると思って、と言うわけにはいかない。私は考え込んだ。


「私が、殿下と結ばれるべきではないので」

「お前が偽者だからか」

「というより私はこの世界の外の、ここに属すべきでない存在なのだと思います」


 ティーリオはもう一度、そうか、と言った。それから持ったままだったフォークを皿に置き、椅子から立って私の足元へ跪いた。


「ならば俺は、お前がお前の世界へ帰るその時まで、お前を守ると誓おう」


「殿下」

「ティールと」

「ティール様」


 ふ、とティーリオが笑った。


「ビア」


 アスタが私を呼ぶ名を、覚えていたのだろう。


 シェールビアというその名があまりに貴族令嬢然としているから、首都から逃げるにあたって短い名を使った方がいいと思って、アスタにはそう呼ばせた。


 けれど本当は、シェールビアでない私が、シェールビアと呼ばれたくなかったのだ。私にわかる記憶の範囲でだが、シェールビアは誰にも愛称で呼ばれたことがなかった。


 だから、ビアと呼ばれるシェールビアは、シェールビアではない私だけだ。


「ビア」


 優しい声が、私を呼ぶ。


「お前に触れても、いいか」


 許可を、とティーリオが言ったけれど、私には頷けない。


 これはシェールビアが受け取るべき愛だ。


「ビア」


 大好きなティーリオの声が、繰り返し私を呼んでくれるのに、こうなる前には心から望んでいたはずのその申し出を、受け入れられなかった。


「だめです」

「お前は思ったより、生真面目で強情なのだな」


 くす、とティーリオが笑って、立ち上がった。


「まあ良い」


 ティーリオは椅子に戻ると、何事もなかったかのように残りのパンケーキを食べ始めた。呆気に取られている私の目の前で、大きく切り分けられたパンケーキが彼の口の中に消えていく。


「これも食べていいか」

「それは冷めてしまったので、後で私が」


 ティーリオはバターと蜂蜜で濡れた唇をぺろりと舐めて笑い、すっかり冷めてしまった二枚目のパンケーキを自分の皿に取った。


 さっきまであんなだったのに、急に子供のような顔をするから、何がなんだかわからない。


「あと、何枚焼いてくれる?」

「そうですね、あと三枚か四枚は。足りなければ、作り足しますけれど。……ベーコンもありますよ」

「ビアは何枚食べるんだ」

「一枚で充分ですね」

「では、待っているから一枚焼いてくれ。俺はこれをもらうから、一緒に食べるとしよう」


 三秒ほど、提案の意味がわからなかった。


「ベーコンもほしいな」


 リクエストにお応えして、ベーコンを切って別のフライパンで焼きながら、パンケーキのフライパンを温めた。背中に視線を感じて振り返ると、上機嫌なティーリオと目が合う。


「もう逃げるなよ」

「逃げても無駄なんでしょう」

「ああ、捕まえてパンケーキを焼かせる」


 私はきっと、この人には敵わない。

 だって、出会う前からずっと、叶うはずのない恋をしていた相手なのだ。


 叶いそうになって逃げたのは、叶うのが怖いからではない。絶対に叶わないのがわかったから。


 ティーリオが触れたいと思ったのは、シェールビアが美しいからだ。


 私はヒロインのような愛らしい、気立のよい少女でもなければ、炎のような髪と目をした美女でもない。容姿も経歴も何もかもがぱっとしない、人生というゲームにすら負け続ける、地味なアラサーだったのに。

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