5. 気まずい夕食
「ね、ビア様」
完全書き下ろし新規シナリオに突入していたことにようやく気付いて青ざめていた私に、アスタが何か同意を求めたらしい。
「ごめんなさい、何ですって?」
「殿下もお食事がまだだそうですから、ビア様とご一緒されてはいかがかと思って」
ティーリオとの不仲が逃亡の原因でないと悟ったのだろう、アスタは本当に察しが良い。全く良くない。いやいやいや、帰ってもらって欲しい。明日来るって言ってたじゃん。
「俺がいない方が、シェールビアも休めるだろう」
気を遣ってくれているのだろう、ティーリオがそう言ったが、アスタは引き下がらない。そっと私の方へ寄ってきて、耳打ちしてくる。
「ビア様、仲直りのチャンスですよ」
「喧嘩したわけじゃないわよ」
「でしたら尚更です。お食事をお持ちしたら、私は一度、実家に帰りますから」
「いてくれないと困るわよ」
「いる方が困りますよ」
「ね、ビア様、男の方がいて下さった方が、今夜は心強いでしょう」
アスタが声のトーンを上げた。
いやいや、この人ついさっき、私に命の危険を感じさせた本人なんですけど。
振り返ると、ティーリオは無表情の奥で困惑しているらしかった。立ち絵の表情差分をゲットしたような気分になったが、これはゲーム画面ではない。
まあいいわ、と観念すると、アスタが小さくガッツポーズをしたので、仕方なくこう言った。
「殿下、いかがでしょう。結婚式直後に婚姻破棄を要求して、逃げた女と夕食をともにするのがお嫌でなければ」
「……お前が嫌でないなら」
ティーリオがぼそりと言ったのを聞くや否や、アスタはさっと一礼して、キッチンへ引っ込んだ。
「しゃっくりは止まったようだな」
「……おかげさまで、そのようですわね」
会話が途切れてしまう。非常に気まずい。
ティーリオは元々無口なキャラクターだから平気なのかもしれないが、私の正体は社交に長けた百戦錬磨の令嬢ではなく、小心者の小市民である。
だめだ、耐えられない。
「……その」
と、思ったのに、先に声を発したのはティーリオだった。
「寒くはないか」
「そういえば、少し冷えてきましたわね」
「東部は朝晩、首都より冷え込む」
ティーリオはソファからブランケットを拾い上げ、私の肩に掛けてくれた。
「……ありがとうございます」
見上げた先で、ティーリオが固まっている。
ごめん、そうだった。ありがとうってキャラじゃなかったのだ、シェールビアは。
咳払いしてから、ああ、とかなんとか言って、ティーリオはガチャガチャ音を立てながらソファに戻った。しまった、せめて装備を解いたらどうかって言うべきだった気がする。
二人してしばらく無言に耐えていると、ようやく玄関のドアをノックする音がした。
「ビア様、夕食を調達して参りました」
アスタだ。台所に気配がないと思ったら、外に出ていたらしい。
「暖炉に火を入れますね。大きなテーブルがキッチンにしかないので、暖炉の前でピクニックみたいにされた方が寒くなくて良いと思うのですけれど」
アスタは手早く暖炉に火を入れ、暖炉の前にラグを広げて、大きなバスケットから次々に料理を取り出した。
「田舎料理ですから、お口に合うかどうか」
「サルヴァの食事は美味いぞ」
ティーリオがバスケットを覗き込んで言ったので、アスタはぱっと顔を明るくした。
「殿下にそう思っていただけているなら、光栄ですわ」
「第五騎士団にはよく来ているからな」
アスタは手際よく料理を並べ終え、仕上げにグラスとワインのボトルを置いて立ち上がった。
「ビア様、明日はわたくし、昼過ぎに参りますので。どうぞごゆっくりおやすみくださいませね」
「え、昼……?」
確認を終える前に、アスタは嵐のように去っていってしまい、ぱちぱちと暖炉の火のはぜる音がよく聞こえるほどの静寂の中に、私たちは二人っきりで残されてしまった。
ティーリオが身動いだのか、ガチャリと甲冑が鳴って、我に返った。
「装備、解かれてはいかがですか」
「ん、……ああ。民家の中でこのままでは、さすがに変か」
「窮屈ではありませんか」
「遠征などの時には着たままのことが多いから、慣れてはいるが。……少し、手伝って貰えるか」
私が頷くと、頼む、と言ってティーリオは立ち上がり、暖炉から離れたドアの近くで、装備を固定しているベルトを解きはじめた。
「すまない、脇のベルトを緩めて欲しい」
呼ばれて近付くと、急に男の人の匂いがしてくらりとした。目の前のティーリオは、数枚の立ち絵とスチルしかないキャラクターではなく生身の人間なのだという事実は、何度再確認させられても破壊力がある。動揺に気付かれないよう背後に回り、指示された順にベルトを緩めていった。
「……複雑な造りなのですね」
「一人で着脱もできないのは難儀だが、これがなくては戦えんからな」
我々のドレスのようですねとは、なんとなく、言わなかった。
パーツごと、順に装備を取り外し、鎖帷子を脱いでしまうと、シャツとズボンのみという軽装になる。薄い布地越しにも、しなやかな筋肉のついた美しい身体の存在が感じられて、なんとなく目のやり場に困る。
目線を落とすと、無防備な裸足にまた目を奪われた。うーん、見たいけど見られない。
「ありがとう。これで軽くなった」
礼を言ってくれるティーリオの顔さえ、私は見ることができなかった。
アスタは随分張り切ったのだろう、香辛料の効いたミートパイや野菜のキッシュ、色鮮やかなピクルス、それからハムやチーズ、胡桃のたっぷり入った香ばしいパンなどが、充分すぎるほどあった。
それほど話が弾んだわけではなかったが、暖炉の火を眺め、火のはぜる音を聴きながら、静かに濃いワインを飲む時間は悪くなかった。
ティーリオはぽつぽつと、しばらく前に第五騎士団へ来た時の話をしてくれた。
今回も、王族の装備であちこちうろついては目立つからと第五騎士団が装備を貸してくれたうえ、私の捜索に騎士たちを寄越してくれさえしたのだという。申し訳なく居心地が悪いが、仕方ない。こればかりは自業自得だ。
王国東部の国境はロカイ帝国と接しているが、森の向こうのロカイ側は近年、森が枯れ、荒れ果てている。
「そのせいか、以前より魔獣の出現が多くてな。簡単な視察の予定だったのが、結局一年近くこの辺りで過ごした」
魔獣の出現数は、王国全土で増加しているらしい。これはゲームの序盤のストーリーと一致している。魔獣たちは力を増しつつあり、魔王の復活に備えているのだ。聖なる力を持つ乙女、つまりゲームのヒロインは、まだ現れていないのだろう。
「シェールビア」
考え込んでいたところへ呼びかけられて顔を上げると、ばちんと音がするほど、まともに目が合った。
その、と、ティーリオは言い淀んだ後、こう言った。
「本当に、嫌いではない、のか」
アルコールのせいだろう、濡れた紫が不安そうに揺れている。
心臓を射抜かれるとはこのことだ。
好きに決まっている。
目の前にいるのは大好きなゲームの中で一番大好きなキャラクターで、密かに心の恋人としてきたティーリオなのだ。
それに、シェールビアの記憶が追い討ちをかけている。シェールビアは、政略結婚として婚約するよりずっと前から、ティーリオのことが好きだったらしい。
「嫌いなはずがありません」
やっとのことで目を逸らしてそれだけ言うと、そうか、とティーリオが呟いたのが聞こえた。横目でちらりと伺うと、立てた膝に肘をついて口元を隠しているが、目元が微かに緩んでいる。
威力が凄まじい。
ゲームスチルはイラストだが、このティーリオは生身の人間なのだ。今度こそ心臓発作で死ぬかと思った。
ゲーム上でティーリオがこんな表情を見せてくれるのは、好感度がかなり上がってから、つまり、ゲームの中盤以降だった。
ティーリオは、攻略対象キャラの中でもヒロインに対してそっけなく、序盤はかなりつっけんどんでさえあった。今でこそ最推しと迷いなく言えるが、ゲームを始めた頃は、このキャラは攻略を後回しにしてもいいかなとすら思っていた。それなのに、最初からこんなにデレてくれるなんて、心臓がもつ気がしない。
「殿下は」
疑問がふと頭を掠めた瞬間、考えるより先に、口からこぼれていた。慌てて一度口を閉じたが、酔った勢いということにして聞いてしまうことにする。
「どうして、私にここまで、……私は、殿下に対して、無礼でしたし、ひどい婚約者だったのに」
シェールビアの記憶は、自分のこととして体験したかのように、私の中にある。
例えば、十五歳で婚約が決まり、挨拶に宮廷へ行った時には、恥ずかしくて嬉しくてどうしていいか分からず、一言も発することなく、緊張しなくていいと気遣ってくれる手を払い除けさえした。
シェールビアのお茶会を欠席したお詫びにと贈られたものを、箱も開けずに気に入らないと床に叩きつけ、約束の時間に3分遅れたといって、婚約お披露目のパーティーでは一言も交わさなかった。
シェールビアの記憶は、ただでさえ苛立っていることが多いようだったのに、ティーリオが絡むと余計に、あらゆる感情がないまぜになって混乱していた。悪役令嬢も、こうなれば思春期の少女でしかない。
それからは、後に引けなかっただけだった。
プライドの高さが邪魔をして、今までの非礼を詫びて謝ることも、優しく親しく接することすらできないまま、時間が過ぎていった。その間に王国を取り巻く状況やティーリオの遠征などが影響し、結婚が何年も先延ばしになっていったのだ。
ティーリオはほんのしばらく考え込み、やがてこう言った。
「俺は社交にも疎いし、お前を苛立たせても仕方なかっただろう」
「どんだけ善良なのよ」
いくら推しでも引くわ、と思ったら、半分口から出ていた。しまった。
「酒が入ると人が変わるタイプだったか」
ぼそりとティーリオが言ったような気がするが、咳払いをして聞かなかったことにする。
「そういえば」
ティーリオは話を変えようとしてくれたのだろう、そう言った後、しばらく黙り込んだ。
申し訳ない気持ちで次の言葉を待っていたが、何か言う気配がないので顔を上げると、暖炉の火を眺めている横顔の、耳が赤い。
「その」
視線を感じたのだろう、ティーリオがようやく口を開いた。
「第五騎士団の城砦へ戻るつもりでいたのだが」
その、と再び言い淀む。
アスタはわざわざ、ティーリオにも聞こえるように、明日は昼過ぎに来ると宣言して出ていった。ティーリオが帰ってしまうと、私はこの田舎家に一人っきりになる。
ああ、と私は間抜けな相槌を打った、その後に、頬に血が昇った。
「ここに、お前を一人、置いていきたくはないのだが、その」
泊めてもらえるだろうか、とようやくティーリオは言った。
「俺はここで床に寝るから、安心して欲しい」
頭の中にはありとあらゆる選択肢と言葉が渦巻いているというのに、私には頷くことしかできなかった。