3. そう簡単にことが運ぶはずもない
サルヴァ村は絵に描いたような牧歌的な農村で、まさに理想的な隠居先だった。
村民の八割が農家で、あと二割ほどが宿屋、大工や荒物屋や鍛冶屋、日用品から食品まであらゆるものを扱う雑貨屋、猟師や牧畜を生業とする者など、だそうだ。商店は多くないが、国々を結ぶ交易路が遠くないため、頻繁にさまざまな行商やキャラバンが立ち寄るのだという。
アスタの実家は大きな農家で、今は彼女の兄が家を継いでいるらしい。
公爵家の令嬢付きの侍女、また、王家に嫁ぐ際に伴う侍女が平民出身であるのは、かなり異例のことだ。
それももちろん、三年もの間シェールビアに追い出されなかった侍女がアスタしかいなかった、というだけのことなのだが、裕福な農家の娘であれば、シェールビアの侍女として耐え抜く必要も本当はなかったはずだ。
見た目によらず、野心家なのだろうか。
いいや、野心家なら、王子妃の侍女になるチャンスを捨てて私の逃亡に加担したりはしなかっただろう。宥めてすかして時間を稼いで、逃げられないように誘導したはずだ。父はアスタを、オレアンド家の遠縁の子爵と養子縁組させて、王宮にふさわしい身分すら、買い与えることにしていたのに。
そのアスタは、貸してくれそうな家に心当たりがあると言って、交渉のために馬車から降りていた。私も行くと言ったのだが、話が長くなると今は面倒だから、大家さんにはまた改めて挨拶するといいですよと言われて、結局またもや任せっきりだ。
「私の実家近くの小さなコテージが借りられましたから、直接そちらに向かいますね」
戻ってきたアスタが私の向かいに腰を下ろしながらそう言ったとき、思わず笑ってしまった。
「何か面白かったでしょうか」
「いいえ。あまりに手際がいいものだから、つい」
ありがとう、と言うと、アスタは嬉しそうに笑ってくれた。旅の初めの頃には私が礼を言うたび、緊張と微かな疑い混じりのこわばった笑みを浮かべていたのに、私に礼を言われるのにも慣れてくれたらしい。
アスタが用意してくれたコテージは、こぢんまりとしている、というには大きいが、首都の大邸宅育ちのシェールビアにしてみれば、ささやかで美しい住まいだった。
サルヴァ村の一般的な家屋らしい、荒く塗られた白い土壁と朱い屋根、小さな玄関ポーチが愛らしい。
私は馬車から降りてその小さな家を見た瞬間、思わず感動のあまり、息をすることすら忘れた。
「どうぞ。ビア様にはウサギ小屋みたいなものでしょうけれど」
「そんなことないわ」
胸が詰まって、そう言うのが精一杯だった。
昔々、シェールビアでない私が少女だった頃、大切にしていたドールハウスを思い出していた。
ずっと夢だった。赤い屋根の小さなお家に住んで、白いカーテンを掛けて、ポーチに鉢植えを並べて、それから、……。
「ビア様、どうぞ」
アスタが、また新しいハンカチを差し出してくれた。
「ごめんなさい、今日はだめね」
「長旅でお疲れなんですよ、中で休みましょう。今ある家具は好きに使っていいそうです」
ドアを開けると広いリビングで、右手には暖炉がある。左手のドアの向こうはキッチンで、その奥にはパントリー。リビングの向こうに寝室、暖炉の奥の急な階段は、屋根裏部屋に続いているのだろう。
「急だったので、掃除もあまり行き届いていないと思うんですが」
御者に馬車から降ろしてもらった荷物はポーチに積み上げたまま、アスタはソファの埃除けを外して私を座らせた。
「アスタも座って。疲れたでしょう」
もうあなたは侍女じゃないのだし、と言うと、アスタは笑って、二人掛けのソファに隣り合って座ってくれた。
「なんだか不思議です。シェールビアお嬢様と私が、このコテージのソファに並んで座ってるなんて」
「そうね、なんだか現実味がないわ」
現実味どころか、そもそも夢だと思っていたのがいっこうに醒めないのだ。三日もすればシェールビアとして目覚めるのに慣れてきて、現実だと思っていたあの世界こそが、夢だったのかもしれないとさえ思えるほどになった。
シェールビアとして生きるこの世界に現実味がありすぎるせいで、現実味がない。
「ちょっと休んだら、荷ほどきにかからなきゃ……」
私はそう呟いたつもりだったが、自分の言葉を聞き終わるまえに、眠りに落ちた。
「ビア様、ビア様!」
起きてください、と思いきり肩を揺さぶられて目を覚ました。あれ、ここどこだ、と思った瞬間、暮らしていた狭苦しいワンルームと煌びやかな邸宅の自室、両方の記憶がよみがえった。
辺境の村まで逃げてきたんだった、とアスタの顔を見て思い出す。
「アスタ、お嬢様を屋根裏へ」
戸口にがっしりした体格の若い男がいた。
「お嬢様、急いで!あれは私の兄です。私たちがお守りいたしますから、信じて」
アスタに急かされて階段を登り、屋根裏部屋のクローゼットの中に隠れた。
「ほんのしばらく、ここで居眠りの続きをしていてくださいね」
そう言ってブランケットをくれると、アスタはクローゼットの扉を閉めてしまった。
衣類の防虫に使うのだろう、ハーブらしき香りがする。子供の頃、よく祖母の洋服箪笥の中に忍び込んだことを思い出した。樟脳の匂いがして、狭くて暗くて、外の音が遠くなったら急に安心して、眠くなって……。
外が騒がしくてはっとして、自分が本当に眠っていたことに気付いた。いくら旅に疲れていたとは言っても、緊張感が無さすぎる。
耳をすませると、何頭もの馬の蹄の音や騎士の甲冑が立てる音、意味まではわからないが、男たちの声も聞こえた。
はっとした。
アスタは追手を撒くために遠回りのルートを使い、途中で何度も馬車を乗り換えさせたのだ。
追手は騎士たちだ。それなら結婚の破棄を、王室は彼らへの侮辱だととったのかもしれない。夢だと思って軽率に振る舞ったのが、裏目に出たに違いなかった。
父は無事だろうか。私なんかに悪役令嬢の代わりが務まるはずがないのだ、私のせいで、どれほどの人たちに迷惑をかけてしまうのだろう。
ガチャリと階下でドアが開く音がした。お待ち下さい騎士様、とアスタが叫ぶ声が聞こえる。
震える肩を抱きしめて、息を止めた。
階下からガチャガチャと、二、三人分の甲冑が立てる金属音が聞こえる。
今、私が飛び出せば、アスタの命を助けられるだろうか。
気付いたら、体が動いていた。クローゼットの扉は、内側から少し押したぐらいでは開かない。でも、思いきり蹴飛ばしたら。
バン、と思いきり扉を蹴るが、開かなかった。一瞬階下が静かになった後、ガチャガチャと足音が階段を登って来るのが聞こえた。
心を決めた。
ガチャリガチャリと足音はまっすぐにクローゼットの方へやってくる。心臓が口から出そうだった。
とうとう扉が開かれた瞬間、私はクローゼットから飛び出した。咄嗟に斬られても、文句の言えない動作だったと思う。
「侍女は私の逃亡を助けてくれただけなのです!全ての罪は私だけにあります、どうか彼女にはお許しを!!!」
額を思いきり床に打ち付け叫んだ私の前で、甲冑の騎士は黙ったままだった。嫌な汗が、胸の方から首筋へと伝った。
カチャ、と騎士がヘルメットのバイザーを上げた音がした。
「こんなところで何をしている」
聞き間違いようのない低い声が、鼓膜を揺らし背骨を凍りつかせた。見上げると、私を見下ろす騎士の眼は、爛々と紫色に燃えている。
第五国境騎士団を示す、流水の意匠が施された甲冑に身を包み、見えるのはその紫の双眸だけであっても、間違いようがない。
ティーリオ・エル・ラヴァンドル。
私が婚姻の破棄を一方的に要求した、この王国の第一王子だった。