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26. 祖父の手紙

 ティーリオが泥のように深く眠ってしまったのを確認して、私はその体の下から抜け出した。


 自分の身なりを整えてから、外に控えていた騎士に頼んでティーリオをひっくり返して仰向けに寝かせてもらって、濡らした布で彼の赤くなった目元を拭いた。


 可哀想なティーリオ。私がもう少しバカじゃなければよかったのに。


 夜風に当たって頭を冷やそうと部屋を出ると、近くに控えていてくれたらしいフロックスが、黒いレースのヴェールを手渡してくれた。


 クラル城砦でドレスを仕立て直してくれたおかみさんが、出来上がったドレスを届けてくれた日に、その髪色なら必要なこともあるだろうからと最後にそっと手渡してくれたものだ。


 ヴェールで髪を覆ってから分厚い木のドアを開けると、冷たく心地よい夜風が吹き込んだ。階段を少し登ると、王城をぐるりと囲む外壁の上、哨戒用の通路に出る。向こうには西の見張り塔の明かりが見えているし、外壁の上にはぽつぽつと松明や夜警の騎士のシルエットも見える。


 私は見張りの騎士二人に挨拶して通り過ぎ、三人目の騎士が立っているところまでのちょうど真ん中で立ち止まった。冷たい石組みの胸壁に肘をついてもたれ、思い切り息を吸ってから、ため息ごと吐き出した。


 たとえ聞こえていても、夜警の騎士たちは聞き流してくれるだろう。


 冷たい石に突っ伏していると、かすかに音楽が聞こえてくるのに気付いた。舞踏会でラウリオが、令嬢たちと踊っているのだ。じっと目を凝らせば、大広間の端の窓から赤い絨毯と、忙しく行き交うフットマンたちの姿がちらほら見える。


 行きたくないと言うのは嘘になるかもしれない。


 せっかく王国一美しくて裕福な公爵令嬢に転生したけれど、今の私にはまともなドレスの一枚さえない。


 シンデレラには魔法使いがいたけど、その辺の魔法士くらいの腕じゃ、魔王の力の影響下にある今の私の姿を変えることなんてできないだろう。


 それに、望んでもいないし悪い魔女と取引したわけでもないのに、きれいな脚もなくしてしまった。


「なぁんて、私の方がずっと欲張りだわ」


 冷たい石に向かって呟いてから、私は顔を上げた。夜風にあたりたかったのも確かだが、これは一人で開けるべきだろう、と思ったのだ。


 左手の中にぎゅっと握りしめていた祖父の手紙は多少くしゃっとしているが、そう簡単には折り目がつかないほど分厚かった。


 中に何か入っているのか、ずしりと重い。ティーリオの部屋に入ったとき、咄嗟にドアの傍のランプのところへ置いて良かった。ティーリオは前公爵の印章に気付かなかっただろう。


 鮮紅色の封蝋を折り剥がして封筒を開けると、中からごとりと重いものが出てきた。


 松明の灯りは少し遠いが、目が慣れてきたのと夜目が効くのとで、その重いものが大きなペンダントなのだとすぐにわかった。


 金の竜が翼を広げ、見事なカットの施された大きなダイヤモンドを抱えたペンダントヘッドに、長めの金の鎖が付いている。


「お祖父様ったら、レディへ贈る遺品にしては品がないわね」


 呟いてみたけれど、我ながら寒々しいほどわざとらしかった。


 オレアンド前公爵のものだから、めっきでもないだろうしガラスでもないだろうが、レディの装飾品らしいデザインではないし、オレアンドらしくもないというか、むしろラヴァンドル王室の印章に似たデザインだ。私は首を傾げた。


 手紙に答えがあるかもしれない。私は折り畳まれた便箋を広げた。


ーお前がこの手紙を受け取ったということは、私が失敗したということだ。だから、謝らせてくれ。強欲で無鉄砲で身勝手で、無力な祖父を許してほしい。


 手紙は、謝罪で始まっていた。


ー世界がひとつ丸ごと吹き飛ぶだけの怒りと悲しみの力に、お前が立ち向かう義務や責任などない。


ーどう転んでも世界は滅びるし、私たちははまたやりなおすだけだ。それはどうだっていい。問題なのは、わざわざ外の世界から引きずり込んでおいて、無責任にもお前を救うことさえできないということだ。


ーお前は知っているだろうが、いずれ魔王はお前を捕らえ、その力で世界を滅ぼす。


ー同封したペンダントを肌身離さず身につけなさい。何の役にも立たないと思うかもしれないが、役に立つよう私も最大限努力する。


ーお前は愛する人を守りたいと思うかもしれないが、方法は一つしかない。その意味をお前は知っているだろう。そのたった一つの方法でさえ未来に繋がらないし、その方法をとらなくとも未来はない。


ーどちらにせよ世界は滅びる。だからお前が自己犠牲を払っても、大した意味はない。


ーとはいえ、お前に選べる選択肢などあってないようなものであることに、お前は気付いているだろう。逃げろと言うことは簡単だが、逃げ切るのは不可能だ。


ーここまで運命を変えてくれたお前に報いることさえできない力不足の祖父を、どうか許してくれ。


 走り書きの筆跡で綴られた文章は、思ったほど長くなかった。分厚い便箋のほとんどは真っ白で、ペンダントが包まれていることを隠すためだったらしい。


 祖父の焦りが、手紙を持つ指先から沁み通ってくるようだったけれど、その感情に流されるわけにはいかない。


 下手の考え休むに似たり、という言葉が頭によぎった。私が多少考えたところで、世界を救う画期的な一手なんて、思いつくはずがない。


 そう、祖父だって書いているじゃないか。方法は最初から、一つしかないのだ。やってもやらなくても結局同じだと祖父は言うが、私はその違いを知っている。


 つまり、シェールビアが魔王とともに滅ぼされるかどうかで、その後世界を襲う苦しみの総量は、少なくとも変わるはずだ。ゲームで見た印象だけど。


 はじめは絶望を感じた「方法は一つしかない」という祖父の言葉が、私の前にすっと一本、まっすぐな道を敷いた。


 そう、世界を救う方法は一つしかない。


 どうせループするにしても、最善を尽くせば世界を滅亡させず、そのせいで苦しむ人たちを増やすこともないはずだ。


 私は金の鎖を首に掛け、胸元へペンダントを押し込んだ。


 さあ、これからどうしようか、と思いながら顔を上げた瞬間、強い風が吹いた。


 思わずぎゅっと目を閉じて、目を開けると傍にリンネが立っていた。私と同じように胸壁の石組みにひじをのせ、舞踏会の開かれている王宮の方を見下ろしている。


「知っていたのよね」


 うん、とリンネはこちらを見ずに頷いた。


「僕は全部知っているから」


「でも言えないんでしょ」


 私がため息とともに諦めを込めてそう言うと、リンネは小さく笑った。


「何がおかしいの」


 ごめんね、とリンネは呟いたけれど、私の方を見なかった。


「この場合の言えない、はね。メインキャラクターのいるところで今後のストーリー展開に関係する話ができないのとは違うんだ」


 リンネはしばらく黙り込み、考えているようだった。


「……未来は一つじゃないから」


「いくつくらいあるの?」


「無限さ」


「全部知ってるの?」


「もちろん」


「ハッピーエンドもバッドエンドも全部あるってこと?」


「もっとあるけど大体そういうこと。いつだって全ての可能性がある。二択とか三択ってことはないよ。君のおじいさまが思ってる数の、そうだね、数百倍はあるかな」


「気が狂いそう」


 私がそう言うと、リンネはようやく顔を上げて私を見た。紫色の瞳はとても鮮やかで、何の表情も浮かんでいなくて、なぜだか少し怖かった。


「転生前は普通の人だったんでしょう」


 リンネの目が柔らかく細められた。


 その眼差しは慈愛に満ちて人間離れしていたけれど、ほんの一瞬だけ、深く傷ついて途方に暮れているようにも見えた。


「慣れちゃった。だから大丈夫。……人間は慣れる生き物だよ」


「バッドエンドに慣れたくないの」


 慣れる、と言われて少しカッとなった。私は慌ててごめんなさい、と付け足したけれど、リンネははっと目を見開いてから笑いだした。


「何よ」


 私は恥ずかしくなって言った。リンネは眩しそうに目を細めて私を見つめた。


「んーん。羨ましいだけだよ」


 リンネのその声が優しくて、私はひとつ、言いたいことを飲み込んだ。リンネを助けたいなんて、言えるはずがない。


 だからその代わりに、こう言った。


「頼みがあるの」


 リンネは頷いた。


「もちろん。転生者のよしみじゃなくても、君の頼みなら、何だって」

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