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25. 大きな過ち

 第一騎士団の宿舎の最上階には、司令官クラスの宿泊に使用される客間と夜勤の騎士たちの詰所がある。王城の外壁の上を一周する通路が屋上から伸びており、東西南北の見張り塔にも続いているからだ。


 フロックスについて長い廊下を歩いた先、角を曲がった先の扉の前で、数名の騎士が警護に立っていた。誰も何も言わなかったものの、私の姿を見てあからさまにほっとしたのがわかった。


 司令官クラスの客間とはいえ、内装はそっけなくシンプルだ。それでもクラル城砦よりも部屋もベッドも大きく、装飾は控えめながら天蓋もついている。


 ベッドの傍に座っていたアルマン卿がこちらを振り返り、私を見て立ち上がった。


「少し落ち着かれましたよ。良い頃合いに来られましたね」


 フロックスが何も言わずにやってきて、アルマン卿が譲ってくれたベッド脇の椅子を丸椅子に替えてくれた。ティーリオは白い顔で目を閉じていたが、私が傍に座ると薄く目を開けた。


「飲み過ぎてしまったの」


 私がそっと聞くと、眉を顰めてもう一度目を閉じ、ティーリオは頷いた。


「大臣連中が潰しにかかったんです。娘と踊るか自分達と飲むか、ってね。お酒にはお強いはずだし、顔色が変わらぬものだから、私も気付くのが遅れてしまった。一度もグラスを断らずにいたようで」


 アルマン卿がすまなそうに言った。前後不覚になったティーリオを介抱しようと群がる令嬢たちから、アルマン卿が救い出してきたのだそうだ。


「令嬢たちが怪我をする前にと言ってね」


 アルマン卿は苦笑した。ティーリオはバツが悪いのか具合が悪いのかその両方なのか、黙って目を閉じたままだ。


「替わりにラウリオ殿下がダンスフロアに。全員倒れるまで踊ってやるって息巻いていましたよ」


 ラウリオならやりかねない。嬉しいような心配なような、というのが顔に出ていたのだろう、アルマン卿は悪酔いしているティーリオに遠慮してか、控えめに小さく声を上げて笑った。


「適当なところで止めますよ。さあ、私も宴会場へ戻らねば。残念ながら、我が王もティーリオ殿下と似たり寄ったりの状況でね」


 近くに護衛がいるから何かあったら廊下から呼ぶといい、と言い置いて、アルマン卿はフロックスを連れて部屋から出て行った。




 ぱたん、とアルマン卿が出て行った扉が閉じるや否や、身動ぎもしないでいたティーリオの腕がぱっと伸びて私の腰を捕まえて引き寄せた。驚きはしたけれど、私はそのままティーリオの体の上へ倒れ込んで体を預けた。サルヴァ村では毎晩一緒に眠っていたのに、クラル城砦を出てからこうして抱きしめられるのは久しぶりだった。


「気分は悪くないですか」


 ティーリオの胸へ頬を預けたまま、私は手を伸ばして彼の神を撫でた。ティーリオは頷いた。


「お前が傍にいてくれるなら」


 顔を伏せたけれど、私が笑ったのが抱きしめた体越しにわかったのだろう。ティーリオは少し不満そうに続けた。


「お前のいないところで、お前のことを好き勝手に言われるのをただ黙って耐えながら飲む酒ほど、気分を悪くするものもない」


「この姿についてとやかく言われるのをあなたに聞かせるより、ずっといいですよ」


 私が苦笑すると、ティーリオは枕にのせた頭を少し起こして、私を見下ろした。


「お前の目の前で言わせておくはずがない」


「だからです」


 私はティーリオの頬を撫でた。この部屋に来てすぐに見た真っ白な顔よりは、血色が戻っている。ティーリオは悔しそうに眉を顰めた。


「ラウリオにもそう言われた。王都へ戻るまでの道中、あいつとずっと議論を重ねてきたが、結局お前を伴って堂々と帰城することも、晩餐会に伴うことも、舞踏会に出ることもかなわなかった」


 私の背を撫でていたティーリオの大きな手が髪を梳き、頬を撫でる。私は心地よさに身を任せて目を閉じた。


「ラウリオは正しい」


 ティーリオは呟いた。


「今お前を宮廷へ伴えば、王は後ろ盾であるオレアンド公爵家を失い、俺はお前を永遠に失うだろう」


 ティーリオはそれ以上詳しく話さなかったが、それは魔王絡みのことを一旦置いておくとしても、王国の終わりを意味した。王家に次ぐ財力と権力を誇るオレアンド公爵家の失脚は、宮廷のパワーバランスの崩壊を招くだろう。今でさえ邪魔者扱いされているアルマン卿だって外国出身だし、体よく追い払われてしまう可能性が高い。騎士団が要を失えば、二人の王子がどれほど力を尽くそうと、魔獣たちを相手に王国が耐えられる時間はそう長くはないだろう。


 ティール、と私は彼を呼んだ。澄んだ紫の眼差しが、私を見つめてくれた。


「あなたが傍にいてくれるだけで、私は充分」


 あなたもでしょう、と問いかけると、まっすぐに私を見つめていた目が揺らいだ。


 ベッドサイドのランプの柔らかな光に、虹彩の紫がきらめいている。淡い灰色と紫のグラデーションにほんの少し金の混じった、不思議で美しい瞳に心を奪われていたら、その美しい瞳が優しげに細められた。


「俺はいつのまにか、随分強欲になったらしい」


 ぼんやりとしているうちに、唇に柔らかなものが触れて、離れた。


「傍にいるだけでは足りない。王子妃であるお前を俺が愛しているのだと、知らしめてやりたい。お前の美しさにも強さにも、誰も敵いはせぬのだと思い知らせ、ひれ伏させてやりたい」


 ティーリオが話すたび、吐息が私の唇を甘やかにくすぐった。甘い色をした紫色の目と、とびきり甘い言葉に翻弄されて、私は目を閉じてしまった。だから、ティーリオの声がいつの間にか悲しみを帯びたのにも、気づかなかったのだ。


「堂々とその翼を広げたお前と、あの広間の中央でワルツを踊りたかった」


 もう一度触れた唇は、濡れて涙の味がした。


「ティール」


 目を開けたのと、視界が反転するのとが同時だった。私を見下ろす一対の紫色からぽたぽた大きな涙の粒が落ちて、私の頬や髪を濡らした。


「ティール、ティーリオ」


 何度呼びかけても、深い涙の海の底へ沈んだ紫の瞳に届かない気がして、急に怖くなった。ただ飲みすぎて情緒不安定になってしまっているのだろうなんて軽々しく思っていた自分を、思い切り殴ってやりたくなる。


「ラウリオに言われた。お前を抱くべきだったと。あんなに指輪が歌うほど愛し合っていて、それでも何かを怖れてお前に手出しできなかった俺は、大馬鹿者だと」


 呆然としている私のスカートをたくしあげ、ペチコートの下にティーリオの手が乱暴に入り込んだ。大きな手がウエストを捉え、コルセットの隙間に潜り込む。武骨な指が柔らかな腹を探り、私は息を止めた。


 ティーリオの指が、ちょうど臍の下の境目に辿り着く。下腹部はつるりとして冷たく硬い大蜘蛛の殻に覆われている。


 その先に女の体はない。今の私は、跡継ぎを産めないだろう。私の体がどうなっているのかは、正直私自身にもわかっていない。この体になってからは飲食も必要なく、もちろん排泄もない。今の私を生き物と呼べるかどうかすら、もはやわからない。


「思うさまお前を抱いておけばよかった」


 私の体の上へ崩れ落ちてきたティーリオの大きくて重い体を、私は抱きしめることしかできなかった。私のせいだ。私が、シェールビアでない私自身が、ティーリオに愛されることを自分に許しきれなかったのだから。


 結局そのせいで、『必定の滅びをもたらす美しき災い(シェールビア)』の体は魔王の望む通り、処女のままだ。


 私のせいだと言っても、ティーリオの耳には届かない。あなたのせいじゃない、ごめんなさいと何度謝っても、どんなにしがみついて抱きしめても、ティーリオは深い悲しみに沈んでいって、遠く届かないところへ行ってしまったみたいだった。


 ティーリオが泣き疲れて眠ってしまうまで、私もみっともなく泣き続けることしか、できなかった。

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