2. とりあえず、逃亡
シェールビア・オレアンダはいわゆる悪役令嬢だが、ただの当て馬ではない。
ゲーム中盤のボスキャラでもあり、唯一、プレイヤーがどんなルートを辿ったとしても、生きてエンディングを迎えられないキャラクターだ。
いくら夢の中でも、殺されるのは勘弁してほしい。
『太陽と月の王国物語』のシェールビアは第一王子の婚約者で、ある時は嫉妬に狂い、ある時は婚約者を王位につけるために、またある時は平民出身のヒロインへの不信感を募らせたゆえに、力を欲し、オレアンド公爵家が秘宝として守り、封じてきた魔石から、魔王を解き放ってしまう。
逆に言えば、シェールビアが魔王を解き放たなければ世界は滅亡の危機に晒されないが、それでは物語にならない。だからシェールビアが確実に生き残るためには、うっかり魔王を解き放たないように注意して、物語にもゲームシナリオにもならないような、平凡で平和な日々を送ればいい。
分岐となり得る条件で、ぱっと思いつくものは二つ。
まずは何より、オレアンド公爵家の魔石に近づかないこと。それから第一王子との関係を断ち、公爵家の家督継承権も放棄すること。身の安全のためには、魔王が欲しがっている権力から離れておいた方がいい。
眉間のシワを揉みながら天井を仰いだ時、かちゃりと物音がして飛び上がるほど驚いた。振り向くと、アスタがテーブルへティーセットを準備していた。
「いつからいたの?!」
「申し訳ありません、考えごとをなさっていたようなので……!!」
「ねえアスタ」
土下座せんばかりの侍女には、同情しかない。
「私付きの侍女なんてみんな長続きしなかったのに、あなたはもう三年も一緒にいてくれるでしょう」
アスタが恐々と顔を上げる。結婚して家を出るから、珍しく優しく、センチメンタルな気持ちになっているとでも思っているのだろう。それもきっと長続きしない、と思っているのがバレバレだ。
「あなたにも他の側仕えの者たちにも、随分ひどい態度をとってきたわ。ごめんなさいね」
アスタの顔は、なかなか見ものだった。シェールビアは自分より身分の低い者に謝るような人間ではない。私はなんとなく、してやったりという気分だった。なかなか愉快だ。
「お茶をいただくわ。お父様をお呼びして」
シェールビアの父、オレアンド公爵は、国で一番裕福な商家からの入婿で、毒にも薬にもならない優しい父親だ。気分屋で激情家の娘に頭が上がらないのだろうということは、ほとんど本人の登場しないゲームシナリオからも察せられる。
だから、この婚姻をなかったことにして家督の継承権をも捨て、家との関わりも一切捨てる、と言った時、おろおろと戸惑いはしたものの、叱責したり引き止めたりすることはしなかった。泣きながら、それでも父はお前を愛しているから、困ったら頼って欲しい、とさえ言った。
こんな父だから、当主しか立ち入りを許されない筈の秘宝の間へ、娘を入れてしまうのだろう。
アスタに借りた地味なドレスに着替え、目立つ紅い髪をスカーフで隠して、使用人たちの移動のために雇われていた粗末な馬車の一台に乗り込んだ時、なぜかアスタも乗ってきた。
「あなたは来なくていいのよ」
「そんなわけにはいきません」
アスタは、私の向かいに腰を下ろした。
「私は昨日付けで公爵家との契約が終わり、今日から第一王子妃付きの侍女となる予定でした。まだ契約書は交わしていませんから、今はどうしようと自由の身です」
馬車が動き出した。
「それはそうだけど、自由の身なのにわざわざ私なんかに付いてくるの?」
「お嬢様」
「お嬢様はもうやめるの。ビアと呼んで」
「ではビア様」
まあいいわ、と妥協すると、アスタはずいとこちらを覗き込んだ。
「私は三年、ビア様の一番お側におりました。ですから、今のおじょ……ビア様がどんなに妙で、どんなに異常事態にあるのかが正確に理解できる、唯一の人間だと自負しております」
アスタがあまりにはっきり堂々とそう述べるので、私は正直、驚いていた。さっきはこちらの一挙一動に怯えてすらいるように見えたのに。
「以前のお嬢様であれば、私の古着、それも朝一度着たドレスなど、たとえ命の危険から身を守るためであっても着たりはなさいません。結婚式の間に何が起きたのか、私めには知りようもございませんが、それでもシェールビア様は私の、大切な主人です」
若干気圧された私は、もぞもぞと固いシートの上で座りなおした。
「……あんな扱いを受けておいて、よくそんなふうに言えるわね」
多少呆れて、ため息をついた。シェールビアの記憶は私にきちんと引き継がれているから、一番近くにいてくれたアスタに、シェールビアがどんな風に日々八つ当たりし続けてきたかもわかっている。
「まあいいわ。でも、契約はないし見返りもないわよ。友人として来てくれるなら止めないけれど、それでもいいの?」
もちろん、とアスタは満足そうに頷いた。三年もシェールビアの侍女を務めただけあって、変人なのかもしれない。
「そういえばビア様、この馬車はどちらへ?」
「国境近くの公爵領の村に向かうつもりだけど、逃げ出せるならどこでもいいわ」
カーテンの隙間からちらりと覗いた窓の外は、まだ清々しい快晴に輝く首都の街並みだ。
「国境近くでしたら、五日から七日ほどかかりますわね」
「そんなに遠いの?」
「ですからお供しているのです」
アスタは不敵に笑った。
「おじょう……ビア様のお力に、きっとなれますわ」
アスタが御者と打ち合わせ、乗り換えの馬車を探し、宿を選んで決め、道中の食糧を調達し、何くれと世話を焼いてくれるので、私はやめたはずの貴族令嬢の旅と何も変わらぬ上げ膳据え膳状態で、旅は十日目を迎えた。
アスタは最初、五日から七日と言ったが、旅慣れないシェールビアのために、旅程を長めにとったのかもしれない。
途中の村で、アスタは染粉を調達してきて、私の髪を染めてくれた。鮮やかな紅の髪はオレアンド公爵家の血を引く者の証とも言えるし、逃避行するにはどこへ行くにも目立ちすぎる。染め上がりは光に透けると紅く輝く濃い茶色で、暗いときにはほとんど黒に見える。お陰で、髪を隠す必要がなくなった。
「アスタがいなかったら、私、どうしていたかしらね」
シェールビアの記憶には、この旅路で役に立ちそうな知識がほとんどない。
「もし、なんて考えなくて良いのです、ビア様」
アスタはゲーム上には名前のない存在だった。シェールビアの背景に描かれていた、地味な茶色の髪を結い上げ、地味な紺色のドレスを着た侍女。あれがおそらくアスタだろう。だからアスタと行動を共にしても、おそらく運命には影響しないと思われる。
これまでに、私はもう元の世界で目覚めることはないのだろう、と観念していた。夜眠り、朝目覚めるたび、シェールビアとして目覚めるたびに、これがただの夢ではないという確信を強めていった。
それならば、シェールビア・オレアンダとして、新たな人生を歩み始めるしかない。
新たな人生。
私は新たな人生を歩むことを、ずっと望んでいた。元の世界での私をやり直すことはできないが、シェールビアの人生をやり直してあげることならできる。多分。だから、最善を尽くすしかない。
「ビア様」
馬車のカーテンの隙間から外を覗いたアスタが、こちらを見てにやりと笑った。そんな顔もするのか。
「ご覧くださいませ。私の故郷、サルヴァ村が見えてきました」
そう言って、カーテンを開け放った。
馬車は橋を渡り、緩くくだる坂道を走っていた。遥か向こうまで広がる牧草地が、風に波打っている。抜けるような青空の下、羊たちの姿が雲のようだった。牧草地の向こうに、朱い屋根の小さな家々が軒を連ねているのが、サルヴァ村の集落なのだろう。
「絵本の世界みたいだわ」
「きれいなのは、遠くから見た時だけですけれどね。ビア様のお気に召すかどうかはわかりませんけれど、私の大切な、大好きな故郷です」
どうです、と振り返ったアスタが、一瞬驚いた顔をして、それから微笑んだ。
「ビア様」
アスタはハンカチを渡してくれた。
「もう何も、心配は要りません」
私はその時、自分の涙の意味も、アスタの言葉の意味も、全く理解できていなかったのだ。