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17. さよならなんてできるはずない

 フロックスが出て行って五秒待ってから、起き上がった。怠いけれど、動けなくはない。


 地下牢の出入り口の錠に、大蜘蛛の脚の爪先を入れて探ると、簡単に開いた。器用な生き物だ。


 階段を登り、地上に出るドアを少しだけ開けて外を伺い、誰もいないのを確認して廊下を進む。足音がしなくて、かさかさ変な音がするのが奇妙で面白くて、悲しかった。


 東棟の方は騒がしかった。負傷兵は皆こちらに集められているはずだ。


 私は無人の小部屋を見つけて入り込み、大急ぎで蜘蛛の巣を張った。畳んでいた翼を広げ、全身に蜘蛛の巣を纏う。


 オレアンドの一族は魔法を使えないが、私の体の一部になった魔獣の力は使えるらしい。大蜘蛛の蜘蛛の巣は、纏えば一時的に姿を隠すことができる。手に入れた体はその使い方も使い道も、よく知っていた。だから、教わらなくても蜘蛛の巣も張れるし空も飛べる。


 私は小部屋の窓から出て、六枚の翼を広げた。




 ずっと畳んで小さくしまっていたからだろう、翼を広げると気持ちよかった。邪竜たちもこんなふうに感じることがあるのだろうか。


 私はぐるりと東棟の周りを飛んだ。ティーリオの姿を、一目だけでも見たかったから。 


 覗き込むどの窓にも、負傷兵がいた。皆、魔狼(ワーグ)に体を食いちぎられたり、大蜘蛛の毒を吹きかけられて皮膚が爛れたりしている。魔狼(ワーグ)の牙には毒があって傷口を腐らせてしまうし、大蜘蛛の霧状の毒を吸い込むと、肺から爛れて長い間苦しんで死ぬことになる。死人は出なかったとフロックスは言ったけれど、この中には二度と兵士には戻れない人たちがきっとたくさんいる。


 悲惨な戦いだったとか多くの死傷者が出たとか、一文で表現されていたその一文には、たくさんの人の人生が損なわれたことが、あまりにもあっけなく書かれていたのだ。


 最上階の東側の個室に、私はようやくティーリオを見つけた。窓が開け放たれ、白いカーテンがはためいている。人手が足りないのだろう、この国の第一王子の眠っている部屋なのに、誰もいなかった。


 私は窓から入ってベッドの傍へ降りた。ティーリオは白いシーツの上で、白い顔をして眠っている。黒い髪は清めてもらったのだろう、もう血に汚れてはいなかった。微かに胸が上下しているのを見たら、涙が止まらなくなった。


 眠っているティーリオは、苦しいほど美しかった。


 ティーリオから目を逸らすと、壁に掛かっていた鏡の中の自分と目が合った。私はその鏡で初めて、今の自分の姿を眺めた。


 禍々しい鉤爪のついた、六枚の漆黒の翼。


 破れたドレスから溢れている、八本の大蜘蛛の脚。


 アスタが目立たない色に染めてくれた髪は、元の深紅よりももっと派手な赤紫に変わっていた。好き勝手にうねる髪はかつてシェールビアが誇っていた美しさを保っていたけれど、今ならわかる。


 これはオレアンドの、魔王の力の色だ。


 何より泣き濡れた紅い双眸がぎらぎらしたショッキングピンクに輝いていて、邪竜の翼より大蜘蛛の脚より、人間離れして見えた。


 私はもう、大好きなティーリオの傍にふさわしい人間ではない。


 いや、最初からふさわしくなんてなかったのだ。わがまま放題でお高くとまったシェールビアも、人生を転落し続けるアラサー(わたし)も。


「あなたの傍にいた時間は、人生で一番、幸せだった」


 呟くと、余計に涙が出た。


「大好き。愛してる。ティール、私のティーリオ。ちゃんと言えばよかった」


 大好きな紫の涼しげな眼が優しく細められるところは、きっともう二度と見られない。


 私は左手の薬指を探った。体温でぬるまった金属は私の身体の一部であるかのように存在すら感じさせることなく、それでも確かに、そこにあった。


 ちり、と胸の奥が痛んだ。指輪をそっと右手の人差し指と親指でつまみ、引き抜く。胸の奥の痛みは耐えがたいほど、胸の奥を地の底へと引きずり落とすような痛みになった。


 けれど今度こそ私は、その指輪を外した。彼が二度と、私を探さなくて済むように。誰か別の人と愛しあって、人生と指輪を分け合えるように。


 そっとティーリオの胸の上に外した指輪を置いて、彼の左手をとり、指輪の上にのせた。


「さよなら」


 それから、これが最後の最後だから、ティーリオの唇にキスをした。胸の中が、もう伝えることもないティーリオへの気持ちで膨れて苦しくて破裂しそうだったけれど、唇に触れた柔らかな感触が温かくて、愛おしくて嬉しかった。


 あなたが生きていて、本当に良かった。


 その瞬間、瞼の向こうがとても明るくなった気がした。目を閉じた向こうで、フラッシュが焚かれたみたいに。


 唇を離して目を開けると、ティーリオの黒くて長い睫毛が揺れた。私は慌ててベッドから離れ、窓に脚をかけた。


「ビア」


 呼びかけられてぎょっとした。急拵えだったからだろうか、姿を隠してくれていた蜘蛛の巣はもう消えてしまっていて、ティーリオが紫の綺麗な目を丸くしている。そりゃそうだ、私はこんな化け物の姿をしているのだから。


 私は笑おうとした。涙は溢れたけれど、とにかく笑って、窓枠を蹴った。


「義姉さん!」


 部屋の向こうの廊下から、ラウリオの声が聞こえたけれど、振り返らなかった。六枚の翼は、私を空へ連れ出した。東棟が、クラル城砦全体が騒がしかった。私の姿を見られたのかもしれない。今の私の姿は、どう見ても人間じゃないから。


「シェールビア様!」


 フロックスの声が聞こえた。


 その時、ズバン!と音がして、左の一番上の翼を、衝撃と焼けるような痛みが襲った。残り五枚の翼で、なんとかバランスをとって上昇しようとする。


 続いて右の一番上、それから右の真ん中に痛みが走った。だめだ、落ちる。


 逆さに、フロックスの顔が見えた。


 アスタは、あの子もクラル城砦の陥落で死んでしまうはずだったと言っていた。繰り返す運命の記憶を持っているのだとも。そうか、フロックスは運命を繰り返しながら訓練を積んで、弓の名手になったんだ。私は初めて会った時、その腕前を間近で見て知っていたのに。


「ビア!!」


 ティーリオの声を、聞いたような気がした。






 夢も見ないで眠っていたらしい。ティーリオの匂いがしてはっとしたけれど、瞼が重くて開かなかった。


「ビア、もう少し眠りなさい」


 温かな指先が、開けようと四苦八苦した瞼を撫でた。広い胸に抱き寄せられて、翼の付け根の間をそっと撫でられると、幸せすぎて苦しかった。


 あ、これは夢なんだな、と思うと安心できた。私は抱きしめてくれる体にすり寄って、もう一度眠りに落ちた。






 もう一度目が覚めた時、天井に見覚えがなかった。白い漆喰の、飾り気のない天井。


「おはよう、義姉さん」


 ラウリオが本を開いて、ベッドの傍の椅子に座っていた。


「慌てて起きちゃダメ、まだ麻酔が残ってるかも」


 ラウリオはそう言って本を閉じ、ベッドサイドに置いていたカップをこちらへ差し出した。


「化膿止めの薬湯、飲める?」


 濃い色の液体はいかにも苦そうだったが、蜂蜜か何かで甘味をつけてくれていたのだろう、薬草の香りも良くて、まずくはなかった。


「ティールは団長命令で、見回りに行かされてるよ。追い出さなきゃ医者さえ君に近づかせなくてね。痛いところとか、ない?」


 私は頷いた。ぼんやりしているのはきっと、ラウリオの言っていた麻酔のせいだろう。


「かなりの高さから落ちたけど、目立った外傷はなかったって」

「また死ねなかったのね」

「また?」


 私は頷いた。


 シェールビアになる前、自転車で帰宅しようと横断歩道を走っていて、曲がってきた車に轢かれたことがあった。体が宙に飛んだときは、あ、死ぬかな、と思ったのに、救急隊員も搬送先の医者も笑ってしまうくらいに無事だった。自転車は思い切りひん曲がっていたし、頭をぶつけた車のフロントガラスにもひどいヒビが入っていたのに、私は膝を擦りむいただけ。面白おかしく話してあげたいけれど、ラウリオに話すには随分アレンジが要る。


 死にたいと思っていても、人は意外と丈夫でなかなか死ねないものだ。なのに、死にたいわけでもない人は不意にあっさり死んでしまうものでもある。


「今度は地下牢じゃないのね」


 広いけれどあっさりした内装で、家具もシンプルだ。壁に見覚えのある鏡が掛かっているので、私がティーリオを見つけた部屋だろうと見当がついた。


「義姉さん、何があったか覚えてる?」


 ラウリオは首を傾げて私を見た。


「フロックスに射落とされたことなら」

「その前だよ」

「あなたに見つかって、慌てて逃げたわ」

「うーん、もうちょっと前」

「指輪を外して、ティーリオに返した」


 私は下を向いて、もう何もない左手の薬指を弄った。ラウリオは軽く眉を顰め、その左手を取って、自分の手を重ねてくれた。


「指輪が泣いてたんだ。それで慌ててここに来たら、君がいた。君の悲しみが流れ込んでくるみたいで、僕も苦しかったよ」


 ラウリオは笑って、ぎゅっと私の手を握る手に力を込めた。


「話が逸れちゃった。その前、何したか覚えてる?」


 私はさすがに躊躇った。けれどラウリオがじっと私を見つめて言葉を待っているので、観念した。


「ティーリオにお別れのキスをしたわ」


 ラウリオがきっとその時だね、と頷いた。


「その時君は、浄化と治癒の魔法を使ったんだ」

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