15. とうとう終わりが始まる
私たち二人ともが落ち着くまでに、しばらくかかった。
「この子がうちにいるって、どうやって知らせようか」
「兄が一度こちらへ戻ってくれるといいんですが……」
村中総出で探している女の子はここにいるけれど、ティーリオの話ではあちこちで地鳴りがして地獄の口が開く前兆があり、魔獣の痕跡も見つかっているという。私が今のこのこ外へ出ていくのは得策ではないし、聖水を含ませたとはいえ、一度何かに体を乗っ取られた少女と二人きりで待つのも不安だ。
アスタが少女を背負って行こうかと無茶なことを言い出した時、ごう、と聞いたことのない音で地面が鳴りはじめた。私は足元が揺れる覚悟をして、とっさに暖炉の火に灰を被せたが、音ばかりで揺れる気配がない。
「風……ではないようですね」
アスタが窓の外を覗いているうちに、地鳴りがおさまった。私たちは次の何かを身構えて待ったが、何も起きない。緊張感を孕んだ静寂に包まれて、自分の動悸がうるさくて吐きそうだった。
その時、馬の蹄の音が聞こえた。ドアへ駆け寄り、開け放つ。
「アスタ!ビア様!」
「兄さん!」
アスタがポーチから飛び出した。
この状況で、やってきたのがアスタの兄だったことにひどく落胆した自分が、なんだかおかしかった。
「兄さん、あの子が見つかったの。ここへ来たから中で寝かせてる」
少女が闇の力に体を乗っ取られていたのだと、アスタが簡単に顛末を話した。アスタの兄は馬から降り、妹に手綱を渡した。
「アスタとビア様は、あの子を連れて村の公会堂に避難して下さい。オレは別の馬で、クラル城砦に戻ります」
「ティール様はクラル城砦ですか」
アスタの兄は私が口を挟んだことに驚いたようだったが、頷いた。
「王都からの応援は呼びましたが、今夜には間に合わないでしょう。今はあの方だけが頼りです」
「私も行きます」
「ビア様!」
アスタを片手で制した。私の体は、シェールビアだった頃の尊大なふるまいを覚えていたらしい。
「魔王は私を狙っています。公会堂に行けば、皆を巻き込むでしょう」
「しかし」
「誰も死なせません」
アスタの兄は怯んだ。彼はまだ何も知らない。それでも彼はアスタを見てから私に視線を戻し、頷いた。
「わかりました」
少女を抱いてアスタの乗った馬が月明かりの中を小さく遠くなっていくのを見送り、私はアスタの兄が戻ってくるのを待った。無意識に左手の結婚指輪を弄っていたことに、紫の小さな石を眺めてはっと気付いた。
指輪の歌うのが、私にも聞こえればよかったのに。そうすれば、彼が無事でいるに違いないと思えただろう。
アスタの兄は私を後ろに乗せた。ティーリオは私を自分より前に乗せたから、これは初めてだ。
「お嫌でしょうが、オレの腰にしっかりしがみついて、体をオレの背中にくっつけていて下さい。体の力を抜いて、馬のリズムを邪魔しないように」
アスタの兄の馬は、月明かりの下をとんでもなく速く、滑らかに走った。めちゃくちゃに揺れはしたけれど、落ちそうになる恐怖もなく、舌を噛みそうにもならなかった。ティーリオの馬に乗せられてクラル城砦に向かった時は景色を見る余裕どころではなかったが、あれで少し慣れたのかもしれない。
坂の上あたりでなんとか振り返ると、村の広場の辺りに松明の群れが見えた。アスタたちは無事公会堂に着けただろうか。
馬は街道に入り、やがて松明に照らされるクラル城砦の城壁が見えた。
「フロックス!」
城門の見張り台にいたフロックスを、アスタの兄が呼んだ。
「ティール様は!」
「さっき国境の森に……シェールビア様もいらしたんですか?!」
フロックスは私の姿を見るや、見張り台から駆け降りてきた。
「お久しぶりですね、この間はあなたのおかげで命拾いしたわ」
フロックスは私を横目でこっそり睨んで、どうしてまたこんな危ないところへわざわざいらしたんです、と小声で文句を言った。残念ながら聞こえているし、顔にはこれだから貴族のわがまま令嬢は!と書いてある。
「私がいればどこでも危ないわ。ここだってそうだけど」
だからといって私が捕まったら、魔王が復活してしまう。
「村よりまだいいでしょ、ここにいるのは手練れの騎士ばかりなのだし」
フロックスとアスタの兄は、顔を見合わせた。
「シェールビア様ってこんなでしたっけ?」
「オレが知るか」
その時、ズシン、と地響きが鳴り響いた。
「まずい!」
こりゃどっか開いたな、デカいぞ、とアスタの兄が言う。
「シェールビア様、とにかく奥へ!」
フロックスに馬から降ろされ、城門の中へ入った。アスタの兄とはそこで別れ、舌打ちをするフロックスについてクラル城砦の奥へと向かう。
「フロックス!私を囮にできない?!どれだけたくさん何が来ても、どうせみんな私を狙うわ」
「は?!素人が馬鹿なことを言わないでください、大体あなたが奴らに連れてかれたら、世界が滅ぶでしょうが!」
慌てたのかフロックスがそう言ったので、私は笑った。
「笑いごとじゃないですよ?!」
「聞いて」
私はフロックスの袖を掴んで引き留めた。
「急ぐんです。あなた物分かりが悪いんで、安全な地下牢にでも」
「ダメ。地下牢を狙われたら城砦が落ちるわよ」
「あなたがいるとバレなきゃ狙わないでしょう」
「バレてるのよ」
フロックスは私の手を振り払った。
「じゃあどうするんです!団長もティール様もいないし、僕はただの従騎士ですよ?!」
「そうなのよ、困ったわね」
フロックスは深々とため息をついた。
「でも、まだクラル城砦は陥落してないし、あなたもアスタのお兄さんも死んでない。今までとは違うんだから、生き延びましょう」
私がそう言うと、フロックスは目を丸くした。
「シェールビア様」
彼が何かを言おうとした矢先、がらんがらんと鐘が鳴り響いた。
「門の方です!」
戻りましょう!とフロックスが先に立って駆け出した。
負傷兵が次々に運ばれてくる。私たちは担架を避けながら、狭い通路を門に向かって走った。
「団長!」
フロックスが門の手前で、第五騎士団長の汚れた白いマントを見つけて叫んだ。振り返った男は砂色の髪に青い目、日によく焼けた、辺境の騎士らしい屈強な体格の持ち主だ。
「フロックス!そのご婦人は」
「初めてお目にかかります、シェールビア・オレアンダ・ラヴァンドラです。第五騎士団長様」
「シェールビア様がどうしてこんな」
「状況は」
私が聞くと、騎士団長は不愉快そうに眉を顰めたが、こう答えた。
「地獄の口は確認済みのものだけで十五箇所。うち七箇所がロカイ国境の向こう側だ。ティーリオ様が魔法士たちと爆破を試みているが、魔獣の数が多すぎる。負傷兵を城砦へ帰すのに、ティーリオ様たちが足止めを」
その時、城砦の上でヒュウ、と風を切る大きな音の後、明るい光が弾けた。
「信号弾だ。あとはあいつらの撤退を待って、城門を閉める」
信号弾の白い火薬が燃える光に、魔獣の血に汚れた騎士団長の顔が青ざめて見えた。
城門を閉めるということは、籠城戦を覚悟をするということだ。通常の戦であれば有効かもしれないが、地獄の口が開いたままの状態では魔獣たちが文字通り無限に現れる可能性が高い。私が何か言う前に、騎士団長がこちらへ屈み、囁いた。
「王子妃、言いたいことはわかるが黙っていてくれ。士気が落ちると死人が増える」
私は頷いた。私がここにいるのだから、サルヴァ村の被害は最小限で済むかもしれない。魔獣たちは私を目掛けてやってくるだろう。
「来た」
団長が呟いた。騎馬の一団がこちらへ向かって駆けて来る。フロックスは見張り台に駆け上がった。
「魔狼と大蜘蛛の群れです!」
「弓矢隊!火矢を点せ!蜘蛛どもを狙え!」
団長の号令が飛び、城内が静まり返った。駆けて来る騎士たちの蹄の音が聞こえてくる。随分近く感じるが、団長はまだ引き付けるつもりらしい。数秒の後、団長が叫んだ。
「放て!」
城壁の上から夜空へ赤い炎が弧を描き、尾を引いて放たれた。
「怯みましたが効いてません!敵最前列は魔狼の群れ!」
見張り台のフロックスが叫んだ。
「閉門準備!」
団長が指示を叫ぶ。駆けて来る騎士団の馬の蹄の音で、地面が揺れるような気すらした。
「落とせ!!」
騎士団の馬たちが門を潜るか潜らないかのうちに、団長が叫んだ。大きな鎖と滑車が凄まじい音を立て、轟音を上げて城門が落とされた。
「全員退避完了!」
「弓矢隊、蜘蛛どもを火矢で牽制しろ!糸を掛けられるな!」
私は団長の傍から駆け出した。ティーリオの姿が、まだ見つけられない。
「負傷者は東棟へ運べ!」
「余裕のある魔法士は重傷者に応急治癒魔法を頼む!」
騎馬の群れの中で、私はとうとうティーリオを見つけた。ぐったりと体を馬に預けていて、騎士たちが二人がかりで馬から下ろしている。
「ティール様!」
駆け寄ると、ティーリオを馬から下ろしていた騎士たちが、悲痛な面持ちで私を振り返った。
「ティール様」
私の目には彼らなど入らなかった。艶のある黒髪が血に濡れて張り付いているが、魔獣の血なのか彼の血なのかすらわからない。私が名前を呼んでも、ティーリオはぐったりとして目を開けさえしない。
「まだ息はありますが、魔狼の牙を受けられています」
騎士の一人が私にそう言った。王族を前にした魔獣は怯み、逃げるはずだったのに。
「数が尋常ではありません。ティール様お一人では」
もう一人がそう言うのが、遠い場所で聞こえた。
意識が遠のいた。気絶したのではなく、一歩引くように。私は私の感覚と行動を少し後ろから、靄の向こう側からぼんやりと眺めるような場所にいた。
全身の毛が逆立つみたいに一瞬で全身を怒りが満たしたのを、これはただの感情じゃないなと他人事のように思った。怒りというより、もっと暗くて力強くて具体的なもの。私の足は城壁へ登る階段へと向かった。
「王子妃!」
第五騎士団長の、叱責するような声が聞こえた気がする。私は石造りの階段を数段飛ばしに駆け上がり、城壁の上で叫んだ。
――来い。魔王を制するオレアンドの血に従え。
後でフロックスに聞いたところ、私の声は邪竜によく似ていたという。紅く燃える両眼が爛々と松明に輝いて、フロックスのいた見張り台からもよく見えたとも。
邪竜の声が私に応え、あの忌まわしい三対の翼の化け物が上空に現れる。私は手を上げ、邪竜の鉤爪を掴んだ。
「シェールビア様!」
悲痛な声で呼んでくれたのは、フロックスだったと思う。私はその声の方へ微笑んで、城壁を蹴った。




