14. モブだけが知っている
「そこから離れなさい!」
アスタの怒鳴り声が聞こえた次の瞬間、ガシャン!とガラスの割れる音がした。あれが入って来る、と身構えたが、瞬きの間に窓の外の影が消えていた。続いて、ドシンと何かが落ちた音。
私は慌てて、窓に這い寄った。
見下ろすとアスタがこちらへ手を上げた。その足元に少女が倒れているのが見えた。
私はガクガク笑う膝を叱咤して立ち上がり、転げ落ちそうになりながら階段を降りた。
「アスタ!」
玄関のドアを開けると、ポーチの階段に座り、少女の頭を膝に乗せたアスタが苦笑していた。
「ビア様、こういう時は不用意に開けてはいけませんよ。私が偽物だったらどうするんです」
「あっ」
「大丈夫。私は本物だし、この子も無事でした。怪我はさせちゃってるけど」
アスタは少女を抱いてコテージの中へ入った。少女の髪は濡れていて、こめかみから血が流れている。
「間に合って良かったです」
アスタは少女を、ソファに寝かせた。清潔なタオルを濡らして少女の顔を拭き、傷に布を当てて押さえた。ガラスで切ったような傷だった。
「目に当たらなくてよかった」
アスタは心底安心したように、おさげの解けた少女の髪を撫でて、ため息をついた。
「さっきのは」
「王都の聖堂で分けてもらえる、聖水の小瓶です」
アスタはスカートのポケットからもう一つ小瓶を出した。瓶は持ち歩くのが怖いくらい、ごく薄いガラスでできている。アスタはその瓶の栓を抜き、きれいなタオルに染み込ませて、幾度か少女の唇を湿らせた。
「この子も朝には目を覚ますでしょうから、安心してください」
「随分落ち着いてるのね」
腰が抜けて膝が笑って、全く動けなかった自分が情けなかった。クラル城砦で、邪竜に襲われた時もそうだった。あの時もフロックスが助けてくれなければ、どうなっていたかわからない。
「私のせいね」
ごめんね、と私は少女の柔らかい金色の髪を撫でた。
「ビア様のせいでは」
「私のせいなのよ」
「違います」
アスタが断言するので、私は少し怯んだ。アスタは一度口を閉ざしてから、諦めたようにこう言った。
「サルヴァ村は、どうしたって滅びる運命なのです」
私は唖然として、アスタを見つめていた。
「どうして」
「どうしてでしょうね、理由なんてあるのかしら。私たちだって知らない方が幸せだったと思います」
私たち、とアスタは言った。
「詳しく聞いてもいい?」
「頭が変だと思わないんですか」
「結婚式を境に、突然豹変した主人に言う?」
私は笑い出しそうなのを、なんとか我慢した。アスタは三秒だけ考えてからぱっと顔を上げ、私を見つめる目が、きらりと輝いた。
「ビア様、もしかして」
「後でね。先にアスタの話を聞かせて」
アスタは頷いて、覚悟を決めるように深呼吸をして、それからこう言った。
「この人生が何度目なのか、……もうずっと前から、わからないのです」
心臓が止まるかと思った。
「あなたはこの人生がどうなるか、知ってるってこと?」
「これまでなら。でも今は、これまでになかったことばかり」
「結婚式直後に仕えてる主人が豹変したり?」
神妙な顔をしていたアスタがやっと、ほんの少しだけ笑った。
「ご結婚されるのも初めてでしたよ」
「さっき、私たちって言ったわね。あなた以外にもいるの?」
「サルヴァ村には、私含め四名。クラル城砦に三名。それから」
アスタは言いかけて、思いとどまった。
「ビア様はこんなことを聞いて、どうなさるんです」
「あなたを殺すのは私だったわね」
言いたくなかった。けれど、もしアスタが本当に、繰り返すシナリオの記憶を持っているのなら。
「ビア様」
「あれはあなたね。私は解放した魔王に体を貸して、その力を試すために、あなたの心臓を握り潰して、殺してしまう」
「ビア様」
アスタは私を抱きしめてくれた。いつも、アスタを残酷に殺してしまう私を。
たった一文と、血飛沫のエフェクト。
ーーシェールビアは廊下に控えていた侍女を呼ぶと、優雅な指先の動き一つで、その心臓を握り潰した。
たったそれだけで、アスタは何度も、何度も何度も、私に殺されていたのだ。私が、誰かとの恋を実らせようとするたびに。
「ビア様」
崩れるように床に膝をついた私を抱きしめたまま、アスタは続けた。
「私もビア様に謝らねばならないのです」
口の中がからからに乾いて、言葉どころか涙さえ出なかった。
「……ビア様のご結婚から、私たちの知らないことばかりが起きています。……ビア様をここへお連れしたのは、私が」
その残酷な選択を私が口にしようとしたのを、アスタは手のひらで遮った。
「どうかお許しを。これは懺悔ですから、私に言わせて下さい。……ビア様が死ねば、魔王は復活できないのではないかと思ったから」
「アスタ」
「私は公爵閣下を言いくるめて、いずれ魔獣たちに襲われるこの村へビア様を連れてきました。……ティーリオ様があんなに早くビア様を見つけられたのも、クラル城砦に滞在なさったのも、想定外でした。でも」
私は、震えているアスタの背中を撫でた。いつも頼りになる姉のようなアスタは、今は妹のようにたよりなく、細く小さく感じられた。
「クラル城砦は落ちなかった。この村も無事でした。あの夜死ぬはずだった兄も、フロックスも、……騎士団員も、村の誰も、死ななかったんです」
アスタは泣きながら、言葉を続けた。
「私たちはいつも、できる限りの備えをしていました。聖水や武器を備えて、訓練を重ねて。でも一度も、成功しなかったのに。……ビア様が、この村を救ってくださったのです」
「アスタ、それは違うわ」
「違いません」
「聞いて。今度は私の番よ」
私は腕を解いて、アスタを見つめた。
「あの子は、……あの子の体を乗っ取った何かは私を、オレアンドのお姫様、魔王様のお嫁様、って呼んだ。魔王は私を諦めてはいないのよ。だからこの災厄は正真正銘、私のせい」
邪竜が私の血を通して魔王に呼びかけたあの時、魔王もその配下たちも、王都にいるべき私がこの村にいることを知ったはずだ。だから、迎えを寄越した。
「私は村を救ってなんかいない。私は何もできない役立たずだわ。さっきだって、腰が抜けて動けなかった。アスタがいなければ、魔王のお迎えは私を捕まえていたかもしれない。アスタがいなければ、家を見つけることも、暖炉に火を入れることも、洗濯をすることもできなかった。あなたが私を助けてくれたの」
今度は私が、アスタの肩を抱きしめる番だった。




