12. 静かな、幸せな時間
村の手前で王都へ帰っていくラウリオや第一騎士団と別れ、ティーリオと二人きりになった。クラル城砦に向かった時と同じようにティーリオと一緒に馬に乗ったけれど、数日前とは比べ物にならないほど、卵だって割れないくらいにそっと進んでくれた。
まだ牧草の上には朝露が残っていた。朝の風はひんやりしていたけれど、ティーリオは私の体にしっかりマントを巻きつけてくれていたし、支えてくれるティーリオの体は暖かかった。
サルヴァ村を見下ろせる坂の上で、ティーリオは馬をとめた。村は何も変わらず平和なまま、そこにあった。草を食む羊たちの群れも、広い畑にぽつぽつと見える農作業する人たちの背中も、煙突から立ち昇る煙も、家々の庭先に白く翻る洗濯物も、どこかから聞こえる子供の笑い声も。
「ビア」
ティーリオは私を抱く腕に、ぎゅっと力を込めた。背中が震えてしまっていたのだろう。泣かずにはいられなかった。
「お前がどれほど悲惨な運命を見たのか、俺にはわからないが」
背中越しにティーリオの声が響くと、余計に涙が止まらなかった。
「クラル城砦とサルヴァ村を救った幸運は、お前が別の世界から連れてきたのだと思うのは、都合が良すぎるだろうか」
それを聞いて思いきり泣き出してしまった私の頭を抱いて、ティーリオは私が落ち着くまでそのままでいてくれた。
数日ぶりの家へ近付くと、ポーチにアスタが座って待っているのが見えた。私が手を振ると、手を振りながら駆け寄って来てくれた。
「ビア様!」
「アスタ!」
「ビア様、よくぞご無事で……!」
馬から降ろしてもらうと、私はアスタを抱きしめた。
「あなたも無事でよかった。サルヴァ村も」
「私がこんなところへお嬢様をお連れしたせいで、こんな目に遭わせてしまって」
アスタは小さくなって肩を震わせていた。ずっと姉のように頼りにしてきたけれど、なんだか急に妹のように思えてしまう。
「お前がお嬢様を連れてきたお陰で、王国は命拾いしたぞ」
馬をいつもの木に繋いで戻ってきたティーリオが、ぽんとアスタの背を叩いた。
「ビアが来なければ俺はここに来なかった。地獄の口の発見も遅れただろうし、第五騎士団だけでは抑えきれなかっただろう。ビアの言う通り、この村も無事ではいられなかったかもしれん」
アスタはそれでも、すっきりしない顔をしていた。責任感の強い子だから、私を全面的に預けた父の期待が重かったのだろう。
「アスタ、お前の家で俺の馬を預かってくれないか」
「馬房には空きがあったはずですし、預かれると思いますが」
なんで?とアスタの顔に書いてある。今までも雨の日などはアスタの兄の馬房に馬を預けているし、改めて聞くことでもない。
「俺もビアと一緒に、ここに住もうと思う」
「ええ?!」
「でしたら、兄に言って馬小屋を作ってもらいましょうか」
「そうだな、ゆくゆくはそうしても良いかもしれん」
「あの、ティール様」
一緒に住むですって??
「休暇を取ったから、三日は一緒にいてやれる」
どういうつもりなのか確認したかったのだが、気遣うように髪を撫でられて唖然とする。あなた、こんなキャラでしたっけ??
まあ、とアスタが嬉しそうに口元を押さえた。アスタさん、満面の笑みめちゃくちゃ漏れてますけど。
「ビア様、良かったですね。中は整えてありますから、ゆっくりお休みくださいませ。何かあればお呼び下さいね」
「アスタ、お茶していかないの?」
「ビア様がすっかりお元気になられたら、ゆっくりお話しに来ますよ」
「元気だってば」
いえいえうふふ、とアスタは雑に誤魔化しながらティーリオから馬の手綱を受け取り、手を振って馬を連れて去っていった。十歩くらい遠ざかったところでスキップに切り替わったのを、私は見逃していない。
「慣れない馬での移動で疲れただろう。休むといい」
数日空けただけなのに、ずいぶん久しぶりに帰ってきたような気がする。そう感じて初めて、この家にやってきてまだ一月も経たないのに、私にとっては帰ってくるべき場所になっていたのだなと思った。
「お茶、淹れましょうか」
「俺が淹れてこよう」
いやそれはさすがに、と食い下がったが、結局ソファに座らされ、しっかり膝掛けをかけられてしまった。
白い壁に赤い屋根、小さなポーチのついたかわいいおうちで、王子様が私にお茶を淹れてくれている。子供の時の夢とは少しだけ違っていて、なんだかちょっと、いやだいぶ、変だ。
一人でちょっと笑っていると、ティーリオが大きなカップを二つと焼き菓子の皿をのせた盆を持って戻ってきた。
「一人で楽しそうだったな」
「第一王子様がお茶を淹れて下さってると思ったら、ちょっと」
小さなティーテーブルにお盆を置いて、ミルク入りのお茶のカップを渡してくれた。
「騎士団では誰でもやるぞ」
お茶を淹れるくらい、とティーリオは首を傾げてからしばらく考え込み、やがてしみじみとこう言った。
「……お前が、お前で良かったと思う」
お茶を噴きそうになった。咽せなかったのは奇跡じゃなかろうか。
「なんです藪から棒に」
いや、すまない、と急に照れるのもやめてほしい。照れるポイントがちょっとズレてない?もっと前にもっと照れてもいいようなこと、いっぱい言った気がしますよ?
「俺は、辺境騎士団の生活が性に合っていてな」
ティーリオは田舎らしい、大きく分厚いカップを見下ろした。カップにはただ愛らしいカントリー風というより、民族風というか、東欧風というか、素朴な太い線で小鳥と蔦の模様が描かれている。この世界で表現するための語彙が思いつかないことに気付くと急に元の世界の記憶がちらついて、耐えられなくなって叫び出してしまいたくなる。
けれど、それを邪魔するようにシェールビアの記憶がふと蘇って、ティーリオの言いたいこともわかった気がした。メイドが淹れてくれるお気に入りの花の香りのお茶を、薄くて繊細で美しい磁器のティーセットで楽しむような貴族らしい生活を、シェールビアは当然だと思っていた。
でもシェールビアだって、田舎暮らしを愛せたかもしれない。
それは、私にはわからない。
「そんな顔をするな」
伸ばされた手が、頬を撫でた。私はどんな顔をしていたんだろう。
「体は辛くないか」
私は首を横に振って、にやりと笑った。
「ティール様がずっと一緒にいてくださるので、回復の度合いがわかりませんよ」
「試しに離れてみるか?」
ティーリオはそう言ったものの、両手を上げて降参した。
「ダメだ。俺が離れたくない」
「振り返ったら失神してるかもしれませんものね」
「まあそうだが」
言い淀んだティーリオの方を振り返って、茶化して話を逸らすのに失敗したことに気付いた。
「闇の力からお前を守るというのは、口実だ」
左手を取られて、薬指の小さな石に口付けが落とされた。ティーリオの吐息が柔らかく手の甲を撫でて、私はほんの少しだけ体を震わせた。
「ビア、俺の愛しい妻」
大好きな人に上目遣いに笑ってそんなふうに言われて、そのまま愛されてしまいたい欲望に、一体誰が抵抗できるだろう。骨抜きにされるという表現があるが、まさにアレだ。私が崩れ落ちたので、ティーリオは慌てて私を支えて抱き寄せた。
「おい」
「大丈夫、魔王のせいじゃありませんから」
私は仕返しのつもりでこう言った。
「あなたのせいですからね」
ティーリオが笑う声が、体に響いた。胸の奥が甘く疼いて、それが全身にめぐって満ちていくようだった。
今だから言えるけれど、ティーリオがくれるそれは、ゲーム画面の向こう側のキャラクターだったときから、インスタントで擬似的なときめきみたいなものなんかじゃなかった。でも、あのとき本物だったのは私の中にある感情だけだった。
今は違う。何もかもが本物で、偽物は私だけ。
「ああ、責任をとらせてくれ」
きっと私たちの指輪は高らかに歌っているのだろう、番の小鳥のように。
偽物の中にあっても、この感情は本物だから。




