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11. 薄皮一枚の『向こう側』

 ティーリオはその夜狭いベッドで私を抱きしめたまま眠り、次の朝に目が覚めた時も離そうとしなかった。手を離した途端に気を失いかけたのが、尾を引いたらしい。


 結局、日が昇っても私たちが出てくる気配がないのに気がついて冷やかしにやってきたラウリオが、事態の深刻さにドン引きして全く色気のないやり方で説得してくれたおかげで、ようやく手を離してもらえた。本当にトイレまでついてきそうな勢いだったから助かった。


「ティールって束縛するタイプだったんだね、知らなかったよ」


 ラウリオは楽しそうに兄をからかっていた。私のことを義姉(ねえ)さんと呼び、侵攻の後処理の合間に私の寝ている部屋へやってきては、話し相手になってくれた。ティーリオは朝に部屋を出ていくと夜まで戻っては来なかったから、ラウリオが遊びに来ていない間はほとんどずっと眠って過ごした。


「聞いてもいいかな」


 ラウリオは三日目の夕方、夕日の差し込む室内で、思い詰めたような顔でそう言った。


「義姉さんは、どうして逃げたの」


 聞かれるだろうなと思っていたのに、いざとなると用意していた答えでは不誠実な気がした。


 だから少しだけ考えて、こう言った。


「オレアンドの魔石から遠ざかりたかったし、ティール様を巻き込みたくなかったから」


 こう言うと、私が魔石の状態に気付いていたことになってしまうけれど、どちらも嘘ではなかった。


「結婚式の後になって、急に?」


 私はシェールビアではなくて、この後起こり得る最悪の事態を知っているのだと言えれば、どんなに楽だろう。


「ティール様を好きにならなければ、逃げなかったかもしれない」


 この答えならラウリオは気に入るだろうと思ったのに、ティールと同じ紫の眼はじっと私を見つめて、それから諦めたように笑った。


「義姉さんはやっぱり、優しいね」

「本当に優しかったら、指輪とひどい言葉を投げつけて、二度と会わないでしょう」


 私は薬指の上の紫色を撫でた。外すことだって考えられなかった。


「本当はね、ティールを取られるのが、ちょっと嫌だったんだ」


 ラウリオが少しだけばつが悪そうにそう言って笑った時、世界が反転した。






ーーティールを返せ!


 ラウリオはそう叫んで、逆手に握った左手の剣を振りかざす。金色の髪は自身の血で額に張り付いて、利き腕は半ばから千切れるように既になく、歪な傷口から骨がのぞいていた。


 私は瞬きもしなかったし、指一本動かさなかった。それでも、振り下ろされた剣は、私には届かなかった。


 深々と刺さった剣を、ラウリオの左腕では抜くことができない。ぼたりぼたりと、ラウリオの右腕から落ちる血がティーリオの頬を濡らしていた。


 二対の紫が絶望に染まっているのが、とてつもなく美しい。


ーーラウル。


 ティーリオが最期の息で弟の名を呼んだのが、私にはつまらなかった。






「義姉さん!」


 まるで溺れていたようだった。ラウリオが伸ばした手を掴んだら急に息ができて、吸い込みすぎて咽せ込んで、溢れてきた涙で視界がぼやけた。必死に掴んだラウリオの手が熱く感じたけれど、私の手の方が氷のようなのだろう。


「義姉さん、待ってて、今ティールを」

「だめ」


 だめ、と私は繰り返し、目の前の紫に懇願した。


「私を殺して」

「義姉さん、ビア、喋らなくていい、大丈夫、大丈夫だから」


 ゆっくり、息をして。大丈夫、僕の手を離さないで。ラウリオの声が、手のひらの温度が、ティーリオと同じ紫の眼が、私をこの世界に、このルートに引き戻した。安心していいのか、私にはわからなかった。


 私さえいなければ。


 その絶望が、私のものなのかシェールビアのものなのか、定かでなかった。私にとって、あまりに馴染み深い絶望だった。枕に顔を押しつけて、一人にして、と言ったのに、ラウリオは私の手を離さなかったし、出て行かなかった。


「ビア、あなたはたった一人で、あんなものに耐えていたの」


 ようやく少しだけ落ち着いてから顔を上げると、ラウリオが泣いていた。これまで、あんな白昼夢に襲われたことはなかったけれど、これからは違うだろう。きっと、ゲームのバッドエンドは魔王の闇の力によって、並行世界から呼び覚まされるのだ。まるで『地獄の口』から魔獣たちが現れるように、突然世界に亀裂が走って、幻覚を見せるに違いない。


「こんなのは初めてだったわ、こんなに、鮮明なのは。……あなたは、何を見たの」


「あなたは魔王その人だった。僕は最後の力であなたに剣を振りかざしたけれど、その剣はティールの心臓を貫いた」


 ラウリオはどうしてか、私の幻覚を一緒に見ていたらしい。私は頷いて、握られたままだったラウリオの手を、ぎゅっと握り返した。


「私さえ、いなければ」


 口にすると、その正しさが際立つようだった。選ぶべき一番正しい選択肢を、私は選べたためしがない。ラウリオは、首を横に振った。


「ティールは君を、愛してたよ。……僕が殺したティールでさえ」


「愛そうとしてくれたのよ。そうすべきだったから」


「違う」


 ラウリオはぽろぽろ涙をこぼして、今にもその澄んだ紫が溶け落ちてしまいそうだった。


「ねえ、ビア。……あれは、夢なんかじゃない。どこかで僕たちは、ああやって死んだんだね」


 私が頷くと、君がティールから逃げ出した理由が、今やっとわかったよ、とラウリオは泣いた。


「ティールと僕は一心同体の双子だ、って言ったでしょう。時々、お互いの感情が自分のもののように、入ってくることがあるんだ。さっきのティールは、君を心から、愛していた」


 むしろ、愛していないのはシェールビアの方だったのだ。私が感じたのは、冷え冷えとした所有欲とか支配欲のようなものでしかなかった。自分のおもちゃが思い通りにならないまま壊れてしまうのが、気に入らなかっただけだ。そんなこと、ラウリオに言えるはずもなかったけれど。


「指輪は今も、歌っているの」


 ラウリオはまだ涙を流していたけれど、微笑んで頷いた。


「すごく綺麗な音で、歌ってる」


 ラウリオは私の左手を持ち上げ、頬をすり寄せるようにして私の薬指に耳を押し付け、囁くようにこう言った。


「ティールのこと、愛してくれて、ありがとう」






 ティーリオが部屋へ戻ったとき、ラウリオと私は手を握りあって話し込んでいた。ドアを開けた瞬間のティーリオの嬉しいような悔しいような顔は、見慣れた者でなければわからない程度の表情の変化だったが、ラウリオは喜んでひとしきり兄をからかった。


「ティールは束縛するタイプだから、きっと嫉妬深いよね。僕も気をつけなきゃ」


 怖い怖い、と言いながら部屋を出ていこうとするので、私は慌てて引き留めた。


「ラウリオ、さっきのこと話しておくんでしょ」

「ん、そっか、そうそう」


「ラウル、いつの間にビアとそんなに親しくなったんだ……」


 ラウリオがベッドの傍に引き寄せた椅子に座り直すと、ティーリオはドアの傍の壁に背を預け、腕を組んだ。


「ティールはこっち」


 ラウリオは拗ねたティーリオの腕を引っ張り、ベッドの私の傍に座らせて、ほらほら、義姉さんの手、握っててあげて、と私の手を握らせた。


「……冷たいな」


 ティーリオは私の手を見下ろして、眉を寄せた。


「さっきまた『向こう』に引っ張られたんだ」

「お前がいたのにか」

「僕も一緒にだった」


 ラウリオが見たものの話をするにつれ、ティーリオの表情は険しくなった。


「神聖竜の血は、闇の力に抵抗できるのだと思っていたが」


「ティールが近くにいたのに、口が開いたのと同じだと思うんだけど」


「開くこと自身はやはり、阻止できないと考えるのが妥当か」


 容姿の似ていない双子は、ぴったり同じタイミングで頷いた。


「ビア」


 どうした、苦しいのか、と慌てた様子のティーリオが背中を撫でてくれて、私は首を横に振った。

 

シェールビアは全てのシナリオで、その身を魔王に委ねてしまう。だから、婚約者であるティーリオも大半のシナリオで闇堕ちしてしまうし、そのほとんどで彼にとどめを刺すのはラウリオの役目になる。


 感覚を共有するほどの、一心同体の双子に何度も殺し合いをさせるなんて、シナリオライターは鬼なのか。そんなはずはない。シナリオライターにとって、物語は物語でしかなかった。プレイヤーの心を揺さぶり、やがてたどり着くべき最善のハッピーエンドを輝かせるための、言うなれば極端で安易な仕掛けの一つでしかなかっただろう。




 けれど今の私にとっては紛れもない現実で、残酷で受け入れ難い未来の姿だった。

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