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10. 選びたかった選択肢

 背筋の凍るような、身の毛のよだつあの邪竜の声が、頭の中で反響している。今までに受けたありとあらゆる罵詈雑言が、脳を直接ぶん殴っているみたいだ。



 ーーおばさん体型のブス、グズ、のろま、そんなこともできねえのかこの給料泥棒。お前に生きる価値があると思うのが間違いなんだよ。役立たずのくせに。また誰かのせいにするのか、お前が選んだんだろ、考えてみろよ悪いのはお前に決まってる。――



 反射的に体が縮こまり、心拍数が上がって息をする方法もわからなくなって、心臓が血液を送り出すたびに頭が破裂しそうに痛む。


 蹲って泣いているのに、罵声は聞こえているわけじゃない、邪竜の声が一番悪い記憶を引きずり出して古傷を抉っているのだなと頭の隅で他人事のように理解した。


 目の前は真っ暗だ。


 オフィス機器のオゾン臭、こちらを追い詰めようとするかのように鳴り続ける電話、呼び出しブザー、煙草の臭いまでもがリアルに感じられるけれど、私はあのオフィスにいるわけじゃない。


 めちゃくちゃに頭が痛くて吐き気がするけど、これは夢だ。そうわかっていても苦痛が和らぐわけじゃない。


 足元が崩れて落ちていくようだった。


 幻覚の全てを知覚する余裕もなくなって、痛い、苦しい、つらい、ということしかもうわからない。


 消えてなくなりたい。


 死にたいわけじゃない。


 私という存在が、なかったことになればそれでいい。


 もう終わりにさせてほしい。


 いつかは、なんて希望を抱いて、真面目に一生懸命生きてきたのがそもそも間違いだったのだ。






「ビア!」


 暗闇が弾けて消えた。


 目の前にあったのは柔らかな灯りに照らされて滲む紫色で、しばらくしてやっと、それがティーリオの両眼だったことが理解できた。


「ビア」


 瞬きをすると、ティーリオは見るからにほっとしたようだった。おずおずと伸ばされたティーリオの手のひらが髪に触れると、頭の内側であの暗闇が膨れあがるようだった痛みが急に楽になった。


「ティール様」


 口は、と呟くと、もう閉じた、と答えが返ってきた。


「地獄の口は魔法士たちが爆破した。もう大丈夫だから、泣かなくていい」


 私は泣いていた。どうしてなのか、私にもわからなかった。


 ティーリオが無事で、ほっとしたから。オープニングで陥落するはずのクラル城砦が、無事だったから。ここが、長くもない何十年を生きてきた、あの世界ではなかったから。


「苦しくはないか」


 私が頷くと、涼しい目元が優しく細められた。


「ラウルにお前から離れるなと伝えたのに、わざわざ出迎えに来て、汚れを落としきるまで見張られたんだ」


 ティーリオは立ち上がると、デスクの上の水差しからコップに水を注いだ。


 あ、と間抜けな声が漏れた。ティーリオの手が離れた瞬間、痛みと吐き気と暗い記憶の全てが頭の内側で爆発したみたいに広がって、目の前が暗くなった。


「ビア!」


 遠くで、すまない、許してくれ、と聞こえた。落ちていきかけた意識が引き上げられ、痛みが遠ざかった。体の感覚が戻ってくると、大きな体に抱きしめられていて、大きな手が背中をゆっくりと撫でてくれていた。じんわりと体温が馴染んで沁みてくる。これが幸せというものなのかもしれない、とさえ思えた。


「ビア」


 大丈夫か、とこちらを覗き込む目の方が、苦しげに揺れている。


「今は。……どうして」

「王族は神聖竜の血を引いているからだ」


 ティーリオはため息をついた。


「まだお前に、この話をしたくはなかった」


 抱きしめられた体越しに、ティーリオの低い声が響くのが、たまらなく心地よかった。さっきまで全身を引き裂くような苦痛に見舞われていたのに、大きな手は痛みも闇も、取り去ってしまうようだった。


「オレアンド前公爵から王家に打診があったのは、俺が十二の時だ。

 オレアンドの血の力が弱まったとも思えないが、魔王の力が増している。このままでは十年以内に公爵家は内側から破壊され、魔王を復活させてしまうだろうから、と」


 オレアンド前公爵とはシェールビアの祖父で、娘婿に家督を譲った後も影の家長であり続けている。財政に関しては娘婿に全幅の信頼をおいているが、その他のことについては今でさえ、ほとんどの決定権が前公爵にあるはずだ。おそらくオレアンドの一族全てを生贄として魔王を秘宝たる魔石に封じる秘術は、まだ前公爵の手にあるのだろう。


 ゲームでは一文であっさりと済まされていた設定がシェールビアの記憶を通して明らかになっていくのは、なんとも不思議だった。


「先王様の指輪のお話を聞きました。ラウリオ様は、それでも政略結婚に反発されたのでしょう」


 私が言うと、ティーリオは照れたように笑って話を続けた。


「婚約するのは俺とラウリオ、どちらでも良かったからな。

 ラウリオなら自由に愛を探せるだろうが、俺はこの性格だから、決められた相手を愛そうと努力する方が性に合っているだろうと思った」


 ラウリオは二ヶ月口もきいてくれなかったが、とティーリオは苦笑した。


「お前についてはいい噂を聞かなかったが、俺は興味がなかった。

 もし愛することができなくとも、俺の両親のように務めを果たせばそれで充分だろうとな。オレアンドの令嬢も魔石を護るという務めを果たさねばならないのだから、協力はできるだろうと考えていた。

 どちらかといえば、俺のような朴念仁と婚約が決まったお前が、気の毒だった」


 話が逸れたな、とティーリオは一度黙り、再び口を開いた。


「オレアンド前公爵は一族に王族の、神聖竜の血が入ることで魔王を抑え込めると考えておられる。

 魔獣は王族を前にすると怯み、弱いものならば逃げ出してしまうからな。魔王の力に神聖竜の血は対抗できるのだろう。

 ……俺が王都を留守にして、第五騎士団にいることが多かったのは、そのためだ」


 アスタが、ティーリオがいればサルヴァ村は安泰、と言っていたのは、だからだったのだ。


「邪竜がお前を狙ったのは、お前がオレアンドの者だからだ。

 魔王を封じるオレアンドの血は、魔王に直接通じる媒体ともなるのだろう。邪竜はお前の血を通して魔王へ呼びかけ、魔王は闇の力で応えた。

 ……王族の血はやはり、その闇を遠ざけてやれるようだ。ラウリオや俺が近くにいるだけでも、多少苦痛が和らぐだろう」


 私は笑おうとしたが、うまくいかなかった。


「多少どころではありませんね」


 そうか、よかった、と言ったティーリオは、安堵の表情をそのまま曇らせただろうと思う。


「お前にこの話をしてしまえば、選択肢を奪うことになると思っていた。お前は俺から、離れたかったのだろうに」


 抱きしめてくれている体が、少しだけ強張ったのがわかった。指輪を投げつけて二度と会いませんと言うのが正しいのだとずっとわかっていたのに、この人がこの調子だからずるずると現状維持を選んでしまって、結局こんなことになってしまった。


 ティーリオが王族としての義務を果たすためだけにシェールビアを追ってきたのなら、私は自分の気持ちに背いてでも指輪を投げつけて追い返して、彼を私から、魔王から守れたのに。


「お前は、どうしたい」

「ティール様の意地悪」


 言ってしまうと、弱った体は涙を堪えられなかった。


「お、おい」


 ティーリオの動揺した声が降ってきたけれど、泣いているのを見られたくなくて、ぎゅ、とその体にしがみつく。


「最初からご存知だったくせに!」


 ラウリオは、想いあっていなければ、指輪は絶対に歌わない、と言った。


 魔道具である指輪は嘘をつかない。愛せるかもしれない、としか思っていなかった相手を自分が愛していることを、その相手が自分を愛していることを、ティーリオは最初から知っていたのだ。


「わがままで高慢ちきだって噂の御令嬢が結婚式の直後に、やっぱり結婚しないって逃げ出したのをわざわざ追いかけてくるし、

 それどころか私の中身がシェールビアじゃないってわかってもあっさり受けいれるし、

 この世界に属してないなんて訳の分からないことを言ってもそうか、ってそれだけで済ませるし、

 王都に帰らないって言ってもそれでいいって言うし、

 それどころか今の私と共にありたいなんて言うし、全然理解できなかったのに」


 ずっと喉の奥に引っかかっていた言葉は、次々に飛び出してわけのわからない羅列を作っていくのに、しがみついているティーリオの体が、小さく笑って揺れた。


 笑うな!こちとらマジでわけわかんないんだよ!!


「悪かった」


 ティーリオの腕にほんの少し力が込められてしっかりと抱きしめられると、胸の奥が苦しくて、嬉しくて不安で幸せで、何がなんだかわからなくて、子供みたいな泣き方しかできなくなった。シェールビアのこの体だってもう二十歳前だし、私に至っては言いたくもない年齢だというのに。


 わんわん泣いていた私が落ち着くまで背中を撫でてくれていたティーリオは、私の嗚咽がおさまるのを待って、こう言った。


「怖かったんだ。どれだけ指輪が歌っていても、お前が俺を愛してくれる理由は、どこにもないから」


 あなたは乙女ゲームの最推しで心の恋人なんですと言っても、理解できないだろう。それに。


「私は、……魔王は、私を利用して、あなたを破滅に引きずり込むかもしれないのに」


「俺はお前を救いたい」


 シェールビアが彼を破滅させるところをゲームで何度も見てきたから、私は彼から離れると決心したのに、彼の言葉を信じたいと思ってしまう。


「公爵家と王室の繋がりをアピールするためでも、魔王を牽制するためでもない。お前の愛に応えたい」


 いや、そうじゃないな、とティーリオは呟いた。


「お前のヴェールを上げたあの時から、俺はお前を愛している」


 ぎゅう、と苦しいほどに抱きしめられた。


「お前が俺を愛してくれる理由もないが、俺がお前を愛するのにも理由がない。それではいけないだろうか」


 大好きな人の大好きな声で、そんなふうに言われて、一体誰が抗えるだろう。何もかもの運命が変わったシナリオの先に希望があると、どうしても信じたくなってしまう。




 私は、正しくないと思っていた選択肢を、

 世界が滅ぶかもしれない選択肢を、

 選ぶべきでないのに、本当はずっと選びたかった選択肢を、


 選ぶことにした。

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