1. 気が付いたら結婚してた
ウェディング・ベルが鳴り響いているのが、遠く聞こえる。純白のヴァージン・ロードは輝かしく、聖堂の高い窓から差し込む日の光は厳かで、ゆっくりと進む一歩一歩が、ふわふわとしているように感じられさえした。それでも家門にふさわしい花嫁として背筋を伸ばしていられるよう、支えてくれる父の温かく乾いた手のひらが、とても心強い。
夢見心地のまま、父から花婿へとエスコートが引き渡される。祭壇の前で神官が祈りを捧げ、誓いを促す。低く美しい声が組んだ腕越しに響いて、心臓が跳ねた。促されるまま是と答え、頷く。
いつもは剣を握る大きな手の、長い指先が左手の薬指に指輪をはめてくれた。導かれるままに花婿の左手をとり、その薬指に指輪をはめる。その指先がふるえたのに気付いたのだろう、花婿の指先がそっと優しく、こちらの手の中の指輪をすくうように、助けてくれた。
その指先が、今度はヴェールを、そっと持ち上げる。
世界で一番大好きな端正で美しい顔が、緊張した面持ちで、こちらを見下ろしている。
ああもう、ほんと大好き。
思わずいつものように、へにゃりと笑ってしまう。
美しい切長の紫の眼が、微かに驚きに見開かれる。それから、唇の端が僅かに微笑みを形作った。
ああなんて尊いの、そんな表情まで見せてくれるなんて。スクショして永久保存しておかないと。……あ、いけないいけない。今は私、花嫁なんだった。
目を閉じると、柔らかな感触が唇に触れた。
ああ、なんて素敵な夢なのかしら――。
何かがおかしい、と気付いたのは、ライスシャワーと祝福の中を通り抜け、ブーケを投げたその瞬間だった。
白い薔薇のブーケは青空によく映えたが、握り込んでしまっていたのだろう、白いリボンのヨレている様子があまりにリアルだった。そういえば、つま先は痛いし首筋に触っている後れ毛か何かも気になるし、だんだん痒くなってきた。夢ってこんなかんじだったっけ。
「花嫁様、一度お化粧を直しに控室へどうぞ」
侍女にかしずかれ、慣れた身体は鷹揚に頷いて従ったが、内心それどころではなかった。急に変な冷たい汗がでてきて、湿った手のひらも足の裏も気持ち悪い。
やっぱりおかしい。
豪奢な調度品で飾られた控室の、猫足の美しい鏡台の前に導かれて、私は、私と対峙した。
豊かにうねるワインレッドの髪は結い上げられて、煙るように繊細なチュールレースの、ヴェールの向こうで輝いていた。意志の強そうな眼差しは髪と同じ紅色で、綺麗な眉が不機嫌そうにしかめられている。花嫁の表情ではないが、不機嫌ゆえの表情でもない。胸の内には純粋な不安しかないのだが、その美貌ゆえに、迫力すらあった。その美貌が、自分の目の前でさっと青ざめ、かっと目が見開かれる。
「えええええええええええ?!?!?!?!?!」
私が声の限りに絶叫したせいで、一瞬、完全なる静寂が訪れた。侍女たちも衣装係も美容師も、ぴたりと動きを止めて、こちらを伺っている。
召使いたちは私の、と言うより、この身体の持ち主の癇癪を、何より怖れているはずだ。申し訳なく思ったが、私のせいではない。
私はこの美しい顔を、とてもよく知っていた。
その名を、シェールビア・オレアンダ。
オレアンド公爵家の令嬢で、ラヴァンドル王国の第一王子の婚約者でもある。
「どうした、シェールビア!何の騒ぎだい?!」
分厚いドアの向こうから、父のおろおろした声が聞こえた。
とにかく落ち着かなくては。
すう、と音がするほどの勢いで息を吸い、ふうっと吐いてから、目の前の美女を見つめた。
夢なら醒めないでとはよく言うが、夢ならさっさと醒めてくれと思う瞬間の方が、人生には多いような気がする。そして、大抵そういう場合は夢ではないから、もちろん醒めもしないのだ。
「アスタ、お父様にほんの少しだけ待っていただいて。少しだけ落ち着いてから、お父様と二人でお話をしたいの」
できるだけ落ち着いた声で、側仕えの侍女へ告げた。侍女の名前がするりと口から出たのには少し驚いたが、夢とは正にこういうものだ。これは、やっぱり夢なのだ。
彼女は飛び上がりそうになりながら、青ざめた顔でドアへと駆け寄った。可哀想に。
「みんなもありがとう。少しだけお父様と二人でお話ししたいから、しばらくだけ時間をちょうだい」
皆、呆気に取られた顔をしていたが、微笑んで促すと、礼をして去っていく。
「アスタ、お茶を淹れてくれるかしら」
一息ついて落ち着きたいわ、と戻ってきた侍女へ微笑むと、すぐにご用意します、と言って、そそくさと再びドアの向こうへ消えた。
さあ、これでほんのしばらくだけど、私は私と一人っきりだ。
シェールビア・オレアンダ。
それは、私が寝落ちするまでプレイしていたゲームの、登場人物だった。
『太陽と月の王国物語』は、パソコンでプレイするタイプの、RPG要素の強いオーソドックスな恋愛シュミレーションゲームだ。ファンタジーの世界を舞台に、プレイヤーは聖なる力に目覚めた乙女として、王子や魔法使い、騎士たちと力を合わせて魔物たちを倒し、彼らとの恋を育みながら、やがて世界に訪れる危機に立ち向かう。
ひと昔前のゲームらしく隠しキャラを除いた攻略対象は四人と少なめだが、フルボイスのマルチエンディングで、魔物たちとのバトルが好感度に影響するためか、エンディングの分岐条件が複雑なのか、コンプリートが非常に難しいゲームバランスに仕上がっている。それゆえ、人気はあるが隠れ神ゲーとか隠れクソゲーとかネット上では言われたい放題で、今でも未発見の隠しエンディングがあるという噂まであった。
かく言う私は元来、乙女ゲームに興味がある方ではない。インスタントにときめきを与えようとしているのが見え見えな気がして、乙女向けコンテンツと呼ばれるようなものには、一切触れて来なかった。何なら、多少バカにしてさえいた。ガリ勉で真面目な文学少女上がりの人生負け組オールドミス、それが私だ。
そんな私が藁にもすがる思いでゲームに手を伸ばしたのは、生活にも仕事にも疲れて鬱まっしぐらだった時、中古ショップで『太陽と月の王国物語』のCD-ROMが叩き売りになっているのを見たことに端を発する。
ポップには『失われた胸キュンとときめきを、人生に疲れた貴女に!マルチエンディングでコスパもいい!』と書かれており、主にその惹句の後半に、目を奪われたからだ。
言うまでもないが結局ドはまりし、昨夜も寝落ちるまでプレイしていた。
それにしても、夢にしてはあんまりにもリアルだ。夢というのは細部がもっとぼんやりしていたり場面が急に転換したりするし、そもそも筋が通らなかったり、意味がわからなかったりするものだ。
なのに、イラストでしか知らないシェールビアの美貌が、髪の一本一本まで輝くような生きた女の姿として目の前の鏡に映っていて、私のせいで間抜けにもぽかんと口を開けている。
私は慌てて口を閉じた。
そこでふと、いわゆる『転生』の可能性を思い出した。近年大流行していたのは知っているが、それは漫画やアニメ、小説のジャンルとしてであって、現実の事象としてではない。ニュースになっているのも聞いたことがないし、もちろん知人で転生した人もいない。それに、現実世界で死んだ覚えもない。
つまり、やっぱりただの変な夢なのだ。
自分を納得させて少し落ち着いた私は、安堵のため息をついてふかふかの椅子に座りなおし、シェールビアの顔を改めて眺めた。
せっかく絶世の美女になったのだし、舞台はよく知ったゲームの中。とはいえ悪女の務まる器は持ち合わせていない。というわけで、やるべきことはただ一つ。
悪役令嬢シェールビア・オレアンダの生存ルートを攻略するのだ。