明け方のレモネード
「なんの話でしたっけ」
男のことばで、オレは我に返る。藍理の鋭い目を思い出していた。
「ああ……お客さんが回ったなかで、どこか気に入ったところの話です」
「ああ、そうでした、そうでした」
男はすっかり機嫌がよくなって、顔がほころんでいた。
「わたしはチベットが好きですね」
「ほう」
珍しい、とオレはおもう。
「楽しい明るい場所はどこも同じにおもえますね。そんな場所は、二、三ヶ所も回ればあきてしまいます。しかしチベットはちがいました。山登りは少々キツかったですが、そんなこと吹き飛ばすくらいのものが山の上にはありました」
「ほう」
タバコを吸い終え、オレはグラスを傾けながら男の熱のこもってきた話を聞く。
「今の文明に侵されていない、そこは神秘の地でした。紀元前からつづいている僧たちの都です。かれらは静かな生活を送っていました。瞑想しているかれらを見ていると、わたしの心も鎮まるのを感じました」
男のタバコが灰になっているのを見て、オレは灰皿をかれの前においた。かれはタバコの状態に気づいて、あわてて灰皿にタバコの残がいを押しつけた。
「そして、わたしは初めて本当の空の色を見た気がしました。今の地球にもあんな青い空が残っている場所があったんですね。ぬけるように澄んだ青空に浮かぶ白い白い雲……感動しました」
「なるほど」
男は、思い出に浸かるように遠い目をしたが、ふと気づいたように一気にグラスを空けた。男は、ふう、とひとつ息を吐いた。
「それで……おもわず、詩を書きました。そんなものがうかんだのは、生まれて初めてです」
「ほう」
実際のところ、現代は詩人や画家などであふれていた。あり余る時間が与えられた現代人にとって、創作活動は有意義といえる。しかし、ミケランジェロやピカソのような、バッハやモーツァルトのような天才的なアーティストは出現していない。
男は、大きく息を吸い込み、口を開いた。
「二十にして海を知らず、空を知らず、生とは何たるかを知らず。目を開き耳を澄ませ感じよ。世界はそこに在る。ひとが永久に支配せざる世界が」
そこまで言うと、男は照れくさそうにオレの顔をちらっと見上げた。
「ここまでなんですけどね」
「いいですね」
可もなく不可もないオレの返事にも、男は満足そうにうなずいた。
「ありがとうございます」
店の入り口が開き、若い男のふたり連れが入ってきた。
「こんばんは、マスター!」
常連の、マーゴとタリヤだった。手を上げるかれらに、オレも手を上げ返す。
「マスター、それじゃわたしはこれで」
カウンターの男は、IDカードを胸の内ポケットから取り出した。オレはうなずいて端末機を出す。
「またいらして下さい」
「また来ます」
赤くなった顔でほほ笑んで、男は請け合った。
明け方の職場からの帰り道、朝早い散歩者たちのすき間をぬって、掃除ロボットが働いていた。底部のモップ部で汚れた歩道をきれいにし、落ちているゴミを吸い込み口から取り込んでいる。
夏至は一ヶ月ほど前にすぎているから、だいぶ夜明けは遅くなったが、オレは夜の残る冬の帰り道が好きだった。
へやのドアを開けると、まず大型画面のマルチメディア機が目に入る。昔のテレビとラジオとネットを合わせた機械で、映像やら音声やらなんでも受信することができる。その左手の窓際に熱帯魚の泳ぐ水槽がおかれ、そのわきに藍理が鎮座していた。藍理は、目を閉じていた。眠っているのだろうか、とオレはそっと歩み寄りながらおもう。藍理は、眠りを必要としなくなっていたが、目を閉じて眠っているように見えるときもあった。
オレの気配に気づいて、藍理が目を開ける。
「おはよう」
オレが声をかけると、
「寝てないよ、朝だけどね」
と、ふてくされたように言う。
「たしかに朝だな」
藍理の近くのブラインドに手をかけようとすると、
「開けないでよ」
と、切羽つまったような声を出す。
「……この、うす暗い感じが好きなんだから、今の時間の」
「そうか」
「うん」
「喉かわいてないか」
藍理は、食事は不要だが、喉をうるおす水分を必要としている。
「レモネードはもうたくさん。今夜の最初のお客さんに出したのと同じのちょうだい」
「バカ、未成年だろ。サイダーにしろ」
「じゃ、いいよ、レモネードで」
フン、と藍理は横を向いた。オレは、キッチンに行って冷蔵庫からレモネードを取り出し、コップに注いだ。氷とストローを添えて、藍理の近くにおいてやる。藍理は、恨めしそうな目でオレをちらっと見上げてから、ストローでレモネードを飲み出した。オレは、彼女の近くのイスにかけた。
「今夜はなにしてたんだ」
「アレで、昭和初期の文豪ってひとたちの小説聞いてた」
藍理が「アレ」と目線で示したのは、マルチメディア機だ。
「どこがいいのかさっぱりわかんなかった」
藍理は飲むのをやめて、レモネードのなかにぷくぷくと息を吹き込んだ。
「あの時代は、個人の主張を唱えるのが新しかったんだ。個人主義、利己主義の時代ってことだな」
「ふーん。じゃ、今の時代はなにの時代なの」
闇のなかで光る猫の目のような目つきをして、藍理が訊く。
「一度、地球が滅びかかった時代があったことは知ってるだろ。そのとき、世界は一丸となって利他主義になった。それが進化した形となったのが、今の時代だ。超利他、もしくは超利己主義なのかもな」
「ふーん……」
判ったのか判らないのか測りかねる表情の顔を、藍理はうつむける。なにか考えはじめたようだ。