バーボンを頼む男
「二杯目は?」
クリスに訊いたとき、入り口から中年の男が入ってきた。
「いらっしゃい」
かれをふり返って一瞥したクリスは、
「今日はもういいや。また来るね、マスター」
と言ってIDカードをかばんから出した。オレはレジから端末機を伸ばして、クリスから受け取ったカードをスキャンする。
「またおいで」
「ごちそうさまー」
カードをしまいながら、クリスは入り口へと歩いていった。
代わりに、入ってきた男がカウンター席にかけた。初めて見る顔だ。十年ほど前に人気だった二枚目俳優によく似ている。おそらく整形したのだろう。
「なににしますか」
「バーボン、ダブルで」
「わかりました」
オレは、棚から取った酒を円い氷の入ったずんぐりしたグラスに注ぐ。
「マスターはここに何年目ですか」
琥珀色の液体がグラスに落ちていくのを見ながら、男は訊く。
「二十三のときからですから、もうじき二十年になりますね」
「ほう、長いですね」
「そうですね」
オレは、グラスを男のほうに差し出す。男はグラスを胸のあたりまでもち上げて、それを軽く左右にゆすった。円い氷が円い音を出す。
「どこかその前に遠くに行ったりはしなかったんですか」
「火星には一度」
「ほう」
好奇心を宿らせた目を上げて男はオレの顔を見た。その目は歳月を経た悲しみにやや曇っていたが、人生への希望を消してはいない透明感があった。
「どんな所でした。気に入りました?」
いったんもち上げたグラスをテーブルに戻して、男は食い入るように訊く。オレはご期待にそえずに、と首をすくめる。
「うわさ話だけで十分でしたね。まあ、たしかに外から見る地球はきれいでしたよ」
「そうですか」
男のほうが逆に申し訳なさそうに目を伏せた。
ハイヤー・シャトルで地球から十五時間の旅。その間に見えるまたたかない無数にちらばる星々。あとにする青い地球。赤錆色の星、火星。文明の進歩は極めているものの、どこか疲れているような地球に住んでいる者とちがい、火星に定住している人間たちは進取の気風に富み、ケバケバしいほど明るい。地球でも娯楽が人間たちの生活の中心だが、火星における娯楽はさらに過激だった。死との距離が近ければ近いほど、興奮が増す。そんな遊びがいくつも供されている。だから、火星に住む人間も旅行で訪れる人間も、実際年齢が若い。
「ほかに行かれた場所はないんですか」
気を取り直したように、男が顔を上げて訊く。
「ないですね。店に来るお客さんの話を聞くだけで十分ですよ」
「そうなんですか」
感心したように男はまばたきする。まだ酒に手はつけない。オレは、男に出したのと同じ酒をグラスに注ぎ、一口飲んだ。十年ものの四十度のバーボンが喉に火をつける。男もつられたようにグラスを上げ、酒を喉に流し込んだ。
「お客さんは旅行は」
「あ……ああ」
うるんだ目で男はオレを見る。あまり酒には強くないようだ。
「火星ほど遠くに行ったことはないんですが、地球上にはあちこち……回りましたね」
「どこか気に入った場所はありましたか」
オレはタバコを取り出してくわえ、火をつけた。男は目を丸くしてオレがタバコを吸うのを見た。タバコは今や犯罪に等しい。手に入れるのに、国の許可が要る。数々の関門をクリアして、ようやく入手が可能になる。
「吸いますか?」
オレは男に一本すすめた。
「頂きます」
男は、活気づいてタバコを抜き取った。子どものように目が輝いている。タバコをくわえた男に、オレはライターで火をつけてやった。男は深々とタバコを吸い込むと、感慨深そうに煙を吐き出した。
「ああ、何十年ぶりだろう」
まるで受刑者のセリフのようだ、とオレはおもう。男はいたずらっぽくほほ笑む。
「実は、子どものころに、秘密ルートで手に入れたのを吸って以来なんですよ。ストレスでいっぱいいっぱいになっていて……最初は煙かったけれど、うまかったですねえ」
「そうですか」
おとなになってしまえば、遊び放題の今の世界も、子どもには厳格な教育が義務づけられている。幼稚園の年齢には昔の小学校の教育がほどこされ、昔の中学生の年齢には大学教育課程を教え込まされる。遊んでいるか働いているかしないおとなたちは、主に宇宙事業に関する研究に勤しんでいる。そして、今の世界のシステムを運営しているのも、高等研究者たちだ。おとなになれば自由なものだが、子どもにとっては過酷な世の中と言えた。藍理のように自ら命を絶とうとする子どもたちも多い。藍理の例のように、その成功率は極めて低かったが。遊び暮らすおとなたちの陰で、不幸な子どもたちがひっそりと生きつづけている。