働く必要のなくなった社会
今の時代、ひとびとの生活は保障されていた。国から支給されたIDカードで、日々の必需品はなんでも手に入れることができる。むろん、上限はあるが。ひとは、働く必要はなくなり、人生の時間を好きなように使うことができるようになった。今までひとがしてきた仕事は、オートメーション化し、機械がなんでもこなしていた。大多数の人間は、あり余る時間を遊んで暮らした。しかし人生の意義を仕事に見出している人間や、生来働くことが好きな人間たちは、進んで仕事に従事した。かれらの仕事は、機械がつとめるにはあまりにも味気ない、サービス業だった。
オレはバーテンダーをしていた。働くのは精神的によい、という昔のことばは本当だ。すくなくとも生活にメリハリがつく。毎日遊んで暮らしていられる奴らには、特別な才能が備わっているのだろう。どの職種も国営化されている。だからオレは、国の雇われバーテンだ。働いた分、給料はIDカードにチャージされる。
藍理もオレの店に行ってみたいと言っているが、お前はまだ子どもだからなとオレは止めている。藍理の顔は十三歳のときからまったく変わっていない。
「それじゃ、そろそろ行ってくる」
夕方、身支度をして、オレは藍理に声をかける。
「ハイハイ」
かわい気のない返事を藍理がよこす。彼女は熱帯魚の泳ぐ水槽をじっとのぞき込んでいた。オレが仕事をしている間じゅう、水槽のとなりに鎮座してああして魚を見ているのだ。彼女はそのちいさな生き物が好きだ。
オレは紺色のドアをくぐり、へやを出た。打ちっぱなしのかべの廊下をすこし歩くと、朱いドアのエレベーターがある。ドアの前に立つだけで、人体を感知してエレベーターは上がってくる。ドアが開き、オレは三十二階から地上へと下りるためにエレベーターに乗り込む。
三十二階から二秒で下降したエレベーターから下り、また打ちっぱなしのかべの廊下をすこし歩いてエントランスへ。回転式のそれをくぐりぬけると、まだ高い太陽が容赦のない日射を注いでいた。街ゆくひとびとは一様にサングラスをしている。おとなも、子どもも。もちろん、オレも。
オレと藍理の住む四十五階建てのマンションにもバーがあることはあったが、オレは歩いて十五分ほどの駅の地下にあるバーに勤めていた。オレは歩くのが好きだった。たとえ、うすくなり切ったオゾン層をつきぬけてくる怖ろしいほどの日差しの下でも。
オレは駅に向かって歩き出した。ゆったり幅の広い歩道の石畳の上を、さまざまなひとが行き交っている。大ぶりの日傘をさし、そのうえにゴーグルをかけた婦人。歳は不明。整形技術も向上し、平均寿命百五十歳の現代は、百歳近くになっても四十代の若さを保つことができる。その年齢不詳の婦人のうしろから、ふいに肥満した少年が飛び出してくる。かれは、ローラージェットシューズを履いていた。その靴は、ジェット噴射の推進力で、足をうごかさずに前に進むことができる。うごくことが嫌いなその少年は、オレの横をすりぬけて去っていった。太った人間特有の脂肪臭をのこして。オレはポケットからミント味のニコチンガムを出して臭い消しにかんだ。