首だけになった少女
「幸せって幻獣みたいなものよね」
レモネードをストローで吸うのをふと止めて、藍理がつぶやく。氷が冷たく鳴る。
「ゲンジュウ?」
「ツチノコとかネッシーみたいなものだよ」
オレが訊き返すと、彼女はオレの目を見すえて答える。オレはためらいながらも言い返す。
「でも幸せな奴なんか結構いるだろ」
「そうかもね」
彼女が目を伏せたので、言うべきではなかったとオレは後悔する。
「でも、アタシにとっては幻獣。それ以上のものでもそれ以下のものでもないよ」
「そうか」
「うん」
彼女はまた目を上げてオレをちょっとキツイまなざしで見すえた。藍理は気が強い。
藍理は五年前の十三歳のとき、リニアモーターカーに飛び込み自殺した。奇跡的に頭部だけが無傷で保護された。現代の最先端医療は頭部だけの彼女の命を取りとめた。
父ひとり娘ひとりだった藍理の父親は、頭部だけになってしまった娘から逃げ出した。オレの友人だったその男は今も行方がわからない。赤ん坊のころから藍理を知っていたオレは、他に身よりのない彼女を引き取った。特に同情とか義理からというわけではない。藍理のことを昔からなんとなく気に入っていたからだ。
現在、彼女はオレの2LDKのマンションでオレといっしょに暮らしている。首のところに、小型の生命維持装置をつけて。
「通りが見たい。ブラインド上げて」
さっき、暑いからとブラインドを下げさせたくせに。
「早く」
窓辺の棚の上から、彼女がせかす。はいはい、と言いながらオレはソファから立って、白いブラインドを上げた。梅雨明けの強い日射が、暗いへやのなかに一気に押しよせた。
ずいぶんしゃべるようになった、とオレはグラスのレモン水を飲みながらおもう。事故後、頭だけの姿になってしまったばかりの彼女は、世界じゅうを憎むような目をして、固く口を閉ざしていた。精神科医も宗教関係者もさじを投げた。彼女を救おうとした連中がもはやだれもやってこなくなったころ、藍理はオレに言った。
「オジサンのこと、なんて呼べばいい?」
事故後二年目の、一月末の深夜だった。タツキと呼んでくれ、とオレは答えた。
彼女は窓から通りをながめ下ろした。小型の電気自動車がときどき道を走りすぎていく。生命維持装置は彼女の脳波から信号を拾って、彼女がおもったとおりに360度回転する。通りの向こうのちいさな公園では、親に見守られた子どもたちがはしゃぎ回っていた。
「かわいそうね」
子どもに目をやっていた藍理がつぶやく。
「なにが?」
オレは反射的に訊く。
「生まれてくることが」
頑なな目を外にやったまま言う。
それは自分自身に向けたことばのように、オレにはおもえた。