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真弓先輩の秘密の研究

作者: スズキ



 深夜、森島(もりしま)真弓(まゆみ)は研究所の隔離研究室の扉の前に立ち、首から下げている自身のIDカードを手にとると、それを扉の横にある非接触型カードリーダーにかざし、一緒に備え付けられているタッチパネルにパスコードを入力した。


 すると電子ロックが外れて目の前の扉が横にスライドして開き、真弓は部屋の中に入っていった。毒性を持つ細菌実験が可能なバイオセーフティーレベル1に区分されているこの研究室に誰の許可なく入ることができるのは、この研究所の所長である彼女だけだ。


 大学院時代から生物有機化学の分野において多くの革新的な論文を発表し、学界で大きな注目を集めていた真弓は二年前に大企業からの支援を受け、信頼を置く仲間たちを引き連れてこの研究所を設立した。


 氷点下二十七度に保たれている冷凍庫のなかで管理されている薬品を扉についているガラス越しに眺めながら、真弓は研究所のみんながこの秘密の研究のことを知ったらどう思うだろうかと後ろめたい気持ちになった。


 いくら世間からもてはやされているとはいえ、「もっと独自性のある研究を行いたい」という理由でまだ二十代半ばで自分の研究所を設立するという無謀な挑戦についてきてくれた優秀な仲間たち。毎晩みんなが帰ってから自分がこの部屋で隠れてひとりでやっていることは、彼らへの裏切りなのではないか?


「……マコト君」


 冷凍庫のなかの試験管に入った薄く緑かかった液体をみつめて、真弓が小さく呟いた。彼だけには、この薬のことだけは知られてはならない。


 渋川(しぶかわ)マコトは真弓の大学時代の後輩で、現在も彼女の研究の助手をしている青年だ。


 彼はこれまで論文を執筆するために大量の研究データをまとめてくれたり、微生物の培養のために研究室に泊まりがけになったときに何日も一緒に付き合ってくれたり、深夜急に思い立った実験を今すぐ行いたいといっても嫌な顔ひとつせず協力してくれたりと、研究者森島真弓にとってなくてはならない存在で、彼女の中で最も信頼を置く男だった。


 この研究所を設立するときも、真弓の誘いにマコトは二つ返事で乗った。真弓ほどではないとはいえ、彼ほどの能力を持つ研究者なら、多くの研究所や企業が求めるはずだというのに。


「……誘った私がこんなことを言うのも変だけど、本当にいいの?」


「いいんです。僕は先輩の行くところになら、どこにでもついていきますから」


 軽蔑するだろうな。その時のことを思い出して苦しい気持ちになった。


 だけどここで諦めるわけにはいかない。この新薬が完成すれば私は──


 そう思った時だった。


「やっぱり、ここにいたんですね」


 扉のほうから声が聞こえた。誰もいないと思って開けっ放しにしてしまったのだ。


 それよりも真弓はいま聞こえた声の主をみて、足元が崩れ落ちるような気持ちになった。


「残念です、所長」


 そういって哀しい顔を浮かべていたのは、もう帰っていたはずのマコトだった。


「マコト君、なんで」


 狼狽する真弓が震える声で隔離研究室に入ってきたマコトに言った。


「前から所長が夜遅くまで残ってひとりで研究に没頭しているとは知っていましたが、どんな研究をしているのか誰にも教えてくれなかったので気になっていたんです。なぜ僕にも隠していたんですか」


「それは……」


「教えてください。この隔離研究室で一体、何をしていたんですか」


「言えない、そんなの」


 真弓が掠れた声でそう言っても、マコトの追及は止まらなかった。


「もし何も言ってくれなかったら……明日、ここに保健局を呼んで調べてもらいます」


「だ、だめ! それだけは……」


「僕だってこんなことしたくはありません。所長のキャリアと夢の結晶であるこの研究所を破滅させるようなことは……だから正直に言ってください。あなたは一体、何をしていたんですか」


 まっすぐな目でマコトに見つめられた真弓は何も言えなかった。


 もう、肚を決めるしかない。そう真弓は決意すると冷蔵庫の扉を開け、薬品の入った試験管を取り出した。


「それは?」


 そうマコトが尋ねた次の瞬間、真弓は試験管の中の液体を彼の顔にぶちまけた。


「なっ、何をっ」


「ごめんなさい、本当にごめんなさい、マコト君」


 自分は最低の女だ。そう自分を責めながら真弓は目の前で顔を覆うマコトの姿をみた。


 だがマコトの顔に薬品をかけてから、彼の様子が変わる気配はなかった。そのことにマコトも、そして真弓自身も驚きの色を見せた。


 そんな、実験結果の通りなら、もうとっくに彼の行動に変化が起きているはずだというのに。


「とりあえず、今のところは何もないようですが……教えてください、いまあなたが僕にかけた液体は何だったんですか?」


 そうマコトに訊かれた真弓はがっくりとうなだれた。


 もう、観念するしかないみたいだ。彼女はゆっくりと口を開いた。


「……その薬品は被験者の脳内ホルモンを分泌させて、交感神経を活性化して他者に対する感情を増幅させることを目的として開発したの」


「……はい?」


「つまり惚れ薬ってこと! 別に生物兵器作ってるとかじゃないから!」


 思わず大声をあげた真弓に、全く予想外の返答がきたマコトは明らかに戸惑っているようだった。


 言いたくなかったがこうするしかなかった。あのままマコトが保健局に通報し、ここに踏み込まれた日には目も当てられない。


「だけどどうして惚れ薬の開発なんか……どこかの企業に依頼されたんですか? それなら教えてくれても良かったのに」


「違う。どこかから依頼されたんじゃなくて、自分が欲しかったから隠れて作ってたの。この部屋なら誰にも見つからないと思ったし……」


「どうしてですか、所長なら引く手あまたのはずなのに」


 ああ、もう! マコトのその言葉で真弓のなにかがぷつんと切れた。


「君がニブすぎて全然こっちの気持ちに気付いてくれないからこんな薬作るしかなかったの!」


 そういって真弓はマコトの胸ぐらを掴んだ。掴んだところがかけた薬品で湿っていた。


「はは、言っちゃった……薬は効かないし、自分で全部ぶちまけちゃったし、もう、サイテーじゃん、私……」


 胸に秘めていたものを全て吐き出してしまった真弓は掴んでいた手を緩めると、力なく冷凍庫に腰掛けた。


 完全に嫌われた。こんなことを知られて、もう元の関係に戻れるわけがない。これまで彼との間で築き上げてきたものが、全部壊れてしまった気がした。


 熱い涙が真弓の頬を伝った。するとそんな彼女の肩に、マコトが手を置いた。


「先輩」


「やめて、慰めとかいいから」


「先輩の作った惚れ薬に本当に効果がないのか、被験者が僕では実証できないと思います」


「……どういうこと?」


 真弓が顔をあげてマコトの顔を見た。そういえば、彼に「先輩」と呼ばれたのはずいぶんと久々な気がする。


 そう思っていると、マコトはなにか決意したような表情を真弓に向けた。


「被験者が既に恋愛感情を持っていたら……惚れ薬を使っても意味はないかもしれませんから」


「それって……」


「真弓先輩。ずっと前から、僕はあなたのことが好きでした」


 マコトの告白に、真弓の心は掻き乱されたように激しく混乱した。


「そんな、今までそんなことひとことも言ってくれなかった」


「……言えるわけありませんから。僕のような人が、先輩とだなんて」


「だけど……君が私のこと好きになるはずない。いつも私の無茶に付き合わせているのに……」


「好きだからどんな無茶にも付き合っているんです」


「そんな、こんなのありえない」


 次々とマコトの口から放たれる言葉に、真弓は受け留め切れる気がしなかった。


 冷蔵庫にもたれていた彼女の手が装置の上を滑った。


 するとその拍子に温度調節のボタンが入力され、ピッと音が鳴ると低温状態に保たれていた冷凍庫内の温度が急上昇した。



この物語はフィクションです。

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