「わたしは後悔してる」
ハーティアの煽りに怯えるウィルを、わたしは無理やり外へ連れ出した。
「え? え? 先生、いったいどこへ……っ?」
「いいから、こっち来て」
「だってもう演奏が……出番が来ちゃうっ」
「いいからっ」
植え込みの陰に隠れ、周りの目が無いのを確認すると、すうぅぅぅ~っと息を吸い込んだ。
吸い込み吸い込み気合を入れると──後ろから、ガバリと抱きしめた。
「………………っ!!!!!?」
激しく動揺するウィルを落ち着かせるために、ぎゅっと強く力をこめた。
少し前にクロードが、わたしのためにそうしてくれたように。
「いい? ウィル、聞いて?」
「ふぇあおうやぐあぎぬっ?」
「バグってないで、話を聞いて?」
「ひゃ、ひゃいいぃぃぃぃっ!?」
とにかく話を聞いてもらわなきゃと、強く強く抱きしめた。
小さな背中に胸を押し付けながら、いい香りのする頭に頬を当てながら、ゆっくり、ゆったり、解きほぐすように言葉を紡いでいく。
「……ねえ、ウィル。あなたはたしかにいいコよ? 素直で、真面目で、可愛くて、ピアノだって上手で。どこへ出したって恥ずかしくない立派な生徒。でもそれは、しょせん生徒としての話なの」
「え? え? それってどういう……っ?」
突き放されたように感じたのだろう、ウィルが不安そうな声を出した。
首に回したわたしの腕を、思わずといったように強く握って来た。
「ピアノ弾きはね、他の楽器奏者とは違うの。どこまで行ってもしょせんひとりなの。伴奏、共演、オーケストラ。演奏形態としてはいくらでも広がるけれど、最後はやっぱりひとりなの。なぜなら、ピアノはそれひとつですべてがこなせる楽器だから」
「すべてを……こなせる?」
「88個の鍵盤があり、その分だけの音域がある。ペダルや打鍵の強弱で音を色付け出来る。指の数だけ同時に音を鳴らせる。だから楽器の王様と呼ばれてる。そしてそれ故に、ピアノ弾きは孤独でもあるの。ひとりでなんでも出来るが故に、他を必要としないが故に。だからこそ──他に言い訳がきかないの」
「言い訳が、きかない……?」
「成功してもひとり、失敗してもひとり。聴衆は、その日その場の演奏ですべてを判断する。指が動かない、頭が重い、お腹が痛い、寝不足だ、恋人にフラれた、身内が死んだ。体調が悪くても、精神状態がまともでなくても、たとえそれがどうしようもないものだったとしても、絶対に許してはくれない。罵声を浴びせられ、時には物を投げつけられることもある」
「そんな……そんなの怖いじゃないですか……っ」
これから先に待つ演奏のことを思ってだろう、ウィルはぶるりと身を震わせた。
自らもまたそういった立場に置かれるかもしれない、その恐怖に喉を詰まらせた。
「そうだよ、怖いんだ。練習じゃないってことは、本番で誰かに聴かせるってことは、ホントに怖いことなんだ。でもピアノ弾きはやるんだよ。怖いけど、おっかないけど、そのつど真っ正面から挑むんだ。なぜならその先に、『光』があるのを知ってるから」
「ひかり……?」
思ってもみなかっただろう単語に、ウィルが不思議そうな声を出す。
「勝つとね、よく聞こえるんだ、よく見えるんだ。お客さんの拍手が、足踏みが、口笛が、歓声が。それらが一斉にね、どわっと光の洪水のように降り注ぐのがわかるんだ。そういう、世の中のすべてが自分を祝福してくれるかのように感じる瞬間があるんだよ。無常の闇を煌々たる月光が照らすように、それは最高の瞬間なんだよ」
「…………その瞬間を感じるために、先生はピアノを弾いてるんですか?」
「うん。もっとも、最初はもっと小さな範囲でだったんだけどね。……わたしはね、最初はママに褒めて欲しかったんだ。ママの褒め言葉が、笑顔が、わたしにとっては何よりの光で……それさえあれば良くて……」
それはもう、失われてしまったものだけど……。
「ウィルにだって、そういうことがあるんじゃない? たとえばウィルのママが」
「ボクの……お母さんが……?」
考えこむようにうつむき、一分……二分……。
ウィルはやがて、雨垂れのようにゆっくりと話し始めた。
「……うん、ありました。といってもホントに小さい頃の話ですけど……。お母さんは、いつもボクを、褒めてくれました。高さの合わない椅子に座って、ポン、ポンって、人差し指だけでひとつひとつ音を鳴らしているのを。曲の形にすらなってないひどいものだったのに。お母さんはそのつど言うんです。嬉しそうにボクの肩を叩いて、『やるじゃない』って、『あんたって、天才かもね』って、『さっすがあたしの自慢の息子』って。そうだ、あれがボクは……すごく……嬉……しく、て……っ」
ママとの思い出を鮮明に思い出したのだろう、ウィルがぐずりと鼻を鳴らした。
流れる涙を拭うため、盛んに手を動かした。
動かして、動かして──やがて強くかぶりを振った。
「でも、ボクは知ってるからっ。自分が先生みたいな天才じゃないって。いくら光が見たいと思っても、思ってるだけじゃダメなんだって知ってるから……っ、だから……っ」
「ウィル……」
泣き続けるウィルの頭に、わたしはそっと口づけた。
「ねえ、聞いて? それはわたしだってそう。やれば必ず成功するわけじゃない」
「……先生も、失敗を?」
「もちろんよ。わたしだって失敗するし、負けることだって当然ある。でも、やらなきゃ光は降って来ないんだ」
「で、でも……っ。普段ならそれでよくてもっ、今回のはボクだけの失敗じゃなくてっ、先生にも迷惑が……っ」
ウィルは恐れている。
失敗することを、負けることを。
何より、他人に迷惑をかけることを。
昔、テオさんやアンナに味わわせたのと同じものをわたしに味わわせることになるのではないかと、恐れている。
あの頃を恐れるが故に。
ママを失った悲しみを恐れるが故に。
「ウィル……」
わかるよ。
とってもよくわかる。
だってそれは、かつてわたしも通った道だから。
村浜沙織に負けて、それを何度も繰り返して。
そのつどママに怒られて、叩かれて。
辛くて、辛くて、惨めでさ。
だからわたしは逃げ出した。
ママを罵って、最低の言葉を口にして。
目をつむって逃げ出した。
……でもね、ウィル。
それからわたしは、ずっと後悔してるんだ。
十数年が経過して、一度は死んで。
こうして別の世界で暮らしていてすら、思い出さない日はないんだ。
あの時ああしていたら。
あの時こうしていたら。
身を焼くような、胸を切り裂くような、終わりのないこの痛みを。
……ねえウィル、わたしはね?
決してあなたに、味わって欲しくないんだよ。
だけどそれを、その気持ちをそのまま伝えることは出来ない。
だからわたしは笑った。
考えられる限りの最上級で。
「ウィ~ルっ、先生を見損なわないでくれるかな?」
小さな弟子から身を離すと、口角を上げた。
これ以上ないくらい陽気に、カラッと、太陽のように。
「ねえ、わたしがそんなことを気にするような人間だと思う? ちょっとやそっとの失敗ぐらいで絶望するような人間だと思う?」
「お、思いませんっ。先生はすごい人だからっ。ボクなんかが想像もつかない高みにいて、音楽そのものを大きく改変するような人だからっ。人間性も素晴らしくてっ。絶対絶対っ、そんなことで絶望するような人じゃありませんっ」
ウィルは慌てたように言葉を重ねる。
さすがにそれは過大評価だと思うけども、この場はまあいいか。
「ふふ。ありがと、ウィル。あなたがわたしのことをよく思ってくれているように、わたしもあなたのことをよく思っているんだよ。さっきも言ったように、素直で、真面目で、可愛くて、ピアノだって上手で。どこへ出したって恥ずかしくない立派な生徒で。だからこそわたしは、わたしもウィルと一緒に弾きたかったんだ。ふたりで楽しくピアノを弾いて、そんでもって勝って、肩を抱き合いながら光を見たかったんだ」
「先生も……ボクと……っ? ホントですかっ?」
思ってもみなかった言葉だったのだろう、ウィルが目をまん丸く見開いた。
「ウィルだってそうでしょ? わたしと一緒に勝って光を見たいでしょ?」
「み、見たいですっ。ボクも、先生とっ」
わたしの言葉がよっぽど嬉しかったのだろう、ウィルはパアっと顔を輝かせた。
それまでの絶望顔がウソみたいに、明るく息を弾ませた。
「ようーしっ、その意気だっ」
頭をわしゃわしゃしてやると、ウィルはくすぐったそうに身をよじった。
「行こうぜ、ウィル。ふたりで勝つんだ。もし失敗したとしても気にしない。その時はふたりで反省会をしてさ、次の機会を窺うんだ。それをずっと繰り返すんだ。ピアノ弾きってのは、どこまでいってもそういう生き物なんだから」
「じゃ、じゃあ先生はっ。失敗したとしてもまたボクと組んでくれるんですねっ?」
「あったりまえでしょ。てかさ、ウィル。失敗失敗いうのはなしね。勝つつもりで行かなきゃ勝てるもんか。わたしたちは勝つんだよ。ハーティアたちを音楽でぶっ飛ばすんだ」
「は、はい……っ。あはは、そうですね、そうですよねっ。ボクったらずっと負けた時のことばっかり考えて……っ。そうだ、次のことなんか考えてる場合じゃなかったんだっ。目の前にある戦いに全力を尽くして……それで勝つんだっ。先生と一緒にっ」
これで終わりじゃない、まだ次がある。
その保証がこれ以上ない勇気となったのだろう、ウィルの瞳に光が宿った。
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