「抱きしめたい」
~~~クロード視点~~~
誰かを抱きしめたいと思ったことなど、今までなかった。
主人の人生を輝かせるための黒子に徹する、それが産まれついての執事である彼の役割であったから。
自らの意志であるとか衝動であるとかいったものを表に出そうなどという発想がそもそもなかった。
にも関わらず、彼は一歩を踏み込んだ。後ろから抱きしめた。
そこにテレーゼの意志は一切介在していない。すべて彼の独断であった。
独断ではあったが、自らこうと決めてした行いではない。
半ば無意識に近い行動であった。
(なぜわたしは、このようなことを……?)
抱きしめながら、クロードは激しく動揺していた。
反射的にとってしまった自らの行動の意味がわからず、戸惑っていた。
(なぜ抱きしめた? この行動になんの意味がある?)
自問しても答えは出ない。
時間だけがゆっくりと、粘性のある水のように流れていく。
「え? え? え?」
(いかん、お嬢様が不審感を抱かれている……っ)
「え? あれ? なんで? なんでこんなことに? あれえええ~……?」
(答えなければ……今すぐ説明しなければ……っ)
いくら焦っても答えは出ない。
脳はただただ硬直し、時間のみが流れていく。
そうこうするうちに、やがてテレーゼの方が先に理由を見つけてくれた。
「ねえ、クロード。これってもしかして、この間のオペラのやつ?」
(……そうだ、それだ!)
バーバラを牽制するために行ったデートの日。
ふたりで見たオペラの中で、主演男優と女優がこんな姿勢をとっていた。
「………………はい。あの時たしか、主演男優の方が家族を失い嘆き悲しむ女優の方をこうしていたので。寂しくしている女性にはこうすべきだと、そうおっしゃっていたので」
絶好の理由にたどり着いたクロードは、ほっと安堵の息を吐いた。
(本当はそこまで深く考えてした行動ではなかったのだが……まあ構うまい。こういった状況でとるべき行動として頭の中に蓄えられていた知識がとっさに出たのだ。順番が逆になっただけの話だ)
そんな風に自らに言い聞かせていると……。
「出会いのシーンを七回やり直したとは思えない素晴らしい対応だね。褒めてあげる」
テレーゼが、そっと愛おしむようにクロードの腕を撫でた。
「……そうだね。たぶんわたしは、寂しかったんだ。故郷を遠く離れて、もうそこには戻れないことを知っていて。新しい日常はきらきらまばゆくて楽しいけど、どこかにはまだ引っ掛かりもあって……」
「お嬢様。お嬢様はやはり主家にお戻りに──」
なんだかんだ言っても生家だ。
バルテル家に戻りたいのだろうと思って問いかけたが……。
「違うの。そうじゃないんだよクロード。戻りたいわけじゃないんだ」
しかしテレーゼは、あっさりと否定した。
「どうあれ、わたしはここで生きていく。それは変えようがないことなの。そして、変えるべきでないとも思ってる。どうしてそう思うかって、それはとっても説明しづらいんだけど、とにかくそうなんだ。わたしはずっと、ここにいる」
「お嬢様……」
「だけど時々寂しくなることがあって、それは避けようのないことで……だからたまに、こうして弱みを見せるかもしれない。そういう話なんだよ。なんだか混み合った説明で、ごめんだけど」
「お嬢様……」
嘘をついているようには見えない。誤魔化しも感じられない。
故郷への慕情はあれど、深い部分で諦めているといったところだろうか。
(わたしが不甲斐ないばかりに、お嬢様にこんなことを……っ)
クロードは激しく悔いた。
かつては公爵家の令嬢としてバラのように誇り高く花開いていたテレーゼが、罪を糾弾され婚約を破棄され主家を勘当され王都を追放され、遥かグラーツの都まで流され流され。
いつの間にかこんなことを言うようになってしまった。
自分の不甲斐なさが、そうさせた──
(あの時わたしにもっと力があったら……。バーバラ様の思惑に気づき、事前に手を打てていたら……)
今さらどうしようもない問いかけだったが、それでもクロードは繰り返した。
(わたしがすべてを完璧に行っていたら……。そうすればお嬢様に、こんなセリフを言わせることはなかったはずだ……)
「ありがとね、クロード。いつもわたしの傍にいてくれて。慰めるためとは言えこんな風に抱きしめてくれて。……えへ、えへへへへ……。だけどちょっと……さすがに恥ずかしいから。もうこの辺で……ね?」
体を赤熱させたテレーゼが、ぽんぽんと腕を叩いてきた。
「……っ!!!?」
その段になって、クロードはようやく気づいた。
落ち込んでいるレディに優しくし、勇気づける行為それ自体は尊いものだ。
しかしこれは……この状況は見る者が見れば……。
「も、申し訳ございませんお嬢様っ。わたし如き者がお嬢様の柔肌に……っ」
クロードは慌てて身を離すと、地面に片膝をついた。
胸に手を当て頭を垂れて謝罪した。
昔のテレーゼなら、ステッキで殴りつけるぐらいのことはしてきたはずだ。
しかし今のテレーゼは、クロードを責めようとしなかった。
ただただ顔を赤くして、照れたように笑うと。
「いやいや、いいんだよ。いいんだ。こんなの、むしろ申し訳ないのはこっちの方でさ……」
ぶつぶつと、彼女が時おり見せる不思議な言葉を発し始めた。
「あのさ? 変な例えなんだけど、ついつい電車の席で寝ちゃう時とかさ、あるじゃない? むしろ通勤時間がわたしの睡眠時間みたいな部分があるじゃない? でもそうゆー時って、必ずしもまっすぐな姿勢を保ってはいられないじゃない? どちらかに微妙に傾いて、運が悪いとそこに男性の肩があったりして……。そうゆー時にさ、JKとかなら平気なんだ。そんなの世間の多くの男の人にとってはラッキーで、むしろ勲章で、そのまま放っておいてくれるんだ。でもわたしの場合はそんな風にはしてくれないの。なんだこいつって、肩でえいやっと突き放されてたりしてさ……てあっ? ご、ごごごごめんねっ? またわけのわかんない比喩を使っちゃったね? えとえと、今のはさ……っ」
異国の魔法のような言葉の羅列を聞きながらクロードは、激しく動揺していた。
破裂しそうなほどに鼓動を繰り返す自らの心臓に手を当てながら、強く強く唇を噛んだ。
(なんだ……どういうことだこれは……?)
テレーゼはとうに立ち直ったように見えるのに。
いつもの彼女に戻ったように見えるのに。
ならばもう、それは必要ないというのに。
(どうして未だに……わたしは……っ)
この人を、抱きしめたいと思っているのだろう──
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