「抱きしめられて」
「わたしはお母さまの期待には応えられなかったからさ。だから色々考えちゃったの。そんだけ。あはは、ごめんね? 心配かけた?」
うじうじ悩むのはもうおしまいと、わたしはけらけら陽気に笑った。
さあ明日もがんばるぞいとばかりに拳を握ると、呆けたように立ち尽くすクロードを促し歩き出した。
歩いて、歩いて、歩いて……不意に目の前を何かが横切った。
なんだろうと思った瞬間、首に何かが回された。
軽い圧力と共に、わたしの体は後ろへ引っ張られた。
「え? え? え?」
何が起こったかは、すぐにわかった。
いわゆるバックハグ。クロードに後ろから抱きしめられたのだ。
いや、それ自体はわかるんだけど……。
「え? あれ? なんで? なんでこんなことに? あれえええ~……?」
全身を赤熱させて頭から湯気を出して、わたしはとにかく動揺した。
いやいやいや、どうしてこんなことになったんだ?
今のやり取りの中に、クロードがわたしを抱きしめる必然性ってあったか?
あ、もしかしてマンホールの蓋が開いていて、わたしが落ちそうになったから?
いやいやいや、目の前に続くのは綺麗に舗装された道で、紙屑ひとつすら落ちていない。
あ、もしかして馬車に轢かれそうになったから危ないと思って?
いやいやいや、どこにも馬車なんて走ってないし、そもそも周りには人っ子ひとりいない。
柔らかな明かりを投げかける街灯の下、わたしとクロードのふたりきりだ。
……そう、ふたりきりだ。
背が高くたくましいクロードが、ぎゅっと後ろから抱きしめてくる。
夜道でふたりきり……暖かいバックハグ……それで何も起こらぬはずもなく……。
え? え? なんですかこれはワンチャンあるんですか?
向こうの世界での人生含めて生きてる間中彼氏のかの字もなかったわたしに、とうとう春が来るんですか?
しかしなんだってまた急にこんな状況で?
こんな状況で……こんな状況で………………あ、そうか。
わたしはようやく、その可能性に思い至った。
いやいや、ホントにごめんねポンコツで。
クロードともあろう男が、レディファーストの紳士の鑑が、ただの衝動でこんなことするはずないもんね。
「ねえ、クロード。これってもしかして、この間のオペラのやつ?」
バーバラを牽制するために行ったデートの日。
ふたりで見たオペラの中で、主演男優と女優がこんな風な体勢になっていたのだ。
「………………はい。あの時たしか、主演男優の方が家族を失い嘆き悲しむ女優の方をこうしていたので。寂しくしている女性にはこうすべきだと、そうおっしゃっていたので」
「ふふ、なるほどね」
なんと真面目な、純粋な、クロードらしい理由だろう。
わたしは思わず笑ってしまった。
「てことは、わたしが寂しく見えたんだ?」
「……はい、申し訳ございません」
「ふふふ、何を笑ってるの。いいんだよ。これで正解」
力強いクロードの腕にそっと触れた。
それは硬く暖かく、触れたところから頼もしさと温かさが伝わってくるようだった。
「出会いのシーンを七回やり直したとは思えない素晴らしい対応だね。褒めてあげる」
頼りになる相棒の腕を撫でていると、急に愛おしさがこみ上げた。
自分より遥かに年下の青年が見せてくれた真心に、胸がきゅんとなった。
何か気の利いたことが言いたかったんだけど、言えなかった。
だからただただ、心の内を口にした。
「……そうだね。たぶんわたしは、寂しかったんだ。故郷を遠く離れて、もうそこには戻れないことを知っていて。新しい日常はきらきらまばゆくて楽しいけど、どこかにはまだ引っ掛かりもあって……」
「お嬢様。お嬢様はやはり主家にお戻りに──」
「違うの。そうじゃないんだよクロード。戻りたいわけじゃないんだ」
テレーゼとしてはそれが出来れば一番いいんだろうけど、絵里としてはそれじゃダメなんだ。
「どうあれ、わたしはここで生きていく。それは変えようがないことなの。そして、変えるべきでないとも思ってる。どうしてそう思うかって、それはとっても説明しづらいんだけど、とにかくそうなんだ。わたしはずっと、ここにいる」
「お嬢様……」
「だけど時々寂しくなることがあって、それは避けようのないことで……だからたまに、こうして弱みを見せるかもしれない。そういう話なんだよ。なんだか混み合った説明で、ごめんだけど」
「お嬢様……」
クロードが、低い声でわたしの名を呼ぶ。
生まれたての子猫を扱うかのように、優しく愛おしげに抱きしめてくれる。
「でも大丈夫。大丈夫だから、そんなに心配しないで。わたしは知ってるから。わたしにはクロードがいる。わたしがどんだけ無茶をしても呆れず、わたしがどんだけ失敗してもフォローしてくれる。世界中のすべてが敵に回ったとしてもなお守ってくれる、あなたがいる。それを知ってるから」
バーバラに糾弾されていたところを身を挺して守ってくれた時、わたしは本当に嬉しかった。
向こうの世界でそんなことをしてくれる人なんていなかったから、嬉しくて嬉しくて、ちょっぴり泣いちゃった。
「ありがとね、クロード。いつもわたしの傍にいてくれて。慰めるためとは言えこんな風に抱きしめてくれて。……えへ、えへへへへ……」
急に恥ずかしくなってきたわたしは、ぽんぽんとクロードの腕を叩いた。
「だけどちょっと……さすがに恥ずかしいから。もうこの辺で……ね?」
顔を真っ赤にしながら言うと、クロードは身に電流でも流れたかのようにバッと慌てて身を離した。
「も、申し訳ございませんお嬢様っ。わたし如き者がお嬢様の柔肌に……っ」
その場に片膝をついて謝罪してくるが……。
「いやいや、いいんだよ。いいんだ。こんなの、むしろ申し訳ないのはこっちの方でさ……」
36歳喪女としては、若いイケメンに触れられると嬉しさよりも申し訳なさのほうが先立つのだ。
「あのさ? 変な例えなんだけど、ついつい電車の席で寝ちゃう時とかさ、あるじゃない? むしろ通勤時間がわたしの睡眠時間みたいな部分があるじゃない? でもそうゆー時って、必ずしもまっすぐな姿勢を保ってはいられないじゃない? どちらかに微妙に傾いて、運が悪いとそこに男性の肩があったりして……。そうゆー時にさ、JKとかなら平気なんだ。そんなの世間の多くの男の人にとってはラッキーで、むしろ勲章で、そのまま放っておいてくれるんだ。でもわたしの場合はそんな風にはしてくれないの。なんだこいつって、肩でえいやっと突き放されてたりしてさ……てあっ? ご、ごごごごめんねっ? またわけのわかんない比喩を使っちゃったね? えとえと、今のはさ……っ」
またぞろしでかしてしまった現代用語の不正使用を誤魔化し誤魔化し、わたしはクロードから目を逸らした。
顔の赤みは収まるところを知らず、胸の鼓動は早く高く鳴り続けた。
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