「ウィルという少年は②」
「いい機会だから、ちょっと話を聞いて行ってくれねえか?」
そう言うと、テオさんはカウンターの上に秘蔵っぽいワインとグラスを3つ。
つまみなのだろうナッツを小皿に盛ったのをドンと置いた。
さすがに断れる雰囲気じゃないなと、わたしはクロードと目くばせしてから席に座った。
クロードはさも当然とばかりにうなずくと、わたしにならって隣に座った。
グラスに注がれたワインは固辞して、代わりにぶどうジュースを頼んでいたけれど。
「それで、話というのはウィルのことですか?」
「ああ、あいつの生い立ちについてだ」
正直、興味があった。
どうしてあんなに真面目で、前向きで、素直な少年に育ったのだろう。
背中に羽根を生やせばああ天使かとうなずいてしまいそうな、あんな少年に。
自分自身があの年齢だった時には全然きちんと出来ていなかったから、そのぶん気になった。
「ミレーヌが……あいつのお袋が死んだのは、あいつがまだ5歳の時でな」
「5歳……」
「ああ、特別病弱ってわけじゃなかったんだがな。流行病にかかって、そのまま逝っちまった」
「それは……ご愁傷様です」
「いいのさ。俺はすぐに吹っ切れたから。……だけど、あいつの場合は時間がかかってな」
テオさんは、過去の痛みを懐かしむように目を細めた。
「5年前。当時はそりゃあもうひどいもんだった。あいつは毎日ポカンとした顔で客席に座って。あそこをずっと見てた。日がな一日、それ以外何もしねえ。話しかけても気づきゃしねえ」
テオさんの目線にあるのはステージ上のアップライトピアノと、高さの調整出来る専用の椅子。
「お嬢ちゃんの何代前になんのかな。とにかくこの店を開業して以来ミレーヌが弾いてたんだ。あいつはそれをずっと見てた。ずっと聴いてた。一曲終わるたびに手を叩いてな。まあー楽しそうだったよ」
年代物の素敵なアンティーク感があるなあとしか思っていなかったけど……そうか。あそこはウィルとミレーヌさんの思い出の場所だったんだ。
「今考えてみりゃ、あれは待ってたんだな。ふらっとどこかに行ったミレーヌが戻って来るのを、次の曲が始まるのを、座ってじっと待ってたんだ」
「……」
「だけど、待ってたって戻って来ねえものは戻って来ねえ。んで、ずっと待ってることも出来ねえわな。俺とアンナが辛抱強く支えてやって、促して、ようやくあいつはあそこを立つことが出来るようになったんだ」
「……」
テオさんとアンナらしいエピソードだなと思った。
優しく暖かい、当時のふたりのまなざしが目に見えるようだった。
「……だけどな。あいつ、客席を立った次の瞬間には、ピアノの前の席に座ってたんだ」
「それがもしかして……?」
「ああ、あいつが音楽院に入るのを決めた日だ」
「そっか……そうなんだ」
元々が真面目だったウィルという少年は──
テオやアンナを始め、多くの人に心配かけたことを重く受け止めたのだろう。
迷惑をかけたと、申し訳ないと。
だからこそ素直に明るく、前向きに生きようと考えた。
それがウィルのあの性格の理由。
そしてそのためには、どうしてもピアノが必要だったんだ。
もう戻ってこないミレーヌさんの代わりに自分がピアノを弾いて、店を支える。
それこそが恩返しだと信じたんだ。
「ミレーヌの代わりに店の看板になるってよ、ずいぶんとご大層な口を利きやがって」
「……ミレーヌさんは、ピアノがお上手で?」
「ああ、純粋な実力じゃお嬢ちゃんにゃかなわねえがな。人を惹きつける不思議な魅力があったんだ。いつも陽気でな……笑顔で。太陽みたいにみんなの気持ちを明るくさせてくれる奴だった。器量も良くてなあ……だからか、あいつ目当ての客が絶えなくてな……」
テオさんはふんわりと優し気に微笑む。
その視線の先にあるのは、一枚の肖像画だ。
アップライトピアノの上の壁に掛けられている、一枚の肖像画。
描かれているのは二十代半ばぐらいのひとりの女性だ。
栗色の髪の毛をバラの花飾りで結って後ろに流し、目の下には泣きぼくろがぽつんとひとつ。
唇をにっと引き、瞳を輝かせながらこちらを見ている。
今にもいたずらをしてきそうなやんちゃな笑みが実に魅力的で、実に可愛らしかった。
「だけどあいつがいなくなったらさっぱりさ。いくら他のピアノ弾きをあてがってもダメ。あの喧騒は戻って来なかった。売り上げもさんざんでな、正直そろそろ店を畳もうかとすら思ってた。……でも、そこへお嬢ちゃんがやって来た」
「……わたしが?」
「あんたのおかげで客足は戻って来た。むしろ以前より繁盛してるぐらいだ。ウィルについてもな。あいつ、あんたのおかげで変わったんだよ。無理して明るくするんじゃなく、無理して素直にするんじゃなく。下を向きたいのをこらえて上を見るんじゃなく。自然体でそれが出来るようになったんだ。本当に感謝してる。ありがとう」
「え? え? なんですか急にっ?」
いきなりテオさんが頭を下げてきたことに、わたしは驚いた。
なんとか顔を上げてもらおうと慌てていると……。
「感謝ついでに、もうひとつ頼まれてくれねえか」
「え? え? もうひとつって?」
「この先もあいつを……ウィルの面倒を見てやってくれ。ピアノのことだけじゃなく、人間として成長するために見守ってやってくれ。あいつは真面目で……真面目過ぎて無理するところがあるから。ミレーヌの代わりにって頑張るのはいいが、それで体を壊しちゃ元も子もねえからよ。なあ、俺はあんたを買ってるんだ。学校の先生にすら出来ないことが、あんたになら出来る。そんな気がしてるんだ」
「そんな……わたしなんかにそんなこと……っ」
ウィルの将来にまるごと責任を持つような、そんな真似が出来るわけない。
しかしテオさんは頑として譲らない。
まっすぐに、熱のこもった目でわたしを見つめてくる。
「うう……わかりました。わかりましたよう」
最終的に折れたのはわたしのほうだった。
「でも、わかんないですよ? かえって悪い見本になっちゃうかも。大口開けて笑って、大股で歩いて。かてて加えて大喰らいで大酒呑みで、淑女とは真逆にいるわたしを見習ったりしたら、ウィルがダメな大人になっちゃうかも?」
「あっはっは、それぐらいでいいのさ。ミレーヌもそんな感じの女だった」
わたしが承諾したことが嬉しかったのだろう、テオさんは肩を揺らして笑った。
「真面目過ぎるあいつにはちょうどいいだろ」なんて、機嫌良さげに。
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