「ウィルという少年は①」
さて、ハ―ティアに了解をとった上で四手連弾の練習を始めたわたしとウィル。
練習場所は主に音楽棟の演奏室で行うことにしたが、ハンネスの時とは違ってピアノが一台で済むのでバルで練習することも可能となった。
この辺はマニアックな二台四手との違いだ。練習時間が確保できるので実にやりやすい。
さんざん悩んだ末、曲は『亡き王女のためのパヴァーヌ』に決めた。
ラヴェルの最高傑作と名高いこの曲は、ソロとして弾くなら難易度は中級ちょい上くらいだろうか。
手の小さい子供にはいささか難しい曲だが、連弾にすると相応に難易度が下がるし、技術的にも勉強になるところがたくさんある。
わたしが書いた楽譜を受け取ったウィルは、「やっと先生と一緒に弾けるんだ、がんばるぞっ」と興奮しながら読み込み始めた。
よっぽど嬉しかったのだろう、熱心に集中して、食事の時すら手放さない勢いだ。
真面目な性格が幸いして、暗譜はすぐに終わった。
音楽解析もスムーズに運んだ。
ことにウィルは、この曲の背景が気に入ったようだった。
曲名の『パヴァーヌ』は16世紀頃のヨーロッパの王侯貴族の間で流行した舞踏の名前。
王女のモデルとされているのは17世紀のスペイン王女マルガリータ(ベラスケスの描いた少女の肖像画で有名な人だ)。
病弱だった彼女は政略結婚先で6人の子供を授かったがひとりしか生育せず、心無い廷臣たちに悪しざまに扱われた結果、自身も病を患い21歳の若さでこの世を去った。
宮廷で幼き彼女が踊っていたかもしれないというノスタルジーを込めて作られた曲の構造が、ウィルの琴線に触れたらしい。
好きこそものの上手なれ、はピアノにも当てはまる。
ウィルは日々メキメキと上達していった。
「ウィルってホント、大きくなったわよね。歳はまだ10歳なんだけど、半年前とは全然違うというか」
ある日の夜、バルでの演奏の終わったわたしはクロードと共に帰路についていた。
「最初はただがむしゃらに弾くだけだったのに、今じゃ自分に足りないところをすぐに見つけるし、そのつど上手いこと言語化してわたしに聞いてくるし、ホントに教えがいがあるというか……」
愛弟子ウィルの素晴らしさを滔々と語っているうちに、わたしはハッと思い出した。
「やば……っ、明日の授業で使う教科書バルに忘れて来たっ。朝学校行く時間にバルは開いてないし、そんな時間にわざわざ開けてもらうのも悪いし。気が利くウィルなら気づいて持って来てくれるかな? でも期待しておいてダメだったらキツイし、リリゼットに怒られるし……ああああああっ、やっぱ戻らなきゃかあああああっ」
クロードと共に慌てて来た道を引き返したわたしは、ギリギリでバルの閉店作業に間に合った。
店員さんたちが続々と帰って行くところを、遡るように入店した。
「良かった、セーフっ」
ぱたぱたと店内に駆けこんだわたしは、しかしそこで足を止めた。
アップライトピアノを前にテオさんとウィルが話をしていて、それがどうやら真面目な話のようだったからだ。
だったらこっそり教科書を持ってバルを出ればいいだけの話なんだけど、残念教科書はピアノの上に置いてあるのだ。
だったら断りを入れて取りにいけばいいだろう?
うん、まったくその通りなんだけど、ふたりの雰囲気に押されて割って入るタイミングを完全に逃しましたわたしです。
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「ね、お父さん。ボク今度、先生と一緒に四手連弾をすることになったんだ。ふたりでひとつのピアノを弾くんだ」
「ほう」
ピアノの椅子に座ったウィルが、雑巾を片手に振り返ったテオさんに話しかける。
「先生の曲で、しかも新曲なんだけど、もうすごいんだ。カッコ良くて、聴いてて惚れ惚れしちゃうの」
「ほう」
「ボクは下手だから高音部の担当なんだけど、時々は低音部の方も弾かせてくれるの。両方のパートを理解することが曲全体を理解することに繋がるからって」
興奮に頬を染めながら、ウィルはうきうきと説明する。
かつてテノール歌手を志していたテオさんは、うんうんと興味深そうに話を聞いてあげている。
「しかもすごいのはね、なんとドミトワーヌ夫人のサロンで演奏することになったんだ」
「ドミトワーヌ夫人といやあ、その界隈の大物じゃねえか」
テオさんは目を丸くした。
ガテン系の労働者や下町の住民がお得意様のバルとは全然違う、貴族や富裕層のみが訪れるサロンの主催者。
彼女に認められるということは、ピアノ弾きにとってかなりの名誉となることらしい。
「うん、そうなんだ。いろんなところからいっぱいお客さんが来て、しかもみんな偉い人で……」
「そいつは上手く弾かねえとな」
「うん、そうなんだ。だからボク、頑張って練習してるの。もちろんまだまだなんだけど、先生の教え方が上手いから自分でも腕が上がっていくのがわかって、それが面白くて……ねえ、お父さん?」
「ん、なんだ?」
にこにこと微笑むテオさんに、ウィルは真面目な顔で言った。
「ボク、いつか必ずプロのピアノ弾きになって見せるからね。お母さんがそうだったように、店の看板になって見せるから」
「ウィル……」
「これは本気だから。絶対絶対、なって見せるから」
熱く語り過ぎたと思ったのか、ウィルは顔を赤くして両手をわちゃわちゃ動かした。
「って言ってもまだまだ10歳だしね。その、プロになるのはもっとずっと先の話だけどね。だからその……気長に待っててっ」
ウィルは慌てたようにまくし立てると、店の奥から繋がる住居部分へと走って逃げて行った。
後には立ち尽くすテオさんと、わたしとクロードのみが残された。
テオさんは息子の成長に感動しているのだろうか、ピアノの前の椅子に座り込み、鼻を啜ったりしている。
こ……この雰囲気はまずい。
万が一立ち聞きしていたのがバレでもしたら、相当気まずい。
しかし教科書はあくまでピアノの上にあり……ああもういいや、諦めよう。
明日リリゼットに怒られればいいだけの話だ。
ならばあとは気づかれぬように退出するだけ。
ニッポンのシノビはクールに去るぜ。
せーの、抜き足差し足忍び足……ミシッ。
あああああああ、やらかしたああああああっ!
「誰かそこにいるのか?」
わたしたちが潜んでいた暗がりを、テオさんが覗き込んで来た。
「はあ? お嬢ちゃん、なんだってそんなとこに? 帰ったんじゃなかったのか?」
「いやー……そのあのー……話せば長い話なんですがー……」
ここに至るまでの経緯をかいつまんで説明すると、テオさんはお腹を抱えて笑い出した。
「あっはっは、そいつはどうもお嬢ちゃんらしいやっ」
「ホントすいません……大変失礼なんですが、この辺でわたしたちは……」
「おっと、待ちな待ちな」
いそいそと立ち去ろうとしたわたしたちを、テオさんは止めた。
「いい機会だから、ちょっと話を聞いて行ってくれねえか?」
秘蔵っぽいワインを取り出し封を切ると、カウンターの上に置いた。
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